20.嫉妬×セクハラ
シジョウ・コーポレーションとシュナイダー社の共同参画プロジェクトが始動した。
と言ってもメインはあくまでシジョウであり、シュナイダーはこれまで培ったノウハウなどを提供する、技術協力という立場ではあったが。
しかしシジョウ側はシュナイダー側を尊重するという意味合いで、自ら陣頭指揮に立つシジョウの御曹司四条拓人をプロジェクトマネージャーに、そしてその補佐役であるプロジェクトリーダーにはシュナイダー社の重鎮ヴィンセント・シュナイダーの名を掲げて、プロジェクトの開始を宣言した。
つまり立場としては同等、得られる利益も等配分ですよと宣言したに等しい。
プロジェクトの拠点はシジョウ側、つまり日本のシジョウ・コーポレーション本社内に置かれてある。
シュナイダー側からはヴィンスの代理人である彼の秘書、テオドア・フェリクスが長期出張という形で日本に滞在し、更にシュナイダー社がこのプロジェクトのために雇い入れた調整役、雨宮葉月も参加して主に資料作成やヴィンスへの報告、会議のセッティングなどの事務作業を任されていた。
とはいえ、通常女性社員が参加するとなればお茶汲みや食事の手配、コピーやシュレッダー、室内の掃除などの雑用をするものだという旧時代的な感覚が残っている社員がおり、最初の頃はごく自然に葉月に対して「コーヒー」と注文したり「ここ、汚れてる」と注意したりしていた。
葉月も揉め事を起こしたくないという思いから、出社したらすぐに室内の掃除、全員揃ったらコーヒーを配ることを習慣にしていたのだが。
「おい、コーヒー切れてる。淹れといて」
「わかりました。この計算が終わったらすぐにやります」
「はぁ?言われたらすぐにやれよ。社会人の基本だろ」
言われるだけありがたいと思え。
そんな、どこかかつての上司を彷彿とさせるような大上段な態度の男に、葉月が仕方なく立ち上がろうとしたその時。
立たなくていい、続けてくれとでも言うように拓人が追加の書類を葉月の前にそっと置き、「大至急で」と言い添えた。
そして何か言いたげな男の前には、外見優男風にしか見えないテオドアがにっこりと微笑んで立ち塞がる。
「有沢さん、最初の紹介をお聞きじゃなかったですか?彼女はプロジェクトの調整役としてここに仕事をしに来てるんです。飲み物は基本持ち込み、掃除も確か専門の業者が入っているはずですよね?四条さん」
「ええ、うちの系列子会社が2日に1度掃除に入っています。プロジェクトメンバー自らが掃除しないといけないほど汚れているようには思えませんが、次から毎日掃除に入るように言っておきましょう」
「ありがとうございます。……さ、これでもういいでしょう?彼女は今、うちのボスに送る報告書を作成してくれているんですよ。コーヒーでしたら外に自販機があるでしょうから、会議が始まる前にどうぞ」
「…………」
男は悔しそうに葉月をひと睨みし、舌打ちしつつ部屋を出て行った。
「……アレはダメだな。全くわかってない」
そうぽつりと呟いたのは、オブザーバー的な役割で参加していたヴィオルだ。
「雨宮さんのようなデキる女性には、味方よりも敵の方が多くなる。特に、封建的な意識を持っている男はダメだな。女はでしゃばるな、女は三歩下がって控えてろ、男の仕事に口を出すな。そういうことを平気で言うタイプだよ、アレは」
「うっわ、最低ですね、それ。……でもそれじゃ何で私は何も言われないんでしょうか?」
シジョウ側から参加している女性の営業部員が、わけがわからないという表情で首を傾げている。
もしあの男がプロジェクトに参加する女性全てをターゲットにしているなら、彼女も何かしら嫌味を言われたりするはずだ。
だがあの男が執拗に狙ったのは葉月だけ、その女性には殆ど関わろうとしていなかった。
そのことを指摘すると、ヴィオルは「それなんだよな」とひとつ頷く。
