14.勧誘×お見舞い
「葉月、起きているか?」
「その声……もしかしてヴィンス叔父様?」
「あぁ。日本まで来る用事があったのでね、立ち寄らせてもらったよ」
いいかい?とカーテン越しに声をかけられ、彼女はどうぞと即座に応じた。
朝陽が帰って行ったのは、昼前のこと。
帰り際に「これを梧桐さんに」とほぼ完成していた引継ぎノートを手渡し、それからは無理をせずにゆっくり体を休めていた。
今は夕飯も終わり、だが面会終了の時間まではまだ間がある……ヴィンスと多少話し込んでしまっても、看護師が途中で割り込んでくる心配は……まぁないとは言えないが、可能性は恐らく低い。
カーテンの隙間から身を滑り込ませてきた叔父は、仕事帰りであるらしくいつも通り隙のないストイックなビジネスマンといった装いで、手にはノートパソコンが丸ごと一台入っていそうなビジネスバッグを提げている。
彼はそこから、葉月の予想通り新型のノートパソコンを取り出すと、それをサイドテーブルの上に置いた。
包装はされていないものの明らかに新品未使用であるそのパソコンは、どうやら彼からの見舞いの品であるらしい。
「面会謝絶もようやく外れたそうだが、あまり無理はできないだろう?だから退屈しているだろうと思ってね。仕事はさせてやれないが、メールのやり取りくらいなら構わない、と医師の許可も貰ってある」
「叔父様……」
「だが、あまり無理はしないように。今度倒れたと聞いたら、すぐにイギリスに連れて帰るからそのつもりでいなさい」
それは果たして脅し文句になっているのかどうか。
葉月にしてみれば、ヴィンスの故郷に連れて行ってもらえるのだから、むしろご褒美になってしまうのではないか。
という考えも浮かびはしたが、だからと言ってまた倒れるなどという醜態は晒したくない。
なので彼女は素直に「わかりました」とだけ答え、明日から早速会社にメールしなくては、と心に決めた。
「ところで葉月、お前はこれからどうするかもう決めているのか?」
契約期間満了前に、あの会社を辞めることになってしまった。
葉月が望んだことではないが、このまま続けるには何より彼女にとって負担が大きいだろうということで、既に退職の手続き書類には記入を終えている。
最後の給与の支払い時に、わずかだが退職金も出ることになった。
必要なら紹介状も書こう、と社長自らそう言ってくれたらしく、どこへ行こうとも今回のことを理由に差別されることはないのだと、そのこともわかっている。
「お前は以前から、裁判所事務官の試験に合格するんだと意気込んでいたな。その気持ちは今も変わらないか?」
静かに、葉月を見据えるアイスブルーの瞳。
それは、気まぐれに日本にやってきては彼女を仕事の補佐にと連れ出す時の、彼女を絶対的に信頼しているビジネスパーソンの顔だった。
だからすぐにわかった、ヴィンスが葉月に何か仕事をさせたがっているということが。
それは恐らく、彼女が試験勉強の傍らにできないような本格的な何かで……だからこそ、彼女の意思を確認しているのだ、と。
(叔父様が、私を望んでくださってる?……もし本当にそうなら、私は)
試験自体、どうでもいいとは言わない。
兄が弁護士を志したように、彼女は事務の中でも最難関と言われる合格率5%という狭き門、裁判所事務官の試験を受けようと日夜勉強に励み、時には予備試験を受けて判定を出してもらったりしながら、合格ラインを目指して頑張ってきた。
自分には事務という仕事が合っていると理解しているからこそ、その事務の最高峰と言われる裁判所事務官の試験を受け、それに合格してよりクオリティの高い仕事に励むためにと、努力し続けてきた。
だけど、もし尊敬する叔父の傍で働けるなら。
もし、叔父になんらかの仕事を任せてもらえるなら。
それと引き換えに、試験を諦めなさいと言われるなら。
