3.ダンディ×叔父様
「やあ、葉月。久しぶりだな」
月に一度の女子会の翌朝。
いつもより2時間遅く起きた葉月がシャワーを浴び、寝癖を直し、トーストをかじり、ウィークエンドニュースを眺めていたそんな時。
出入り口に設置してあるインターホンが、ピンポーンと軽快に鳴り響いた。
彼女の住んでいるマンションは、いまどきそう珍しくもないコンシェルジュ常駐のものだ。
住人と許可を得た人間以外はまず郵便受けのある入り口でロックされた自動ドアに阻まれ、目的の部屋番号を押して住人に中から開けてもらわなければエントランスにすら入ることが出来ない。
そして目的の部屋までたどり着いたら、今度は部屋前のインターホンを鳴らして住人に鍵を開けてもらってようやく中に入れる、というわけだ。
彼女もここまでセキュリティ機能の高いマンションに住む気はなかったのだが、年の離れた兄が妹の一人暮らしをそれはもう心配し、最低ラインこんなところじゃなきゃ、と挙げられた候補の中から渋々選んだのがここだった。
「…………」
「…………?」
「ヴィンス叔父様っ!」
「お、っと。大歓迎だな、嬉しいよ」
今、出入り口のチェックをスルーして直接部屋にやってきたのは、休日だというのにブランド物のスーツをきっちり隙なく着こなした40代の男性。
くるくるとカールした毛先をはねさせないように短くまとめ、だが整髪料で撫で上げるというような野暮ったい真似はせず、ふわりと自然に整えている。
彫りの深い顔立ちに日本人とは明らかに違う肌の色、長い手足にすらりとしたシルエット、袖口からちらりと見える腕時計や裾からのぞく靴下でさえも嫌味なく、モデルのように全身コーディネイトされたスタイルは彼にとっては当たり前の『エチケット』なのだという。
切れ長、という言葉はこの人のためにあるのだと思えるほどの、涼やかな目元。
それが今は愛しげに細められ、至近距離で葉月を見下ろしている。
(いつ見てもどこで見てもダンディよねぇ……身内じゃなかったら……ってそうじゃなかったらそもそも会えてないわよね)
透けるような金の髪にひやりと冷たいアイスブルー。
生粋の外国人です、と紹介しなくてもわかるようなダンディな彼の正体は、葉月の母の弟……つまり正真正銘血の繋がった叔父である。
彼は普段生国であるイギリスに拠点を置いているのだが、重要取引先の本社が日本にあるためかたまにふらりとこうして立ち寄ってくれたりする。
とにかく遠いところから来てくれた叔父をいつまでも玄関先に立たせておくわけにもいかない。
ようやく頭が回転を始めた葉月は、彼の背に回した腕をほどいてどうぞとリビングに通した。
彼も、いつものことだと心得ているように、逆に葉月の背に腕を添えてさりげなくエスコート体勢をとってくれる。
そんな明らかに女性慣れしている態度に、彼女は嬉しく思う半面この麗しい叔父の華々しくないはずのない異性関係に思いを馳せ、少しだけ悔しくなってしまうのだが、勿論そんなことは言葉にも顔にも出せるはずがない。
代わりに彼女は、身内に甘える姪の顔を取り繕って叔父の横顔を見上げた。
「ねぇ、叔父様。今回は何日いらっしゃるの?」
「そう長くはいられないのだが……今日を含めて3日ほどだろうか」
「相変わらずお忙しいのね。でも逢いにきてくださって嬉しいです」
「そうやって喜んでもらえるなら、花のひとつも買い求めてくるのだったな。気が利かなくてすまない」
(ってことは、なにか今回はお手伝いできることがあるのかしら)
ヴィンス……ヴィンセント・シュナイダーが仕事の用事で急遽来日したというのはほぼ確定でいい。
ただ、その忙しい仕事に取り組む前にこうして葉月に会いにきたということは、純粋に葉月の顔を見たかっただけ、とは考え難い。
優しい叔父の顔を持つ反面、ビジネスパーソンとしての彼の顔は、中小企業のたたき上げの社長連中をも震え上がらせるほどに厳しく冷徹だ。
