息を吸うように嘘を吐く
僕の手は動きを止め、ノートに落ちていた視線は久方ぶりに彼女を捉えた。
今僕は可笑しな顔をしているに違いない。侮蔑、困惑、不愉快、そして少々の歓喜と疑義の念。
それもこれもすべて、彼女から発せられた不思議なセリフの所為である。
「はあ?」
嬉しそうに僕を眺めていた彼女は、先程の「きみって優しいよね。」というセリフに対する、僕の応えを聞いても表情を変えなかった。
寧ろ、更に言葉を続けたいといった様子だ。
「だって、きみは嘘つきじゃない?」
彼女の、幼子を眺めるようなその視線が更に気味悪く見えてしまい、唇が少し震えた。
「あ、あーうん、そうだね。よく分かってるじゃん。うん。…それで?」
適当に流して、会話を切るように威圧をすれば、彼女は気不味そうに掌を撫で始めた。これは「困ったぞ、」と思った時の彼女の仕草だ。尚、本人はこの癖に気が付いていない。他にも沢山彼女の癖はある。
彼女が気付いていない、沢山の癖を僕だけが知っている。
口をモゴモゴさせている彼女を見ている時間は勿体無いので、僕はまた手元のノートに視線を落とした。前方からの視線は無視しようと思う。
当たり前の事をーーーー”嘘吐き”という僕の特徴をーーーー指摘されても、此方はどうとも思わない。
僕自身にとっては、この訳分からない供述よりも、明日のテストの方が重要なのだ。
授業で取った世界史ノートを自習用ノートに書き写す作業を再開する。
テスト期間だというのに、何故僕はこんな奴と勉強会をする羽目になったのだろうか。いや、確か流れでこうなった。つまり、僕は彼女の話術に乗せられてしまったのだ。
クラスの席が隣同士、彼女は文系専攻で僕は理系専攻、ただそれだけの理由で、こんな奇妙な空間は出来上がってしまった。
彼女は「休日の方が楽だから、休日にしようよ」という巫山戯た提案をしてきたが、それは流石に気持ち悪いので断ってやった。
好きでもない人間に、よくこんな軽率な提案が出来るなぁ。節操がない。というのが、その時の感想。
その後「何故休日は駄目なのか云々」の問答や討論が幾つかあった末、僕は百歩譲って、放課後の教室ならと許可した。正直、彼女から教わるような事は何もないのだけれど。
文系教科を教えるなんて、不可能じゃないか。国語も、日本史も、世界史も、すべて記憶するしか無いのだから。
なのに彼女は無遠慮に僕に理数系の質問をしてくる。僕はそれに答えるが、その度に「ああ、やっぱり利用されただけだ。僕の貴重な勉強時間を奪いやがって。」なんて思うのだ。
もうそろそろ帰りたいんだけど、という言葉は胸の奥に閉じ込めてやる。都合が悪くなりそうだからだ。
「なに、言いたいことがあれば言えば?」
閑話休題。僕は動揺で揺らぐその目を見つめ直してから言い放った。
こいつが(勉強の理解度に、もしくは自分が精神的に)満足しないと、僕は家に帰れないのだ。
「あーいや、ほらさ、きみって息を吸うように嘘をつくじゃん。」
目を合わせないまま、手を撫で合わせながら、彼女は言葉を零す。
が、僕は今放たれた「不自然」に顔を顰めた。
……「息を”吸う”ように、嘘を吐く。」か。
「…その言葉は間違いだ。そんな言葉は存在しない。」
「ええ?あるよー、絶対あるってー。」
「なら教えてあげる。『息を吐くように嘘を吐く』という言葉ならあるよ、それを君は勘違いしたんだろう。」
「いや、勘違いとかじゃないよ、この言葉は本当にあるよ。
…なんなら、私が作ったって言ってもいいもの。」
「はあ?理解出来ないね。…つまり鞄語ということか。そんなもの、初聞では誰もわからないだろう。」
初聞、という言葉も鞄語である。僕はそうやって皮肉に返答したが、クスクスと目の前の少女は笑い始める。
「鞄語というのは、粘滑とか、旅行鞄とか、そういうものだから。
さっきの言葉は”文”であっても”語”ではないから…、言うなれば鞄”文章”だよ。
まあ、そんなのはただの一般的な文章と同じなんだけどね。」
文系な彼女は、妙な所で論理的だ。
妙な拘りがあり、妙な枠組がある。理系作家にありがちな傾向だが、こいつは簡単な数学も物理演算も出来ない。とどのつまり、中途半端に頭が良いのだ。
今のでスイッチが入ったのだろうか。彼女は挙動不審な時と打って変わって、此方を伺う獣のような目付きになった。そして続ける。
「きみは、息を吸うように嘘を吐く。どんなに無意味だったとしても、もし意味があったとしても、きみはどうでもいい嘘を吐く。」
「んで、私は、きみのその不思議な性質に興味を持っちゃったのね。
だって、きみ、てんで存在感がないんだもの。」
酷く会話らしくない言葉だ。
本を朗読するように告白をする彼女を見上げる僕の表情は冷めていた。
意表を突かれた、と思う。よくそこまで追究出来たな、と。
僕はどんな事にも嘘を吐いてしまうような不真面目な青年であり、それに罪悪感など微塵も感じ無い。
人間は、自分を取り繕う為に嘘を吐く。誤魔化したいが為、見栄を張りたいが為…。強く見せたい時や、弱い所を隠す時に嘘を吐くのだ。
だけれど、言い訳をさせて欲しい。僕は一度も背伸びをするための嘘を吐いたことが無いんだ。悪いことはしていない。
…僕が吐くのは、決まって弱味を隠す嘘だった。
僕が、髪を切った、という前日の行動を他人に話すにも、どうしても言葉に嘘が張り付いてしまうのだ。
これは、平生の僕の短所である。
「お母さんに切ってもらった」(この時、或女生徒は何故か微笑んだ)
「髪なんて切っていない」(この時、大体の人間はへらりと表情を歪めた)
「前髪だけ少し」(上に同じ)
「後ろを梳いてもらった」(上に同じ)
「少しハゲたのかもしれない」(これを聞けば笑い出す奴がいた)
一つの現象だけでこれだけの嘘がつける。
なおこれは自覚を持って、自分の脳で文章を整理して告げたものではなく、すべて無意識下で放たれた嘘である。
だからたまに、僕が以前言い放った嘘について追究されても、かえって此方が「え?なに、その話。」となってしまう。なお、これにも罪悪感など感じない。
つまり、僕は、そういう無責任で自分勝手な奴なのだ。
「嘘吐きっていうのは認めるけど。存在感がないってどういう事?」
僕はノートに目線を下ろして、勉強会開始以来の初めての質問をする。ようやく”勉強会”らしい事になった。
でも、出来ればこんな事ではなく、世界史や国語についての質問をしたかったなと思う。
「人が相手の存在を認知するのに、五感が必要だという事はわかるよね?
