10.別れ×追い討ち
「今日さ、月城休みだって。なんか風邪引いたらしいよ」
「風邪、ですか……」
「そこまで酷くないらしいけどね。このところ休日返上が多いし、代休にするから休めって部長が休ませたみたいだよ」
『休日返上』のところだけ妙に力を入れて発音して、佐々木は軽くあははと笑った。
佐々木は知っている。
真っ直ぐに月城に好意を向ける陽菜の眼差しを。
時折眩しそうに陽菜の方を見つめ、優しげに目を細める月城のことを。
葉月が、彼から物理的に距離を置こうとしていることを。
だが佐々木は知らない。
数日前……週末である金曜日の夜に月城に呼び出された葉月が、なにを言われたのか。
そこで彼女が、何を言ったのか。
『……すまない。勝手なことを言っているのはわかっているのだが、君との結婚はできない』
『そう、ですか』
『君は気づいていたかもしれないが……どうしても直接言わなければと思ったんだ。3年間も君の時間を貰っておいて何を勝手なと思われるかもしれないが、君に対して誠実でありたいとあの日そう心に決めたからな』
だからすまない、と彼は深々と頭を下げた。
月城は、最初からずっと葉月に対して誠実であろうとしてくれた。
見合いをしたその日も、自分がそれほど他人に対して興味を持てないこと、未だ10代の学生だった頃に手酷い裏切りを受け、それ以来恋愛ごとに臆病になってしまったことなどを話してくれ、そして『今はまだそんな気にはなれないが、時間をかけて君を知っていきたいと願うのはわがままだろうか?』ときちんと問いかけてくれた。
葉月に対して選択肢を与えてくれた。
そんな彼の誠実さに、いつもいつも『お前は俺がいなくても平気だよな』と心が離れていく相手を見てきた彼女も、徐々に惹かれていった。
だからこそ、今こうして他に気になる女性ができたことで、葉月との関係をきちんと清算しようとしている。
なあなあにしたままどちらにもいい顔をしておいて、あわよくばフられた時のために葉月を『キープ』しておく、などという身勝手なことをせずに。
そのことに、彼女は心から安堵していた。
フられてしまったこと自体は、やはり少し胸が痛んだが。
『月城さんには、そういえば話したことがなかったかもしれませんが……私、人と違うところがあるんです』
『いきなりどうした?』
『私ね、人の感情がわかるんですよ。耳がいいんじゃないかって言われてるんですけど、些細な息遣いとか声のトーンとか足音の調子とか、そういったことで他人の気分や体調までわかったりするんです。そのこともあって、過去にお付き合いしていた人達が私から心が離れるタイミングがわかってしまって……だから、月城さんに最初にはっきりと「見合い相手だからって自分を飾りたくない」って言われた時、嬉しかったんです』
だから、わかってましたよ。と彼女は苦笑する。
これまで月城に負担をかけまいと取り繕ってきた笑顔ではなく、いつもの彼女らしい感情を露にした表情で。
月城が彼女に惹かれていっているのはわかっていた、そして陽菜の方も彼に対する好意を隠さなくなってきているので、恐らく両想いだろうということも。
『すみません。私も謝らなければいけないんです』
『なにを、いきなり』
『これは最初にお話したことですが……私も結局、好きな人を忘れることができませんでした。月城さんとのことは前向きに考えられていたし、多分好きになりかけてたんじゃないかとも思います。でも…………』
胸に居座り続けるのは、今も変わらず怜悧な美貌のあの人。
他に好きになれる人が現れたとしても、きっと彼の面影はずっと彼女の中から消えはしないだろう。
そんな気持ちのまま、月城だけに罪悪感を抱かせて別れてしまうのはどうしても嫌だった。
彼は悪くない、ただ人を好きになっただけだから。
本当に悪いのは、他の人の面影を忘れられなかった彼女の方だから。
すみません、と謝る葉月に今度は月城が苦笑した。
『謝らなくていい。君の想い人に、私が勝てなかっただけだ。信じてはもらえないかもしれないが、私も君に心惹かれていた。……ただ、それが交わらなかった。それだけなんだろうな……きっと』
『そう、かも知れません』
ありがとう、さようなら。
3年間付き合ってきて、この日二人は初めて互いへの思いを告げあって、そして別れた。
「佐々木主任」
「ん、なに?」
「……穏便に、終わりましたから。だからもう、関係ありません」
「…………そう」
わかった、とだけ告げて佐々木は自分の席へと歩いて行った。
すれ違いざま、お疲れ様と小さな声で囁いて。
(佐々木主任、なんか兄さんみたい……って言ったら、兄さんに怒られるかしら)
佐々木の実家のツテからか、兄と佐々木が親しい友人関係だと知ったのは最近になってからだ。
瑠架からも情報を貰い、兄からも情報を貰っているのでは、佐々木が葉月の動向に詳しいのも頷ける。
彼自身、姉が一人いるくらいで下に弟妹はいない。そのこともあって葉月や瑠架を兄のようにからかいながら、それでも優しく見守ってくれているのではないか、と葉月は勝手にそう思っている。
午前中は何事もなく時間が過ぎ、だがやや落ち着きのない陽菜を見ていられなくなった葉月は、彼女をランチに誘った。