彼がこうしてあわただしく葉月に会いにやってきた、そのことから恐らく仕事絡みだろうとは予測をつけていたが、『歓迎してくれるなら花でも持ってくるんだった』というニュアンスからして、プライベートではないと葉月にははっきりと理解できた。
そうとわかれば、葉月の思考もビジネスモードに即座に切り替わる。
日ごろから可愛がってくれる大好きな叔父が頼ってきてくれたのだ、チートと嫌味を言われようが周囲に妬まれようが、そんなことはもう知ったことではない。勝手に言っていろ、の世界だ。
「ヴィンス叔父様、服装はスーツの方がいいかしら?それとも少し遊び心を取り入れた方が?」
早速準備を、と立ち上がって部屋に向かいかけた葉月は、ふと気になってくるりと叔父を振り返りそう訊ねてみる。
彼はパチリと一回瞬く間に彼女の変化に気づいたらしく、ビジネスの場では絶対に見せないとろけるような笑みを浮かべて
「そうだな、出向く先は取引先と言っても遠い親戚だ。カジュアル・エレガンス程度で充分だよ」
いい子だ、というようにひとつ頷いた。
(えーっとカジュアル・エレガンス……ってことは華やかさが必要、っと)
ヴィンスの言った『カジュアル・エレガンス』とは、礼服のようにドレスなどは必要ないものの普段のワンピースよりは華やかな、形式ばらない公の場などに相応しい服装、ということだ。
彼は『遠い親戚』と言っていた、ということはそこまで気を張る必要はないが、ヴィンスの連れとして恥じない程度に着飾れ、という意味だろう。
オフホワイトのAラインワンピースに黒のボレロ、普段は軽く結っている髪を肩に下ろして手早く内巻きにカールさせる。仕上げに控えめな大きさのピアスをつければ完成だ。
そうして部屋を出ると、頭のてっぺんからつま先まですいっと視線を滑らせたヴィンスが、いいだろう、というように小さく微笑んで立ち上がる。
『お嬢様、お手をどうぞ』とでも言うように差し出された腕を取ると、彼女は滅多に履かない7cmヒールのパンプスを履き、一気に現実に引き戻されるようなマンションの廊下に出た。
エスコートされて連れてこられた来客用の駐車場。そこに、一際異彩を放つ高級外国車がデンと鎮座している。
その助手席の扉を開けて葉月をゆっくりと座らせると、彼は優雅な足取りでくるりと運転席に回りこんでさっさと車を発進させてしまった。
その一部始終をエントランスや廊下から興味津々に眺めている他の住人のことなど、さっぱりまったく気にも視線の端にもとめずに。
(さすがは叔父様。興味本位な視線も慣れたもの、ってことね)
出入り口まで向かう途中何人かの居住者とすれ違ったが、皆呆然としたようにこの場違いな二人連れに見蕩れて足を止め、中にはヴィンスに見蕩れるあまり隣に立っている葉月を憎らしそうに見つめ、だが自分は勝てないと判断したのかすごすごと引き下がっていった、そんな女性までいた。
これが完全プライベートであるなら葉月もいい気分だっただろうが、あくまで仕事だと割り切っているため妬まれるのも睨まれるのも迷惑でしかない。
「ところで叔父様、そろそろ伺ってもよろしい?」
「なんだ?」
「打ち合わせは一宮の本家で?それとも遥斗さんのご自宅で?」
「お前は本当に……」
聡い子になったものだ、とため息交じりに告げられる。
そうやってヴィンスに褒めてもらえることが、葉月には何より嬉しかった。
彼女が未だ中学生だった頃、8歳年上の兄がストレートで司法試験に受かったことで、身内であっても滅多に褒めない叔父がその時ばかりは手放しで兄のことを褒めてくれた。
その時、まだ幼かった彼女は思ったのだ。ああ、私もああやって褒めてもらいたい、と。
彼女が名門高校を目指したのは兄の影響もあるが、第一にはこの有能な叔父に認めてもらいたかったから。
高校卒業を控え、大学に進学するかどうか迷っていた時に「契約社員として社会勉強してみては」と声をかけてもらったからこそ、今の彼女がある。