「君は、シジョウ側の人間だ。君をメンバーに任命したのは拓人だから、もしああだこうだと文句をつけたら拓人に睨まれる。けど雨宮さんはシュナイダー側の人間だろう?彼は知らないんだよ、ヴィンセント・シュナイダーという男を怒らせたらどうなるのか」
「……どう、なるんですか?」
「さあ?……どうなるんだろうか、セニョール」
話を振られたテオドアは、どうでしょうか、と笑みを深めた。
「四条さん、ここでのことは隠さず全て報告するようにとボスに言われていますが……よろしいですね?」
「…………仕方ありません。彼は確かに有能だが、それだけの男だったということです」
「わかりました」
それはつまり、あの男をプロジェクトから外せという依頼があっても、シジョウ側はそれに従うのだという意味だ。
次の日、葉月がいつものように早々にシジョウへと出社すると、会議室にコーヒーサーバーが用意されてあった。
そこにはご丁寧に『セルフサービスでどうぞ』と書いた紙が貼られてある。
早速拓人が手配してくれたのか、ミーティングテーブルもぴかぴか、床には大きな埃や紙くずなども落ちていない。
そして
あの有沢と呼ばれていた男も、結局姿を見せなかった。
「シュナイダー氏から言われたわけではないんだ。ただあの日、帰り際に待ち伏せされていてね」
役員用の駐車場前で拓人を待ち伏せしていたその男は、会社の立場もあるだろうからあの場では言いませんでしたがと前置きしてから、シュナイダー社側の態度はおかしいのだと主張した。
『ヨーロッパではどうだか知りませんが、ここは日本ですよ?日本のやり方に従ってどこが悪いんですか』
『男性であろうと女性であろうと、能力があれば登用するのは当然だと私は思っている。君の言う日本のやり方というものを私は知らないが、それはせっかく上手く行っているシュナイダー社との関係性を悪化させてまで優先させるべきものだろうか?』
『はぁっ……貴方は何もわかっちゃいない。お父上なら聞く耳を持ってくださっただろうに』
彼の言う『日本のやり方』とはつまり、最近になってようやくほんの僅か緩和されてきた【男尊女卑】という考え方のことだろうか。
ビジネスの場に女性は不要、もしいてもお茶汲みや掃除、コピーなどの雑用は女性が率先してやるのが当たり前、むしろそれが女性らしさというものだ……確かに今は亡き拓人の父なら、その言葉に同意していただろう。
かつてとある政治家が口にして非難を受けたように、『女性は子供を産む機械』くらいにしか思っていないあの父であるなら、女性を当たり前のように登用するシュナイダー社のことを軽んじ、プロジェクトの話自体断っていたかもしれない。
『御曹司と言えど、あの女にいいように取り込まれてしまったってわけですね。とても残念だ』
辞めてやりますよ、と投げつけられた言葉の通り、翌朝拓人が出社すると社内連絡用のメアドに有沢の退職届が送りつけられていた。
彼の所属していた部署に連絡を取ってみると、同じ書式が部門長宛にも届いていたらしく、その日は連絡もなく無断欠勤していることから、社会人の基本として会社に顔を出してきちんと挨拶するようにと上司から連絡させた、とのことだ。
「翌日、渋々顔を出して挨拶して行ったらしい。プロジェクトの方は幸い彼の部下が引き継いでくれたから、支障がでることはないはずだが」
「……それはいいんですが……」
「どうした?」
「…………彼は、私を恨んでいるでしょうか?」
元上司は、葉月のことがきっかけとなって会社を解雇され、かつての職場だった警察では厳しく事情を聞かれ、社会的にも家庭的にも充分すぎる制裁を受けた。
そしてまた一人、葉月に敵意を抱いて嫌味をぶつけたばっかりに、職を失った者がいる。
かつてのトラウマや罪悪感は乗り越えたものの、やはりこうも続くと自分の存在が何か他人に影響を与えすぎているのでは、と不安になってしまう。
