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彼女の言葉・海月

  彼女の言葉はいつも僕の夜を不確かなものにしてしまうような気がした。いつもなら通らない坂道のガードレールに空き瓶を当てたりしながら歩いている。彼女がしてきた問いについて慮るには、いつもより多くの歩幅を必要とした。だから今日はコンビニエンスストアから僕の家までの帰り道を、反対側の道にすることにした。坂道のガードレールからはコンビニエンスストアと後ろの海が広い面積で見下ろせる。ガードレールではない方へ目をやると、知らぬ間に咲いていた紫陽花が、初夏がきたことを教えていた。空に雲がしたたり、生温い風が紫陽花の葉をくすぐっている。前から誰か人が歩いてきた。僕の足音がずれて聴こえる。僕は顔をうつむかしたまま、ガードレールの下で生えた小さな雑草や自分の靴を意味もなく見つづけていた。

 海花帆音の存在について、僕はいろいろと翳みきってしまった記憶からなんとか一部分だけでも思い出そうとしている。僕の歩みに影はちゃんと追いかけてくる。しかし、紫陽花の束は追いかけてこない。それは僕が離れていくからであり、花が動かないからである。月がまた見えてきそうな気がするのは、静寂がそう告げているように思えたからだった。僕はひたすら思考の淵から奥へとじっと覗きこむ。歩いているという感覚が消失してゆく。しかし僕は思考も足も、止めることとなる。静寂が告げていることが、事実だったことを知る。雲が退け、青いそれが垣間見える。前へと視線をもどすと、ヤギ顔の友人が驚いた顔で僕を見ていた。

 ヤギ顔の友人は、すぐに僕から目を逸らした。そしてまた歩みを再開させた。不快そうな顔つきをわざと見せ、僕の隣を通り過ぎようとする。そのとき僕がまた彼の足取りをとめた。「なあ」、と。「なんでそうなんだよ」、と。

「は?」しばらく歩いたところで、ヤギ顔の友人は振り返った。

「なんでそんな態度すんのって訊いてんだよ」僕もつま先を彼に向ける。

 「そんな態度って、なんだよ」ヤギ顔の友人が苛立ちを隠さずに僕に言った。「誰だよ、お前」そう言ったのだ。僕は片手に持っていた空き瓶を道に落とし、拳をつくった。いきりが僕の底からさかのぼってくるのが血液の走る脈絡からわかった。彼の口調、彼の表情、彼の態度、それは僕が「友人」と呼ぶ関係の頃にはあり得ないはずのものだったからだ。「ふざけんなよ」斜め前に立つ彼を僕は睨みつけてそう言う。

「……は?」、とまたヤギ顔のこいつは声を落とした。その声はすこし上擦っているように思えた。僕が彼との距離を削ってゆく。ヤギ顔のこいつはそんな僕の足取りをくい止めようとするように、瞬間でも思い浮かんだ罵声をやみくもにぶつけてきた。「ふざけてんのはお前の方だろ」「俺がふざけてる?」「俺は何もふざけてなんてね」

 彼の罵倒が途切れる。僕でもどうしたのか一瞬、思考が追いつかなかった。しかし、すぐに僕はその感触と脳天まで上り詰めてきた憤りで気づいた。はっと冷静さが振り返ったとき、僕は彼の目の前で握りしめた拳を振り上げていた。彼はとっさに両手で顔をかばい、息切れのような声を洩らしていた。そのまま拳をよろよろと落としたとき、僕は彼がもう「友人」ではないことを初めて理解した。きびすを返し、僕は彼に背を向ける。そのとき、小さく「こんな奴じゃなかったのに」という彼の言葉が聞こえたような気がして、僕は鼻をさすった。眼を閉じて、瞼の厚さでいろいろなものを隠した。次に眼を開けたとき、雲は縒れ、いつも通りな、あの月が見えている。




