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16.溺愛×悪夢

 

 雨宮葉月の朝は、


「おはようございます、お嬢様。お目覚めですか?」


 執事から始まる。



 年の頃は30代半ば、恐らく武道をたしなんでいるだろうかっちりした肩幅に引き締まった体躯、それらをストイックなタキシードに包み、足元はピカピカに磨かれたこげ茶の革靴。

 ふわりと緩やかなオールバックにしている髪はブルネットで、瞳は深みのあるブラウン。

 イケメンと呼ばれる顔立ちではないが充分に男前……低い落ち着いた声も、滅多に笑みを浮かべない厳しい無表情も、どこか『誰か』を思わせる、そんな男性が葉月の世話役としてつけられている。


 最初はさすがに、彼女も戸惑った。

 世話を焼かれることに関してもそうだが、何よりもその人選に。


(でも、叔父様は私のためにならないことはなさらないものね……今なら、特に)


 彼女の大事な叔父なら、不用意に彼女を傷つけたりはしない。

 だが療養期間だとはいえ使い物にならないくらい甘やかしすぎもしない。

 これはつまり、そういうことなのだと葉月は理解していた。

『この程度のことは乗り越えられるはずだ』という叔父の信頼の表れなのだと。



「おはよう、フレディ。今日の予定はなにか入ってる?」

「はい、お嬢様。朝食後、医師(せんせい)がお見えになると伺っております。その後は夕食時まで好きに過ごしても良いと、ご主人様のお言葉です」

「わかったわ。それじゃ朝食の準備をお願い」

「かしこまりました」


『ご主人様』とフレディが呼ぶ相手はヴィンスしかいない。

 ヴィンスがまだ独身であるため、『旦那様』とは呼ばないように言われているようだ。


 あの綺麗で優秀で、地位も名誉もある(オス)を狙っている(メス)は多い。

 あちらの会議、こちらの会合、出向くたびに接待され、そのたびに虜にさせるはずの(オンナ)を虜にして帰ってくる。

 ひらひらと飛び回る蝶のようだ、とは誰が皮肉った言葉だったか。

 しかし葉月は思う。

 ヴィンスは決して、花を渡り歩いて蜜を吸うだけの無害な蝶ではなく……時に獰猛で残酷で、いらないと判断したものは身内であろうと容赦なく切り捨てる、孤高の肉食獣である、と。



 葉月がここ、ヴィンスのビジネス拠点であるイギリスに来てそろそろ2週間になる。

 最初は執事やメイドの存在や日中のヴィンスの不在など慣れないことも多かったが、使用人達に害意がないとわかった後はそれなりにのんびりと過ごすことにしている。

 ヴィンスの用意した服を着て、ヴィンスの好きなメニューを食べ、ヴィンスがお気に入りの庭を眺めながらのティータイム。


「おかえりなさい、ヴィンス叔父様」

「ああ、ただいま」


 夜は、早々に帰ってきたヴィンスとの時間だ。


 エントランスでスーツの上着を脱ぎ、『ただいま』と腕を軽く広げる。

 今でこそおずおずとその腕の中に引き寄せられる葉月も、最初の数日は素知らぬ顔の使用人達とヴィンスの顔を見比べ、「え、え?」と全力で戸惑っていたものだ。

 それでも、日本で逢えた時にやっていたように、飛びつく勢いで抱きつくことはまだできない。



 こじんまりとした小食堂で一緒に向き合って食事をした後、外出時よりは多少着崩した装いに着替えたヴィンスが葉月の部屋を訪れるのが、最後の日課となっている。

 とはいえヴィンスの場合、スーツを着ている時のストイックなビジネスマンという印象が、少し着崩しただけで大人の艶っぽさに自動変換されてしまうのだから、文句のつけようがない。


