12.ざまぁ×非情
個室のベッドの上で、葉月は目を覚ました。
すぐさまかけつけた医師は内科、外科、脳神経外科、心療内科、と4人も揃っており、さすがに何事かと驚きを隠せずにいる彼女に対し、かわるがわる問診と簡単な状態確認のための診察をして、また揃って部屋を出て行った。
「さすが、シジョウ系列の病院はやることが迅速だな。ほら見ろ、あっという間に裁判所への提出書類が揃っちまった」
「シジョウ系列の病院って確かあの会社から遠かったわよね?かかりつけでもないし……兄さんが指定したの?」
「ああ。一宮も瀧河も系列会社に病院が入ってないからな。それに、ここにはそれぞれの分野のスペシャリストが在籍してるんだ。さっき診察していっただろ?その4人が担当になって、お前が倒れた時にどれだけの被害を被ったか、どういう状態だったかを診断してくれたってわけだ」
駆けつけた兄、透の手元には四種類の書類がある。
ひとつめは、葉月が倒れた時に被った身体的な怪我についての診断書。
ふたつめは、倒れた際に脳に障害が起こっていないかどうかという診断書。
みっつめは、葉月が倒れる以前から患っていた身体的な疾患がなかったかどうかという診断書。
よっつめは、ここまでの診断を総合した上で彼女が何故突如倒れるに至ったかという見解を記した意見書。
曰く、雨宮葉月は健康上至って正常であり、身体的に目立った所見はなかった。
そこへ突如として襲い掛かった上司の暴言により、精神的に処理しきれず一時的な麻痺状態に陥り、身体がいうことを聞かなくなったため、その場に倒れた。
負った怪我は肩と足への強い打撲、そして額を2針縫うという比較的軽いもの。
だが精神的ショックは計り知れず、目の焦点も些か合いにくくなっている上に倒れた際の記憶もどこか曖昧で、しばらく療養が必要だと認められる。
(確かに捏造ではないしある意味事実なんでしょうけど……酷いわね、これは)
透は先ほど、それぞれの分野のスペシャリストだと彼ら4人のことをそう称した。
ということはその言葉を裏返せば、スペシャリストだと有名になる彼らが例え権力者の前であったとしても、診断結果を偽ったり盛ったりする可能性は低いとも言える。
権力者だからと尻尾を振るような人物なら、間違ってもこの透が『スペシャリスト』と賛美するはずがないのだから。
そんな彼らが書いた『事実』……それを総合してみても、あの時の葉月の状態はかなり酷かったらしい。
ショック状態ということまでは想像の範疇内だったが、まさか一時的な麻痺状態になっていたとは。
もしかすると痙攣して白目を剥いていたかもしれない、そんなことを思うとあまりの恥ずかしさに赤面しそうになってしまう。
「…………で、だ。報告というか……まぁなんだ、報告がある」
「なんなの、兄さんが言いよどむなんて珍しい」
「いや、だからな。菜々美はすぐに言った方がいいって言うんだが、俺としてはお前にまた嫌な思いをさせたくないってのが本音なんだ。どうするかまだ迷ってるんだが……まぁいい、言うぞ」
あいつ、過去にも何件もやらかしてやがった。
という苦々しげな言葉から、その報告は始まった。
野上は元々正義感の強い警察官だった。そんな彼が道を踏み外し始めたのは、何度も何度も再犯を繰り返す犯罪者たちを見て、そのたびにどうしてわからないのかと憤り続けたのがきっかけだったらしい、と彼の元同僚はそう語った。
彼は次第に己の意思こそ正義と強く思い込むようになってしまい、しかし家庭では常に良家出で正義感の強い妻に口で言い負かされ続けたことで、強く鬱屈した感情と妻と似たタイプの女性に対するコンプレックスを持つに至った。
あの会社に入ったきっかけは、当時の人事部長が警察OBだという彼の経歴を見て、また対外的に正義感に溢れた眼差しを向けられたこともあり、あっさり信用してしまったのだという。