俯き気味に考え込んでしまった葉月の髪を、運転席から手を伸ばした拓人がそっと優しく撫でた。
決して近づきすぎないように、馴れ馴れしくならないようにと、彼はこうしていつも紳士的に接してくれる。
休日の約束でこうして一緒に出かけることになっても、葉月が彼にきちんと返事をするまではと、距離感を保ってくれているのだ。
「厳しいことを言うようだが…………君は何か思い違いをしていないか?有沢が会社を辞めたのは、自分の意思で決めたことだ。君は有沢の嫌いなタイプだった、ただそれだけのことのように私には思える。なのに君は、どうしてそこまで背負い込もうとする?見知らぬ男の人生まで背負い込んで、それで満足か?」
『悲劇のヒロイン』になってやしないか、とそう拓人は忠告してくれている。
彼女の髪に触れる手はどこまでも優しいのに、口調はどこまでも冷ややかで容赦がない。
あぁそうだった、と葉月は思い出した。
彼女が純粋に憧れ、尊敬した四条拓人という人は誰に対しても公正であろうとする、いけないことにはいけないのだときちんと言える、真っ直ぐさと純粋さを未だ兼ね備えた、指導者としては些か頼りないかもしれない……だが皆に慕われるだけの魅力を持った、そんな男だったのだ、と。
公の顔で厳しく接しようとする口調と、私人として彼女を甘やかしたいと主張している優しい手。
その相反する二つの顔に、自分は確かに惹かれ始めているのだ、と自覚して。
「…………君まで、『ヒロイン』になってしまわないでくれ」
抱え込まないでくれ、一人で突っ走らないでくれ、私が受け止めるから。
どうか、私がいることを忘れないでくれ。
他にも、君を心配している人は大勢いるのだから。
『ヒロイン』であることに固執するあまり、心を壊してしまった義妹……あの時に感じた無力感を、再び味あわせないでくれ。
結局公人になりきれなかった優しすぎるその声に、「頼って欲しいんだ」とそう乞われ。
これまで身内の前以外では頑なに泣こうとしなかった葉月が、恐らく初めて身内以外の前で涙を流した。
「すみませんでした……」
どうするのが正解だったのか、葉月にはわからない。
もし最初に言われた時に彼の言葉に従わず、自分はチームメンバーなんだからと断りを入れていれば、きっと彼は生意気な女だと敵意をむき出しにしていたことだろう。
だからと言って唯々諾々と言うことに従い続けていれば、いずれその要望はエスカレートしていくことはほぼ間違いなく、その時点で逆らったらどうなっていたか……もしかするとかつての上司のように暴言を吐かれたかもしれないし、暴力沙汰になったかもしれない。
そうしてもし拓人やテオドアに頼ってしまっていたなら、男に媚びるだけの女だとバカにされていたはずだ。
(わからない。だけど…………私は、相談すらしなかった)
助けて欲しいというサインを出さなかった。
だからテオドアはわかっていても動かなかったし、拓人もヴィオルも動きようがなかったのだろう。
どうしたらよかったのか、どうしていれば丸く収まったのか。
そんなことをぐるぐると悩みながらも静かに泣き続ける葉月を、拓人はそっと抱き寄せた。
嫌だと言われないのをいいことに、その頭を引き寄せて頬を預ける。
「君がかつてお付き合いしていた男性達は、君の本質を見ようとはしていなかったんだろうか?君と向き合おうとはしなかったんだろうか?……君は『一人でも大丈夫』な『強い女性』じゃない。ごく普通の……悩みもするし間違えもする、怒ることだって泣くことだってある、そんな普通の女性だというのに」
触れ合ったところから直接身体に響いてくるような声に、彼女は危うく「好きです」と告げてしまいそうになった。
プライベートで男性と接していて、ヴィンスの面影を一時でも忘れられたのは今日が初めてのことだった。