 テレビには、青く暗い水槽のなかで不自由ながら自由をよそおったように浮かんだり沈んだりと退屈に動くクラゲの映像がながれていた。女のナレーションが、その映像の流れに声を足していく。クラゲの生態についていろいろと説明しているようだが、僕にはそれらが理解した上で頭まで届かない。なぜなら僕はそんなテレビなど見ていなかったからだ。僕はテレビに背をむけ、じっとダイニングテーブルに肘を置いて椅子に腰をおろしている。僕の向かいには母親が同じような体勢で座っていて、僕のことを見つめている。その視線はなぜか落ち着いていない。僕の目を見るときもあれば、僕の頭部へ跳ねることもある。呂律の回り切れていない母の眼差しだけれど、強い意志はどこに向けられたものにも持ち合わされていた。見る、というより、穿つ、に均しい力を持ったその意思は、最終的に僕の目へと安定する。

 母は黒いガウチョパンツに、白いブラウスを着ていた。まだ帰ってきてから、母はなにもしていない。風呂にも入っていないし、夕飯も作ってなどいない。いつもならスウェットに履き替えるはずなのに、今日は履き替えることもしない。帰ってくるやすぐに僕の名を呼び、向かいに座らせた。母はしばらく僕を見つめたあと、目を逸らして鞄から煙草とライターをとりだして一本口にくわえて火をつけた。そして一口、深呼吸の役割も含んだように大きく吸って、大きく吐いた。「ねえ一浪」母が僕に話すことなど、何となくわかっていた。ダイニングテーブルの中心に落ちる照明の光が、煙草の煙のたどる道を示した。

「なに」

「母親っていうのはさ、一番近いのに、微妙な立ち位置からしか子供を見れていないんだと、最近思ったの」

 僕は黙った。そのときポケットでバイブ音が鳴った。携帯電話にメールが届いた。しかし、僕はすぐに確認などしなかった。友人からメールが送られてくるとは、今の自分からして在り得ないと思ったのだ。どうせ迷惑メールか何かなのだろうな。

「わたし、十七年と言えばすこしお釣りが貰えるくらいの月日をあなたと過ごしてきたよね」

 だから、「だから、なんだよ」僕はテーブルの上にほったらかしにされている煙草のパッケージデザインに、じっと目をやっていた。母は言った。「だから、そろそろ私も知りたいの」

「なにを」

「あなたが学校に行かない理由」それと、と彼女は言葉をつなげ、言葉を僕にぶつけてくるのだ。「あなたがそうなってしまった理由」

 煙草がみるみる丈を短くしていく。煙がとぼしくなり、母は灰皿をちら見してそこに煙草を潰した。僕は舌打ちをした。「別になんでもいいじゃん」

「あなたが学校を休んだことはなかった。中学校のときは皆勤賞も貰ったじゃない。保護者面談のときには、よくムードメイカーなんて言われていたし」だからなんだよ、と僕は先ほどよりすこし声を荒げて言った。「親って、一番近い距離にいるのに、子供の肝心なことをわからないこともあるの。けれどね、一浪?」あなたに何かがあった、というのは親だからわかるわ。そう母は言った。

 ところで、クラゲの目はどこにあるのでしょう? テレビで女のナレーションがそう言っていた。テーブルには十八本になった母の煙草が蓋をあけたままで置かれている。母は変わらず僕を見ている。まぶたにかかる前髪が、照明が当たってすごく明るい。僕はゆっくり息を噛んで、呑んだ。ヤギみたいなあいつの顔が、脳裏のほとりを早歩きで渉った。波の砂浜を這う音もした。母の視線が僕を穿ってくるようだ。僕はもう穴だらけで、あちこちから零れ落ちてきている。

 母がもう一本煙草を吸い始めるくらいのときに、僕は母に打ち明けることとなった。僕が忘れられたことと、春休み前に見たあの月のことと。母はその僕の話に、なにも言葉を挟むこともなく、ただ瞼を閉じたり開いたりして花のような表情でこくりこくりと肯いていた。僕は自分のことを語りながらも、自分が何について話しているのかわかっていない感覚も同じ比率で引きずっていた。そんな陽と影のような心の上で、「一浪、変わったね」とだけ呟く海花帆音の存在も、テレビにうつるクラゲみたいに浮かんでいた。「一浪、変わったね」確かにその通りなのかもしれない。「一浪、変わったね」僕が変わった? わからない。煙草が十八本から、十六本に減った。


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