そして、悲劇は秘めやかに起こった。
何故だか、彼の下についた派遣社員や契約社員といった業務のベテラン勢が、契約期間満了を前に体調を崩して次々と辞めていったのだ。
彼はそのことを、当時の上司にこう語った。
『本社の業務はかなり煩雑で、しかも彼女たちが優秀なばっかりにあちこちの部署に借り出されてしまっていました。それで体調を崩してしまったのでしょう。残念です』と。
「それだけじゃない。総務に異動してからも、以前の部署……人事部やその前にいた支社なんかに顔を出しては、自分が目をつけていた女子社員達に嫌味をぶつけてたんだと。という当人や周囲の証言はバッチリ取れてる。もう刑事罰とかあれこれの前に、人として終わってるな。家庭もすっかり冷めちまってるようだし、奥さんは現在息子を連れて実家に帰ってる。離婚調停って話になるのも時間の問題だろうな」
「…………それって、悲観して自殺したりしない?」
「どうだろうな、それは。自分の正義感を振りかざして生きてきたやつだ、最後の最後まで自分の非を認めることはなさそうだが」
透の妻であり葉月の義姉でもある雨宮菜々美は、有能な調査員だ。
よくぞここまでという突っ込んだ部分まで、まさにかゆいところをかゆいと認識する前に手が届いている、というレベルまで調査を進めてくれる彼女のお陰で勝訴に持ち込めた裁判も多いと聞く。
そんな彼女が義妹可愛さも手伝って調べ上げてきたそれは、確かに目覚めて間もない葉月が聞くには相当えげつない。
もし食事の直後だったら吐き戻しているレベルだ。
戻しはしなかったもののさすがに青ざめた妹の肩を宥めるように軽く叩き、透はナースコールで看護師を呼んだ。
「初っ端から気分の悪い話ですまないな。俺は一度戻って、菜々美と交替してくる。着替えや他に入用なものは菜々美に言え。あと……なんかあるか?」
「会社、どうなってるのか知りたいんだけど」
「お前なぁ、真面目なのも大概にしろよ?つか、まぁ今更か。本来なら身内以外面会謝絶なんだが、特別に身内扱いで慎二と裕子さんに連絡を入れておく」
慎二というのはシス課の佐々木のことで、裕子さんというのはその愛妻の名前だ。
葉月とは佐々木の友人である透を通じての付き合いになる。
兄が出て行った後、看護師と医師の診察を受けておまけにご丁寧にも点滴を繋がれ、容易に動けなくなってしまった葉月は仕方なくごろんとベッドに横になった。
思い出すのはあの時の醜く歪んだ上司の顔、そして必死に助けを求める陽菜の声。
(彼女は結構好かれてるから、すぐ誰かが助けてくれたはずよね)
主に男性社員に、という注釈はつくが、それでも陽菜の明るさや前向きさ、ひたむきさやいじらしさなんかを見ると、放っておけない、守ってあげなくてはという気になるのだ、と営業部の稲葉がそう言っていた。彼も彼女の密かなファンの一人だ、その場にいたのなら助けに入っているだろう。
彼女は今頃、葉月から引き継いだ仕事をこなすのに精一杯であるはずだ。
まだ余裕で仕事をこなせるほど場数を踏んでいるわけではないし、時に調整に入ったり交渉したりしなければならない支社の総務職員とも、それほど親しくはなれていなかった。
必ずしも親しくならなければいけないというわけでもないが、親しくなればなっただけ融通が利かせられるので便利だ。
(そうだ、もう戻れなさそうだし……最後の引継ぎノート、作ろうかしら)
元々今期末までには、今の葉月の持つ人脈や仕事の上手なこなし方、横の連携の取り方などといった裏技的なことを書いたノートを纏めておいて、渡すつもりでいた。
それが半年早まっただけだ。入院中ならじっくり考える時間もある。
そんなわけで、翌日から早速葉月は引き継ぎノートを作る作業に入った。