彼に認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて、そうしてがんばっているうちにリアルチートと囁かれるほどになってしまったのだ。
(動機は不純よね……今も昔も)
会話を先読みされることを上司が嫌っているとわかっていて、なおもそれをやめられないのは……そのスキルを身につけさせたのがこの叔父だから。
ビジネスの場でそれは必要だよ、と教えてもらったからだ。
彼は先ほど、『出向く先は遠い親戚』と言った。これが彼の与えてくれたヒントだ。
葉月の母はイギリスにあるシュナイダーという大きな家の分家出身で、父は日本でも有数の名家である一宮家のこれまた分家にあたる雨宮家の当主。
母の義弟であるヴィンスが『遠い親戚』と言い、また『取引先』と言うからには、選択肢はそう多くない。
一宮以外にもシュナイダー一族の遠い親戚はいるかもしれないが、その中でも彼が出向かなければならないほどの取引先となると、葉月には一宮くらいしか思いつかない。
そこそこ着飾らせた葉月を連れて行くというのが、その証拠と言えなくもない。
なにしろ、一宮はヴィンスにとっての遠い遠い親戚である上に、葉月にとっても父方の本家……遠い親戚にあたるのだから。
どうやら葉月の予測は当たっていたらしい。
運転中なのが残念だ、と彼は片腕を伸ばして彼女の頬に指を滑らせると、そのまま肩の上に置いてポンポンと軽く叩いた。
「今から行くのは遥斗君の家だ。そこでの会話を報告書形式にして、イギリスで待っている秘書に送ってもらいたい。後で送るのなら私がするのだが、交渉しながら報告書を打つとなると相手方にも失礼にあたるものでな」
「わかりました。こちらには来られなかった秘書の方に交渉の状況を伝えて、同時にあちらで動いていただけるようにすればよろしいんですね」
「そういうことだ」
なるほど、と葉月は小さく頷いた。
シュナイダーの代表として来ているヴィンスと、一宮の代表として会う御曹司の一宮遥斗。
本来同行すべき秘書はイギリスに待機させてあり、そのかわりに葉月が交渉内容を報告書という形にしてほぼリアルタイムでイギリスに送る。
それを見た秘書があちらで契約の準備などを整え、葉月に進捗状況をメールしてくる。
それを彼女が逐次ヴィンスに伝える、という役割のようだ。
よし、と葉月は内心気合を入れ直した。
これから逢いに行く一宮家御曹司、一宮 遥斗とは以前何度か顔を合わせたことがある。
本家と分家、という細いつながりしかないが、遥斗の祖母がシュナイダー家から嫁にきたということもあり、一宮・シュナイダーの双方向から見た親戚関係なのだから、と本家の集まりの際にそう挨拶されたことがあって以来の付き合いだ。
とはいえ、年に1回本家に出向いた際に会う程度ではあるが。
(一番最近お会いしたのって……確か奥様が懐妊されて……あれ)
どこかで見たような、と徐々に近づく邸の前に停まった車を見て、デジャヴを感じる。
良くある国産車ならそう気にもとめないのだが、スポーティであり同時に上品なシルエットでもあるその車は、高級車の代名詞のひとつになっている有名スポーツカーだ。
色も、街にあふれる真紅ではなく艶を消したマットなブラック。
こんな車を一宮家に乗り付けてくる存在など、葉月は今のところ一人しか知らない。
「……あの、叔父様?」
「今度はなんだ?」
「…………今回の打ち合わせ、一宮だけでなくうちの会社……瀧河グループにも関係のあるお話なのですか?」
「……どこでそれを…………ああ、車か」
なるほど、と今度はヴィンスが納得したように小さく頷く。
間近に迫ってスピードを落とした車のフロントガラス越し、涼やかなミントグリーンのワンピースを身に纏った瑠架の隣、オーバルタイプの眼鏡をかけた背の高い20代後半の男性……瑠架の夫であり葉月の間接的な雇い主でもある、瀧河恭一郎の姿がそこにはっきりと見えた。