いつも行く食堂ではなく、今日はあまり会社の人間がこない定食屋を選んで。
(聞きたいことはわかってるわ。だから、気にせず聞いていいの)
気になっているのはわかっていた。
だが仕事中だからとそのことを口にしなかった陽菜を、葉月は買っている。
ここ数ヶ月で総務の仕事は殆ど陽菜に任せられるまでになった。葉月の任務だった引継ぎもほぼ終わっている。
あとは実践でどれだけできるか、臨機応変な対応ができるか、課題はその程度だ。
葉月としては、月城のことを差し引いて考えれば、陽菜は可愛い可愛い仔兎ちゃんだと思っている。
世慣れぬ仔兎にしっかりを躾をし、本社という名の草原に解き放ってやるまでが自分の仕事なのだと。
「あの……ずっと気になってたんですけど。今日って月城さん、お休みですか?」
「ええ、そうらしいわよ。朝佐々木主任に聞いたんだけど、ちょっと軽い風邪を引いたらしくて。ここのところ休日出勤が多かったらしいから、大事を取って部長がお休みをくれたんですって」
「ええっ!?月城さん、やっぱり風邪引いちゃったんですか?」
「梧桐さん、さすがに声が大きいわ」
咎めるように葉月が言えば、陽菜はしゅんと項垂れて「すみません」と小さく謝った。
「で、やっぱりってどういうこと?」
「あ、あのっ……昨日、植物園で偶然月城さんにお会いして。お花の育て方とか手入れ方法とかお話してる間に遅くなっちゃったので、家まで送ってくださったんです。私はいいって言ったんですけど……」
(お花が好きな仔兎ちゃんと草食動物な月城さん。なんか癒し系だわ)
葉月とはっきり決別した月城は、だが陽菜との年の差や彼女が葉月の後任であることなどを考えて、やはり苦悩したらしい。
そして、彼にとっての気分転換できる場所として植物園を選んだ。
そこに当のお相手である陽菜がやってきて、そして彼と感性が似た陽菜の言葉や笑顔に癒されたのだろう。
彼が覚悟を決めたのか、そこまではわからない。
だが、遅くまでずっと話し込むというのは、葉月と一緒の時はまずありえなかった。
つまり、そういうことなのかもしれない。
午後になってからというもの、どうしましょうどうしましょうとひたすら落ち着きのない陽菜を宥めつつ、葉月はいつも通り淡々と仕事をこなしていくしかできず。
それでも時間を追うごとに凡ミスを繰り返し、とうとう手が止まってしまった陽菜に対し、彼女はため息をつきたいのをどうにか堪えて「しっかりしなさい」と活を入れた。
「自分の所為じゃないかって気になる気持ちはよくわかるわ。その気遣いは忘れちゃダメ。でもね、厳しいことを言うようだけど今は仕事中なの。お給料をいただいてお仕事をする、その責任があるわ。落ち着かないなら少し休憩してきてもいいけど、連絡を取るのは仕事が終わってからにしてちょうだい。そうじゃないと、悪く言われるのは貴方よ」
「…………はい。すみません、でした」
「怒っているわけじゃないの。だから、定時で終われるように頑張りましょう?」
「……はいっ」
ようやく少しやる気の戻ったらしい返事に、葉月は内心胸をなでおろしながらふと自分の目の前のディスプレイに視線を戻し……そして凍りついた。
「…………おい、雨宮。わりゃ何の気になっとんじゃ」
ヤクザのような、というと本職のヤクザが顔をしかめそうなほどに醜い、憎悪むき出しの顔で。
アホ上司こと総務部次長、野上隆が彼女の斜め後ろに仁王立ちしていた。
ああ、今日の占い最下位だったわね。
ラッキーアイテムはほうれんそう……もしかして『報・連・相』をかけてたのかしら。
そんな他人事のようなことを考えつつ、彼女は無言で上司に向き直る。
「おんまえ、黙って聞いとりゃ随分偉そうなクチきいとるやないかい。ええか、彼女は正社員でわれは腰掛契約社員なんじゃ。それをなんや、偉そうにべらべらと。上司にでもなったつもりかい、えぇ?大事な人が倒れたらそら気になって当然やろが、それともお前は気にならんのかい。あぁ?冷血にもほどがあるわ。そんな人の気持ちもわからんようなもんに道理をとかれる側の身にもなってみぃや!調子にのんのも大概にせぇ!最近は注意せんかったらあちこちの部署ふらふらふらふら。お前ん上司は一体誰や!?わしゃいつでもお前をクビにできるんやぞ!!正社員採用もされん半端もんがいい気になっとんなや!!」
来客はいなかったとはいえ、電話があちこちで鳴り響く社内においてキレて怒鳴りつける。
これを目にした誰もが、こりゃ酷い、と頭痛を覚え、怒鳴られている葉月に対して同情の気持ちを抱く。
葉月は、上司に無理やり向き合わされたまま、動かない。
「おいっ、聞いとんのかわれ!!」
「…………ぁ」
「あぁん?なんか言い訳があるなら言うてみぃ!!」
ぱちぱち、と瞬きしたかと思うと
ガタンッ、と大きな音をたてて葉月の座っていた椅子が彼女ごと床に横倒しになった。
「雨宮さんっ!雨宮さん、しっかりしてくださいっ!!誰か、警察!警察呼んでくださいっ!!」
(バカね、こういう時は警察じゃなくて救急車でしょ)
陽菜のヒステリックな叫び声を聞きながら、葉月はこっそりと胸ポケットに刺したままだったペンを触り、スイッチをオフにした。
そして
意識はそこで、ブラックアウト。