17.トラウマ×罪悪感
『葉月の容態が悪化したって、どういうことですか!ちゃんと説明してください、叔父さん!』
「……やれやれ。壁に耳あり、だな……使用人の教育を間違えてしまったか?」
『はぐらかすってことは、本当なんですね?……葉月は……あの子は今、どんな状態なんですか』
「お前がうろたえることではないだろう、透。少し落ち着きなさい。説明はそれからにしよう」
医師が駆けつけ、鎮静剤で葉月を休ませた後間もなく
日本にいる透からヴィンスの個人用携帯へと連絡が入った。
テレビ通話にしなくてもわかる、今の彼は顔面蒼白ですぐにでも倒れてしまいそうな様子なのだろう。
彼自身もほんの少し前には同じような状態だったことを綺麗に押し隠し、ヴィンスは「落ち着け」と穏やかな声で何度も繰り返す。
まるで、自分自身にも言い聞かせているかのように。
『…………申し訳ありません、取り乱しました』
ややあって、ため息交じりの声が謝罪の言葉を口にする。
まだ落ち着ききってはいないが、どうにか平静を保ったという口調だ。
『このところ連絡をいただいていた様子から見ても、かなり落ち着いたように思えていましたので……いきなり悪化したと聞いて、信じられなくて』
「いや。説明しておかなかった私にも非があるかもしれない」
『……叔父さんには、こうなることがわかっていらした、と?』
「わかっていた。いつ、どのように襲ってくるかはわからなかったが、いずれは来るだろう、と」
『だったら……だったらどうして……』
どうして、先回りして止めてくれなかったのですか。
透の声なき声が、そうヴィンスを責めている。
なんのために彼に預けたのか、療養のためではなかったのか、なのにどうして、と。
「透、お前達……お前や、葉月の友人達は、あの子に何も言うことはなかったのだな」
『……それは、どういう?』
「一人で抱え込むな。辛い時は甘えろ。そう忠告する者はいただろう。だが、あの子が立ち向かおうとしている現状をどうにかしようと、抱え込もうとしていることを分かち合おうと、あの子の制止を振り切ってでも強硬手段に出る者は、いなかったのだろう?叱ってでも、殴ってでも止めようとした者は、いなかったのだろう?それでは、今罪悪感に押し潰されそうになっているあの子と、同罪だ」
人とは、罪深いイキモノなのだね。私も含めて。
そう囁いて、ヴィンスは言葉を切った。
(野上隆……彼が被害者だとは、私は思わない。言うなれば自業自得だ)
確かに、聞く限りでは葉月の部下としての態度は一見すると毅然としているようでいて、だが上司を軽んじているような態度も見え隠れしているようだ。
彼女が次の目標のために陽菜を一人前に育てようとし、そのため上司である野上と教育方針が相反してしまったことで、しかしそのすり合わせすら無駄だと判断して自分の都合だけで陽菜を『まるで自分のように』教育してしまった。
そして、当時付き合っていた月城に彼女が惹かれ始めたことにすら、目を背けて容認しようと自分の心を押し隠した。
葉月が積極的に職場改善に動かなかったから、上司がつけあがった。
葉月が陽菜をフォローし続け、月城との間のことも隠し、勝手に追い詰められて倒れたから、そこで上司の人生が狂った。
そのことを、否定はしないけれど。
葉月は、自分のために陽菜を利用した。
自分の友人達の手をわずらわせるよりは、自分が穏便にいなくなってしまえばいいのだと全て背負い込み、それに失敗して多くの人を巻き込んだ。
それは、いけないことだ。許されないと言われても仕方がない。
だとしても。
それでは、上司はどうだった?部長は、月城はどうだった?
皆、自分を守ることに一生懸命で、ただそれだけだったのではないか?
彼らだけを責められないとしても、だからといって葉月が責められるのはおかしいのではないだろうか?
それに何より、野上は自分のむしゃくしゃする気分と馬鹿馬鹿しいプライドを守るために、それだけのために葉月に暴言を吐いた。
普段から、そのストレス解消とばかりに葉月にだけ辛く当たった。
葉月個人のことを差し引いても、これは許されていいことではない。
(野上隆は責任転嫁した。葉月は抱え込んだ。たったそれだけだが、大違いだ)
「さあ……果たして野上隆は、梧桐陽菜の成長ぶりをアピールするための当て馬だったのだろうか?それとも、ただの愚か者だったのだろうか?」
『…………俺には、答えられません。本人がどちらを選ぼうと、絶対に正しい答えなんてないんでしょう?』
「その通り。そしてそれは、葉月にも言えることだ」
野上なら恐らく、自分は被害者だと主張するだろう。その言葉は、半分正しくて半分誤りだ。
彼は、望まずして『被害者』になり、望んで『加害者』になった。
誰かが、何かを間違えた。ただ、それだけだった。
そうして、野上はそこから逃避して葉月に責任を押し付けた。
葉月は逆に、己の中に全て抱え込んだ。
現実的に処罰されたのは野上だけで、葉月は守られた。
だから余計に、葉月は罪悪感に苦しまなければならなくなった。
『俺は弁護士です。これまで何人もの依頼人と接見し、裁判に立会い、そうして求刑を覆せなかった時の絶望の表情を、一生忘れることはないでしょう。俺一人ではないにせよ、人ひとりの人生を左右する仕事です。後悔も罪悪感も不安感だって半端じゃない。でも、俺にとってはそれが仕事で……一人で全てを背負ってるわけじゃないとわかっています。卑怯かもしれないけど、まだ、そこに救われてるんですよ』
ああ、そういうことだったんですね。と透は通話開始時に比べたら雲泥の差で落ち着いた声でそう言い、これまでのことを思い返した。
(葉月は賢い。それに、信頼できる友人も多い。なのに、結局あいつは、誰も頼らなかった)
愚痴を吐き出すことはできても、どうにかして欲しい、助けて欲しいとSOSを出すことは出来なかった。
職場の環境改善に関しても、瑠架あたりに無理にでも頼み込めばすぐに動いてもらえたかもしれない。
月城とのことにしても、どうしたらいいのかわからない、と友人達に知恵を乞えばよかったかもしれない。佐々木に対し、協力して欲しいと頼み込めば、まだやりようはあったかもしれない。
陽菜の教育に関しても、朝陽がそうだったように一度上に相談して他の部課に預かってもらい、教育してもらえば上司もキレずにすんだかもしれない。
それらの大事なSOSを出さずに、抱え込んでしまったこと。それが葉月の『大罪』だ。
『……叔父さん、葉月はまだ……』
まだ、貴方の可愛い身内のままですか?