「……叔父様は、私に何をお望みなのですか?」
あえて答えをはぐらかして、葉月は問いかける。
しかし彼女の心はもう、この時点で決まっていた。
ヴィンスの依頼は、ある程度予想していた葉月でも驚いて固まってしまうほどのものだった。
シュナイダー社は元々欧州を中心にパソコン向けのシステム開発会社として名を知られ、今ではパソコン以外にも家電製品やスマートフォン向けアプリなどの開発にも力を入れている。
そんなシュナイダー社は欧州のみならずアメリカやオーストラリアなどにも広く支社を持ち、ネットを通じてアジア地区にも顧客を抱えてはいるものの、未だ本格的にアジア……ひいては日本へ進出するという段階までには達していない。
特に日本はITテクノロジー系の発展がめざましく、おいそれと参入して失敗するという愚行は冒したくないというのが本音のようだ。
シュナイダー本社単体としては既に日本の広告・マーケティング業界でトップシェアを誇る一宮グループ、そしてその一宮と縁戚関係にある瀧河家当主が社長を務めるTKエンタープライズと提携関係にあり、そして今回新たにシジョウ・コーポレーションとも技術協力の契約を結ぶことで話が進んでいる。
シジョウ・コーポレーションが現在手がけているのが、スマホ向けのアプリケーション開発だ。
ネット上に存在する架空のショッピングモールというのは既に他社が運営しているが、シジョウが考えるのは同じシジョウグループに属する店舗や病院、学習塾などをひとまとめにした複合施設を立ち上げ、例えば病院であればメールで医師のアドバイスを仰いだり、塾であれば講師に相談したり、店であれば気になる商品を取り寄せたり、そうやってシジョウのグループ全体を広く利用してもらおうというものらしい。
シュナイダー社はこのプロジェクトに対し、これまで自社で培ってきたノウハウを提供する代わりに、協力会社として利益を得ようと考えている。
「やるからには、勿論成功させなければならない。そこで葉月、お前にはこのプロジェクトの調整役を頼みたい。シジョウ側のプロジェクトマネージャーと、シュナイダー側のプロジェクトリーダー。その両者の橋渡しとスケジュール調整、各種書類の作成から会議の議事進行まで、やることは多いが……できそうか?」
「責任重大ですね」
シジョウ側とシュナイダー側から出されるプロジェクトメンバーは、いずれも相応の実力者揃いであるはずだ。
その双方を陰で支える役割を、葉月が背負う……そしてその成果はそのままヴィンスへの評価にも繋がる。
確かに責任重大だ、だがヴィンスは葉月なら出来ると確信してこの話を持ちかけてきている、それならば。
「お受けします。やらせてください」
面会謝絶が解除された最初の週末。
何度かメールを通じて連絡を取り合っていた陽菜が、この日病室に顔を出した。
勿論その前に、行っていいですかとメールで許可を取り付けてから、という律儀な態度で。
彼女はまず最初に葉月の体調を気遣い、引継ぎノートのお礼を述べ、そして改めて月城とのことを報告して謝罪し、朝陽にしたような話と同じようなことを葉月が告げたことでようやく落ち着いたのか、椅子に座って話をし始めた。
部署のこと、代わりに来た新しい上司のこと、会社のこと、やっと出来始めた友人達のこと。
葉月はそれをうんうんと穏やかな表情で聞き終わると、彼女自身退院したらどうするかという話を語って聞かせた。
「……え?それじゃ雨宮さん、退院したらイギリスに行っちゃうんですか?」
「なに心細そうな顔してるの。仕事は順調に進んでるんでしょ?」
「それはそうですけど……まだまだ聞きたいこととか、話したいこととか、一杯あったのに」
心細そうな陽菜の表情に、変なところで自信がないのねと葉月は苦笑する。
佐々木からちらりちらりと聞いただけでも、陽菜はよくやっている方だと思う。