医師の診断通り思った以上に精神的な衝撃が大きかったようで、集中してもすぐに疲れて眠くなってしまうため、じっくりゆっくり少しずつ書き進めていく。
義姉である菜々美は、ノートを何冊も買ってきてくれた。
そして葉月が無理をしないように、傍で書類を纏めながら時折話し相手になってくれる。
マスコミに対してどんな情報操作を行ったのか、それを葉月が知るのは彼女が目を覚ましてから3日後のこと。
病室の続き部屋でぼんやりテレビを見ていた彼女は、画面に躍っている『企業に潜むパワハラの黒い影』という怪しげなあおり文句を目にして、食い入るようにそれを見始めた。
完全に規制したのか、会社名も上司の実名も勿論葉月の名前も挙がってはいない。
番組内では、どこの会社にでもありうる事例として、有能な女子社員に対してコンプレックスを抱えた上司がその彼女を目の敵にし、ついには精神的苦痛を与えて病院送りにしてしまう、といった再現ドラマが演じられている。
そのシナリオはさすがに脚色されていたものの、あの場にいた関係者なら誰のことだかすぐにわかる内容となっており、集まったコメンテーター達がそれはもうけちょんけちょんのギッタンギッタンに上司のことをけなしていた。
本人が見れば、絶望を通り越して激怒するほどに。
『あいつ、役員会議にかけられて速攻懲戒解雇になったから。で、その管理責任を問われてタヌキ部長は役職を追われた挙句、アジアの……ああ、どこだっけ。東南アジアの方の支店に飛ばされるらしいよ。こういうの、何て言うんだっけ?えーと……確か……そう、ざまぁ!だ』
語っている内容は重いはずなのに、佐々木の表情は秋晴れの空の如く爽やかだ。
そこに追い討ちをかけるように、佐々木の妻である裕子が「プギャーって言い方もあるわよ」とノリのいいフォローを入れる。
相変わらず似たもの夫婦だな、と葉月は妙に感心してしまったが。
そうして、時間は緩やかに流れていく。
略式起訴で罰金刑に決まったのだと透から報告を受け、当人は項垂れつつも妻の実家から借金して罰金と慰謝料を払うことになったと菜々美に聞かされ。
時折佐々木夫妻が顔を出し、面会制限もそろそろ外していいだろうと許可を貰って、心療内科まで出向いて診察を受けた帰り。
「……梧桐、くん?」
「あ、雨宮さん!もう出歩いて大丈夫なんですか!?」
「え、えぇ……面会謝絶は取れたけど」
「そうですか、良かったぁ……」
休日出勤の代休なのか、スーツではなくいつか偶然出会った時のような私服姿の梧桐朝陽が、なにやら大きな紙袋片手に受付に立っていた。
さすがにこの状況で「偶然ね」と言うほど葉月も天然ではない。
彼が葉月の見舞いにと一度訪れ、しかし面会謝絶の札がかかっていたことでナースセンターにお菓子を預けて帰った、という話はイケメン好きの担当看護師から聞いていたからだ。
「何度も押しかけちゃってすみません。けど、…………えっと、ここで話すことでもないので、病室までご一緒してもいいですか?」
(驚いた。この子、いつからこんな気を遣えるようになったの?)
無邪気で天然、しかし前向きで一生懸命で恐れを知らないヒーローレベル1。
彼の所属する営業部からもあまりいい噂を聞いていなかったはずなのに、そんな彼が今は葉月に気を遣い、周囲にも気を遣い、礼儀正しく接してくる。
一体彼に何があったのか……思い当たることはひとつだけ。
以前一宮家で話をした時に、瑠架が言っていたことを恭一郎が実践したとしか思えない。
(ってことは、何処かの部署で徹底的に叩きのめされた、ってことね)
「今日はこの後何も予定はないし……そうね、少し話し相手にでもなってもらおうかしら」
「はいっ、俺でいいなら喜んで!」
本当に、変われば変わるものだわ。
少しだけ気分が浮上した気がして、葉月は知らず小さく微笑んでいた。