まだ、見捨てられてはいませんか?
そう問いかけようとして、透は口を噤んだ。
もしそうなら、今頃こうしてヴィンスがわざわざ時間を割いてくれているはずがないのだ。
彼が葉月を見捨てているなら、そもそも彼の邸宅になど住まわせてはいないはずだ。
透が言いかけてやめたことまで見抜いているのか、ヴィンスは目を細め薄く微笑む。
「罪深き者……私はそれを、己の罪を認められない者だと定義している。葉月は……私の愛する姪だ。これで答えになっているだろうか?」
『…………はい、充分です』
お前の妹にはまだ挽回の余地がある。
つまり彼は、そう告げたのと同じなのだ。
葉月は、その翌日の昼になって目覚めた。
目覚めてまたパニックになった時のためにと隣室に待機していた医師の診察にも淡々と答え、必要以上に気遣うメイド達にも小さく笑顔を浮かべてみせたほどの回復ぶりだった。
が、それが見せ掛けだったことがヴィンスの帰宅でわかった。
彼の姿を見た途端、彼女の涙腺は決壊した。
まるで子供のように、わあわあと声を上げて泣きじゃくる彼女を、ヴィンスはただ黙って抱きしめ続けた。
怖かった、辛かった、逃げたかった、羨ましかった、憎らしかった、これまで溜め込んでいたマイナスの感情を全て吐き出すように泣き続け、時折咳き込みながらもしつこく本音を吐露し続け、そして、疲れ果てて眠るまで。
ヴィンスはずっと、ようやく甘えることを知った姪の傍に寄り添っていた。
泣いて、泣いて、そしてぐっすりと眠った翌朝、案の定見事に腫れてしまった顔をメイド達の決死の努力もあってどうにか戻し、部屋での朝食を終えると葉月はヴィンスを呼んで欲しいと頼んだ。
「叔父様には感謝してもし足りません。そのついでにお願いがあります。私を、即戦力として使えるほどに鍛えてください」
「感謝のついで、というのが何を意味するのかよくわからないが……まぁいいだろう。お前を鍛えるのは、企業合併の会議よりも楽しそうだ」
そうして、ヴィンスの教育は始まった。
葉月の体調を見ながらゆっくりとではあったが、彼は彼女に必要なスキルを叩き込んでいく。
マナーや就業規則といった基本的なところの復習から、上層部との駆け引きのやり方や不当な圧力の上手なかわし方という裏技まで。
ヴィンスが仕事を終えて帰ってきた後、葉月が寝るまでの間の時間を使ってじっくりと講義してくれる。
時折彼は不意に問いを投げかけ、葉月が正しく答えられれば彼女の髪を優しく撫で。
誤った答えなら、どうだろうね?というようにやんわり首を傾げてみせる。
そんな、教育とは到底呼べないぬるま湯のような時間の中、だが確かに彼女の知識は日に日に深まっていき、ヴィンスの問いかけにもきちんと答えを出せる回数も増えて行った。
「皆、お前を信頼していた。そして、お前なら大丈夫だと過信していた。お前も、己を過信していた。信頼は得難い財産だが、過信は身を滅ぼす。今回のことで、お前も学んだだろう?」
「はい。……どうしたらいいかわからない時は、助けを求めても良かったんですね」
「ああ。だが間違えるな、葉月。それをしてもいいのは己の限界を正しく知る者だけだ。むやみやたらと他人を頼れば、己の成長には繋がらない。そして、待っているのは信頼の失墜だ」
だがお前なら正しくできるだろう、と彼は葉月の瞼に唇を落とし、もう寝なさいと彼女をベッドに横たわらせた。
添い寝でもするかのように、彼は葉月が眠りに落ちるまでそうやって傍に寄り添ってくれる。
穏やかに細められたアイスブルーの瞳を至近距離から見上げ、葉月は「でも」と小さく声を上げる。
「叔父様は、私を甘やかしすぎです」
「…………それは仕方がないな、お前にはそれだけの価値があるのだから。お前は、トラウマという名の己のコンプレックスと向き合った。戦って、勝ち残った。それを出来る人間は、そう多くない。私はそれを誇らしく思う。公の理由としては、それで充分だろう?」
おやすみ、と手のひらで覆うように閉じられた瞼から、温かい雫が零れ落ちた。