 彼はいつも通り窓際にあるソファーセットに腰掛け、葉月にその日あったことなどを話させる。

 何を話しても、彼は穏やかな叔父の表情を崩さずに時折頷きながら話を聞き、そして


「疲れたなら、そろそろ横になりなさい」


 葉月が疲れたタイミングでそう声をかけ、日課の終了を告げるのだ。


「あの、叔父様」

「どうした?」

「…………聞きたいことがあるんです。だからもう少しだけ」

「それは、今話さなければいけないことかな?今のお前が無理をしてでも聞かなければならないことなど、なかったはずだが」


 聞くな、と叔父は決して彼女を否定しない。

 ただこのようにやんわりと、しかし抗うことを許さない声音でそう諭してくる。


 聞きたいことがある、と彼女が声をあげるのはもう何度目か。

 それは今必要かな?とやんわり問い返されたのはもう何度目か。

 今日もまた、葉月は「わかりました」と小さく頷いた。

『それでいい』というように、ヴィンスも頷き返す。


「おやすみなさい、叔父様」

「おやすみ、葉月」


 また明日、と囁く声と共に両瞼の上に優しいキスが降りてくる。

『夢の中でも、お前が傷つくことがないように』

 ここに泊まった初日、彼は驚く葉月にそう種明かしをしてくれた。

 それ以来、彼はどうしても遅くなった日以外はほぼ毎日のように……恐らく葉月が先に眠ってしまった後は、彼女の知らないうちに、こうしておやすみのキスをしてくれているのだろう。



(甘やかされてるなぁ……こんなんじゃ、ダメなのに)


 そんな身分じゃないのに、とふとした瞬間に忍び込んでくる罪悪感と後悔。

 それを受け止めて消化できない限り、彼女は日本には戻してもらえないだろう。


 ヴィンスは、『葉月はまだ持っている能力の半分も発揮できない』とはっきりそう言った。

 だから、今の環境から切り離してやるのだと。

 つまり、彼女が本当の意味で今回のことを乗り越えられない限り、彼は復帰を許さないという意味でもある。


 厳しくしてくれればいいのに。叱ってくれればいいのに。

 何度となく、彼女はそう思った。

 だがヴィンスはとことん彼女を甘やかし、泥のような愛情に沈んでしまえとばかりに囲い込み、外の世界の情報を徹底的にシャットアウトしてしまう。



 共働きで、彼女が幼い頃からあまり家にいなかった両親。

 少し年が離れている所為で、一緒に勉強したり遊びに行ったりする機会も少なかった兄。

 家族からの愛情は疑いようもなく感じていたし、会話が少なくても支えてもらっているという安心感と信頼感は確かにそこにあった。



『いい気なもんやなぁ……こっちは犯罪者のレッテル貼られて、ボロボロやわ。会社は解雇されて今更ハロワ通いなんぞさせられて、家族には白い目向けられて。全部われの所為やないかい!わしが何したっちゅうんじゃ!あぁ、パワハラや?人権侵害や?おまけに暴行罪やと!?わりゃ、わしになんの恨みがあってそこまでするんや!!わしはただ、部下は上司に逆らうなって教えてやっただけやろが!文句があるならなんでその都度言わんのや!普段は黙って知らん顔しといて、今んなって実は辛かったです、耐えてたんです!?アホ抜かすなや、この偽善者が!!わしは許さへんぞ……コケにしくさった礼は必ずするから覚えとけや!!』


 野上が、あの時と同じように声を荒げて怒鳴り散らしている。

 落ち着いている時ならまぁ男前と称せる顔が般若のように歪み、上から威圧するようによく通る声を張り上げて。

 お前が悪い、お前を絶対に許さない、お前一人幸せになんてさせない。

 許さない、許さない、許さない、


 傷ついて壊れたCDのように、同じ言葉だけを何度も何度も繰り返す野上。


(…………あの人は、仕事も失った。家族にも、見放された……私の、所為で)


 そうですね、と葉月は届くはずもない言葉を静かに紡いだ。


『そうですね、貴方の言う通りです。私は、……綺麗ごとで取り繕って、結局何もしなかった。自分ひとりで解決できるから、だから大丈夫、って誰にも頼らずに。でも、愚痴だけは零して。偉くなったつもりで、彼女を一人前に育てなきゃってそればっかり考えてて……』