彼が陽菜に八つ当たりしていたのは月城と葉月の関係を心配してのことだったため、そのわだかまりがなくなった今ではその頑張りに敬意を表してこっそり差し入れを持ち込んだり、わかることがあれば助言したりと力になってやっているらしい。
人の本質を見抜く鋭さを持った佐々木がサポートしている、ということはそれだけ陽菜が前向きに仕事に取り組んでいる、ということを意味する。
周囲もそんなひたむきな姿を見て『最低上司に贔屓されてる新人』という色眼鏡を外し、少しずつ手を差し伸べてくれる数が増えてきたそうだ。
葉月の親友である瑠架も『あの子一生懸命すぎてちょっと危なっかしい』と時折休憩に誘ったりするようで、そうしてじわじわ認められつつある陽菜の話を聞くのも葉月としては楽しみだったりするのだ。
「別に音信不通になるわけじゃないんだし、何かあれば連絡してくれればいいわ。あ、そうそう。プライベート用の連絡先、教えてくれない?時間外の連絡はそっちに入れるようにするから」
「あ、はいっ。それじゃアドレス、紙に書いてお渡ししますね」
「私も海外通信用のアドレスを持ってるから、そこからこのアドレスに送るわね。と言っても、1ヶ月か2ヶ月ほどで日本に戻るとは思うけど」
「………………え?」
意表をつかれました、という陽菜のぽかんとした顔を見て葉月はしてやったりという顔で笑った。
『ここを退院したらすぐにでも……と言いたい所だが、残念ながらお前の能力はまだ本来の半分も出せない状態だ。身体が戻っても、精神状態がまだ不安定だと医師にもそう話を聞いている』
『……そう、ですね……』
まだようやく面会謝絶が外れただけで、完全復帰には時間がかかると葉月もそう聞いている。
そんな状態で退院できたところで、きっと叔父の望むような結果を出すことはできないだろうとも思う。
彼女に多大なストレスを与えた張本人はもう身近にはいない、しかし与えられたストレスがいつまた表に出てきて彼女の精神を追い詰めるかわからない。
だったら、しばらくここから離れた環境で療養してみないか、というのが叔父からの提案だった。
『幸い、私の持っている別荘のひとつが郊外にあるのだが、そこは空気も美味しいし都会の喧騒も聞こえない。療養に向いていると思うのだが、どうかな?』
「それじゃ、イギリスには療養に行くだけ……ですか?」
「勿論、本調子に戻ったらシュナイダー社に行って仕事の説明を受けてくる予定にはなってるわ。でも仕事自体は日本でやることになる、と叔父様から聞いてるしね。早ければ1ヶ月ほどで戻ってこられると思うけど」
「なんだか雨宮さん、すごく楽しそうですね?」
「そうね、尊敬する叔父様の下で働けるからかしら」
彼女は、小さな嘘をついた。
葉月がヴィンスに向ける想いは、確かに尊敬も含んでいるがその根底には幼い頃から育ちに育った愛情がある。
叶わない恋愛、というのは血の繋がった叔父であるヴィンスに向ける気持ちのことだ。
こればかりは日本の法律上、どうしようもない。
それにヴィンスが葉月に向けてくれる愛情も、時にどきりとさせられてしまう艶っぽい眼差しがあったりはするが、身内のそれを超えていないだろうということも聡い彼女にはわかっている。
諦めなければ、先に進むことができないということも。
もしかしたら、何事もなければ月城を好きになれていたかもしれなかった。
互いに求め合うような激しい想いはなくても、穏やかで温かな家庭を作れたかもしれなかった。
だけど、今となってはそれも絵空事だ。
そんなことを、行きがかり上とはいえ自ら恋を壊してしまった陽菜に言えるはずもないし、悟られるわけにもいかない。
(いつか、笑って話せる時期が来るといいけれど)
今はまだ無理ね、と彼女は内心を顔に出さないようにポーカーフェイスを決め込んだ。




