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「何も見えていないんだね」

 喫茶店にくるのは、ずいぶん久しぶりだと思った。女の店員が僕の座るテーブルまでやってきて、冷たいアイスティーをコースターの上にやさしく置いた。その隣にガムシロップとミルクのカップを置く。そして去っていった。僕はアイスティーの中にガムシロップを注ぎ、黒く細いストローでまぜて一口飲んだ。あまり馴染みのない場所だなと思う。ログハウス調の店内は、決して少ないとはいえない人数がいるにも関わらず、静かだ。話し声は聴こえても、耳に届くか届かないかくらいのものでしかなく、食器が触れ合う音のほうが勝ってしまうくらいだ。すこし僕は天井を仰いだ。太くしっかりとした木の梁が組まれ、中央に空けられた箇所からシーリングファンがしつられている。小さくジャズの音楽がかかっていて、壁の窓からは木と葉と駐車場がみえる。それらを傍観するときに、扉が開いた。振り返ると、僕を呼びだしといて遅刻する彼女がきょろきょろと僕の席を探していた。目が合った。「ごっめーん」、と口を動かしてうっすら笑っていた。

「ごめんのー、こっちから呼び出しといて」と帆音はたいして申し訳ないと思っていなさそうな口調と表情で言いながら、向かいの椅子に腰をおろした。

「いや、いいけど」俺も今来たところだから、と言おうとしたがそれはデートに使うものだと思ったのでやめた。「それで、俺に言いたいことって?」

 母が僕にクラゲについて何やら話したあと、僕は自分の携帯電話に知らないアドレスからメールが送られてきていることに気づいた。「明日、一浪に言いたいことがあるからここの喫茶店に来て。あっ、あと帆音でーす」とここの地図を貼りつけて送られてきていた。僕に言いたいこととは何だろうか、といろいろ考えてみたけれど何もなかった。まずどうやって僕のメールアドレスを知ったのだろう。中学生の同級生に訊いたとしても、僕のことを覚えている人なんていないだろうし、まず彼女自身も僕と同じ状況にいるのだ。そこのところも明日訊こう、ということで昨日は解決した。だから今日訊ねる。

 「んー」と帆音は僕に返事しながらメニュー表をみて、店員にアイスコーヒーとショコラケーキを注文していた。店員が去っていくと帆音は「まあまあ。まだ時間もあるし」と店の壁にかかった時計をみてそう言った。僕も釣られて時計をみると、時刻は午後三時半をまわったくらいの時間だった。「あのさ」

「どうやって俺のメアドを知ったのか訊いていい?」

「え」と帆音は言った。「なに言ってんの一浪。最初からメアド知ってるじゃん。中学のときから知ってるよ。ま、一浪は覚えていないだろうけど」

「そうなの?」僕は自分の携帯をひらき、電話帳に登録されている中から帆音の名前を探した。たしかにいた。気づかなかった。「ところでさ、一浪」

「なに」

「海のどんなところが好きだったの?」彼女は訊ねてきた。え、としか僕は瞬時に言えなかった。海、とは綿谷海のことだということはわかった。そのとき店員がアイスコーヒーと、ショコラケーキを運んできた。帆音の前において、するりと踵を返していった。

「どうして今、綿谷海の話なんだよ」

「え、気になるし」、と帆音はまた口元を緩めながら言った。楽しそうな顔をするのが上手だと思った。しかし、どうして今になって僕の初恋の話をするのか、僕にはさっぱりわからなかった。僕が綿谷海に好意を抱いていたときなんて、小学生のときだ。別にそれ以上に僕と綿谷海の間になにがあったわけでもないし、それからは別の子を好きにもなった。別の子が恋人になったりした。ただ、綿谷海が僕の初恋だったというだけなのだ。どんなところが好きだったかなんて覚えていない、と僕は言った。「ただの初恋。聞いても面白くなんてないぞ」

「ふーん」帆音はショコラケーキを一口フォークで切って、それを食べた。美味しそうな顔をするのも上手だと僕は思った。「今は海、どんな感じか知ってる?」

「知らね」と僕は答えた。「なんなら中学からあんまり喋ってない気がする」

「そっかー」帆音はショコラケーキの二口目をフォークで切っていた。「でも一浪、まだ好きなんでしょ?」

「は?」

「え、まだ好きじゃないの?」

「なんでそうなんだよ」なんでそうなんだよ。僕はアイスティーを飲んだ。

 綿谷海。僕は彼女のことを脳裏で思いだした。綿谷海と名を聞いて、浮かび上がる彼女の姿は背も低く、赤いランドセルを背負っている。生まれたばかりのような飾りもない純粋な黒髪をしている。帆音とよく似た形のいい耳をしていて、給食を食べるときはよく髪をかけていた。最後に話したのは、中学に入ってすぐのときくらいだったと思う。けれど、どんな話をしたのかはもう覚えていない。

「海ね、たまに会うよ。私」

 だからなんだよ、と僕は思ったけれど言わなかった。「そうなのか」

「うん。今彼氏いないよ、あの子」

 だからなんだよ。僕は頭を掻いた。「ああ、そう」すこし鬱陶しかった。それからすこし空白ができた。その空白はとても自然とした流れによってもたらされたものだった。僕らは何となく黙り、何となくアイスティーを飲む僕だったり、何となくショコラケーキを頬張ってはこくりと肯いて美味さを認識する彼女だったりした。ジャズ音楽が流れている。窓の外の木葉が取りこぼした陽が風によって影ごと揺らされている。シーリングファンが回っている。隣にいる三十代くらいの女客がひそひそとした声で話している。コーヒーの匂いがした。それらを観察できるくらいの静寂が僕らの間にあり、やがて帆音の声によって空白は埋まった。「あ、そういえば一浪」

「なに」と僕は彼女を見る。

「前私が訊いたあの質問、わかった?」

「あの質問?」僕は訊ね返した。

「ほら。「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけか。」って」

 「あー」、確かに訊かれた。それで僕は意味がわからなかったのだ。それは今もだ。今、そう訊ねられても僕はわからない。なにも答えることはできなかった。「わかんねえ」と僕は正直に言った。「そんな難しいの、わかるわけねえよ。まず、それがわかってたら俺は今こうなってない」

 帆音はそれに返事をせず、アイスコーヒーを一口ゆっくりと口に含んだ。そのあと、ショコラケーキをまた頬張り、ゆっくりと味わって「うまいわー」と簡単な感想を述べた。それからもう一口を食べ終えてから、ようやく「一浪」と静かに僕の名前を呼んだ。なんだよ、と僕が反応すると、彼女はすこし微笑みながら「何も見えていないんだね」とその表情とは釣りあわない冷たい声でそれだけ言った。


「何も見えていないんだね」


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