相手の姿を見て、相手の声を聞いて、相手に触れて…そうやって相手の存在を”知る”。」
「持論だけれど、”記憶する”のには、五感ではない、少し別の何かも必要なんだと思う。
脳に相手の存在を刷り込むには、”相手を理解する”という行為を繰り返し、相手の特徴を知らなければいけない。」
「でも面白い事に、きみには特徴の掴み所がない。だから存在感がない。だって人の記憶に残らないんだもの。
…ある生徒に聞けば「正直者だけれど根は静か」と言い、またある生徒に聞けば「お母さん想いの優しい子」という、または「明るくお調子者で、壁を感じさせないような人」だという。
印象がこんなにもバラバラになっている、というのはどういうことなのか。」
「まあ、その答えが、きみが唯一持つ、本質に近い”特徴”、即ち”嘘つき”という真実なんだよ、」
「嘘つきであるきみの嘘からでも、真実は生まれるのよ。………」
「きみは”嘘つき”だ。」と彼女はニヤけた笑みを浮かべながらもう一度強く言った。これが結論か。
文系の人間は、まず結論を出して問題提示をするというが、本当に今のは文系らしい構成だったな。
「ああ、そうだな。」
非生産的な会話だ。こんな会話に意味は無い。
人に本当の自分を見せてしまうのを恐れた僕と、どんな話しも経験にしようとする彼女との、唯一のコミュニケーション。
無意味な会話に”本当の僕”は必要無い。
無意味な会話なら彼女も気楽に討論できる。
互いの深みに干渉しない、この距離がとても心地良かった。
「さて、でね、人間恐怖症なきみについて考えてみたんだよ。
そしたらね、憶測だけど、本当の自分を知られたくないから嘘をつくんだって、わかったのね。」
僕が最近見つけたばかりの結論を、彼女はすぐさま推測出来たというのか?
「きみがこの世で生きる為には、嘘を吐かなきゃいけない。それこそ正に、息を吸う行為と同じく、きみにとっては重要な行為。」
自己分析の結果と、同じ事が彼女の口から語られている。
病の自覚がある患者が、医者にカルテを見せつけられたのと同じような感覚だ。だが生憎、僕の病は治らないものである。
僕は弱い自分を隠すため、弱い自分の心を隠すため、すべてを欺いてきた。
友情も、恋愛も、僕は無茶苦茶に欺いて生きてきた。……勿論、今も、だ。
「”息を吸うように、嘘を吐く。”
どう?上手だと思わない?」
彼女は、そうやってニヒルに笑った。これで結論が述べられたらしかった。
「大した事無いから。ばーか。」と僕はニヒルに返す。彼女は笑みを崩さないまま、数学のテキストに向かった。
彼女はこんな僕との会話が楽しいのだろうか。
空っぽな僕と、空っぽな話を交わしても楽しいのだろうか。
…そうだな、楽しいんだろうな。
こいつは、そんな奴だ。どんな奴にも絶えず笑顔を向けて、ニコニコと会話を持ちかける。人間思いで、僕とは正反対だ。
だからこそ、僕は「君の癖を沢山見つけてしまうほど」、君を眺めていたのかもしれない。君に興味があったのかもしれなかった。
「……君は馬鹿だ。僕は君なんかと話してても面白くないね、低レベルすぎだ。」
「へっへっへ、照れるなぁ。もっと褒めてよー」
「そもそも君の話の流れも無茶苦茶だ。意味もわからない。」
「わかりやすく伝わったらしく、嬉しい所存であります!」
「非生産的で無意味だ。こんな会話に意味もへったくれもない。」
「私もきみと同じく、この会話には意味を求めてるよ?」
「ああ、もうウザったい。どうやったらそんな風に僕の言葉を解釈出来るのかな、本当に君は、」
「………ふふ。」
「……本当に、僕は君が嫌いだ。」
頬を赤らめた彼は、口角を上げながら、余裕そうな表情で呟いた。
それを彼女は口を閉ざしたまま、ニコニコと眺めている。最初に見せた、暖かい笑みだ。
「僕は、ずっと前から君が嫌いなんだから。」
一呼吸、それを聞いた目の前の少女は「ほんとに嘘つき。」と言葉を吐いた。