『そんなん綺麗ごとや。梧桐を育てなきゃ、なんてほんまはどうでも良かったんやろ。われが欲しかったんは賞賛や。よくやった、やっぱり凄い、貴方のお陰で、そんな周囲の評判やろ。そのためにあいつを利用したんや』

『そう、……でしょうか』

『誤魔化してもわかる。われは結局、自分のことしか考えてないんやから。最初っから最後まで。月城に関してもそうやろ。噂になったら困るちゅうて手前勝手な理由つけて関係隠しといて、梧桐があいつを気にし始めても放置しっぱなしやったくせに、いざ取られそうになったら「わかってましたー」なんてカッコつけて。随分おキレイなんやなぁ?われの恋愛は。それでどんだけあいつらが傷ついた思っとんねん。しかもわれの周囲のやつらはみんなわれの味方や。梧桐が泣こうが月城が苦しもうが、自業自得やて言うだけや。そんなん、卑怯やなぁ……喧嘩両成敗、言うやろが。傷つけた方にもきちんと罰を与えんとおかしいやろ』


 野上はそう言って、歪に笑った。


(私が……全ての原因?私がいたから、あの人も、彼女も、上司達も、人生を狂わされた?)


『その通りや。われがあかんのや。なんでもっと早く行動せぇへんねん。なんでもっと早く対処せぇへんねん。もっと早く上にかけあっとったら、もっと早く自分には無理やてギブアップしとったら』


 こんなことにはならへんかったんや!!卑怯者!!全部われのせいや!!


 耳をつんざくようなその叫び声に、葉月は堪えられなくなって悲鳴を上げた。

 もうなにも聞きたくない、全てを否定したい、そう主張するかわりに両手で頭を抱え込んで。

 ありったけの声量で、闇を切り裂くような声を。



「葉月っ!!」

「お嬢様っ!?」


 普段の彼らしからぬ焦った様子で駆け込んできたヴィンスと、隣の部屋に控えていた深夜勤務担当のメイド。

 彼らは部屋の中央にまで駆け込み、そして目を見開いた。


 大人3人くらいが余裕で寝転がれるほど大きなベッドの上、部屋の主である葉月が上半身を起こしている。

 入院期間中にげっそりと肉の削れた細い腕で、何かから逃げようとするかのように頭を抱え込み。

 傍目にもすぐわかるほど、ガタガタと大きく震え。

 縮こまるかのように膝を曲げ、ベッドの端に寄って。


「…………ついに来たか……」

「……ご主人、様?」

「医者を呼んで来い。使用人棟には聞こえていないはずだが、誰に何を聞かれても決して答えるな」

「はいっ」


 転がるように駆け出していったメイドを見送ることもせず、ヴィンスは静かにベッド脇に腰掛けた。

 重みを感じてたわむ感覚が伝わったのか、葉月が大きくビクリと震える。


「葉月、お前は今自分の中に眠っていた罪の意識と戦っているはずだ。罪悪感、後悔、反省、焦燥感、無力感、そういったものが形をとってお前を襲っているのだろう。どんな形を取っているのか、どれほど酷い言葉を投げられているのか、おおかた想像はつくが……」


 とそこで彼は一度言葉を切り、胎児のように丸まってしまった姪の髪をひと房手に取って口付けた。


「それもまた、お前の心だ。人は、決して完璧にはなれない。過ちを犯し、誰かを傷つけ、それでも懸命に生きていく。梧桐陽菜も、梧桐朝陽も、野上隆も、月城孝介も、そして雨宮葉月も、ただ自分のために生きているだけだ。だから、葉月」


 戻っておいで、可愛い子。

 私はここにいる、私はお前を見捨てたりはしないから。

 愛する『身内』を見放したりはしないから。


(あの時告げた言葉に嘘はない。……愛しているよ、葉月)


 その胸の内は、決して言葉にはできないけれど。


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