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二つの月・ライター・彼女の言葉

「へえ……」、息にまぜた声をこぼしながら、僕は飲干したサイダー瓶をそのまま放り投げた。それを見ていた帆音は、投げられた瓶を見てから僕の顔を見て、「やっぱり一浪、変わったよ」と小さな声で洩らした。捨てたサイダー瓶は、すり寄ってきた波に被さってすこし転がった。

「変わった? 俺が?」

 うん、と彼女はうなずいたあと、「それじゃあー、またね」とサイダー瓶と同じようにそんな言葉を放り捨てて岸の方へと戻っていった。

 隣に彼女がいなくなってからも、すこしだけ僕は月を見ていた。自分が、変わった? 月に背をむけて僕も帰ろうとしたとき、メールが届く着信音が聴こえた。ポケットから携帯電話を取りだすと、「斉藤 伊月」という名前が記されていた。彼女の小さな呟きが、ずっと頭に残っていた。


 家に帰ったあと、僕は風呂に入っている母親の鞄からライターを取りだして、また外にでた。持ちだしたライターの火をつける。ぽっと目をひらけた火は僕の服に白く丸い光を貼りつけてくる。僕は息を吸った。それは夜空と月の関係によく似ていた。すると本当の月が恋しくなって、息をはきながら月を仰ぐと、すこし霞んで月がみえた。煙が吃音的なただよい方をしていた。雲は離れていくのに、煙は月のほうへと上がっていた。しかしその煙ではとても力不足だった。眠たくなって肩をよせてきた風に、煙は容赦なく潰された。

 ほつれた煙が雫を頭に落としてきて、僕は図らずも眩暈をおぼえた。吐き気もおぼえた。脳が輪郭をつかめなくなって、足元がふらついた。頭痛がして、僕は家のなかへときびすを返した。はじめての感覚だった。おぼつかない足元が、思考も同じ色にした。ライターをソファに投げて、僕は母親に気づかれないようにと部屋へと階段を上がった。

 ベッドに倒れこみ、窓から逆さまになった月に目をやる。月は毅然としている。月は据わっている。けれど、月は回っていた。回っているのは僕の目の方で、据わっていないのも僕の意識のほうだった。僕の瞼は、土足のままこの部屋とあの月を断ち切った。

 嫌な気分は晴れていた。けれど、まだ漠然としていた。それこそ煙の中にいるような感覚になって、これが夢なのだと気づくきっかけを掴んだ。僕は土のうえに立っていた。土だ。ここは畑かどこかだろうか、と予想してみるがそうではなかった。

 僕の部屋だった。いま僕が気持ち悪くなって倒れた、この部屋だった。しかし床は土になっているのだ。土を片手で掬ってみると、結構やわらかな手ざわりをしている。そしてなぜか、部屋には葉の擦れる音がひきずられていた。頭上から聞こえる。かがんでいた腰を持ちあげ、天井を仰ぐと天井はなかった。そこには檸檬の実った木がそびえていた。

 驚きに言葉が伴わなかった。檸檬の木は二、三本ほどあって、部屋の壁の一部はそれと一体化してしまっていた。檸檬、というところで僕は前に見たテレビの映像を思い出した。そのとき木が風も要せずに暗示的な揺れをして、檸檬の実をひとつ土の床に落とした。僕はその落ちた檸檬に目をやった。そのとき、土に幾つもの蜜柑が散らかっていることに気がついた。え。声をちいさくこぼしながら、僕はまたしゃがんで、蜜柑をひとつ手に取った。

 すると拾った蜜柑は、目に見える早さで腐っていった。皮にできていたシミが黒みを増していき、形も大きくなっていっている。指が簡単に押しこまれ、気持ちの悪い感触になってゆく。わかりやすく、朽ちて尽きる過程を見せていた。僕は左手で土をすこし掘り、そこに急速に紫色へと変色しつつある蜜柑を植えた。土をかぶせる。そしてまた立ち上がって床を一望すると、そこにある蜜柑が次々腐っていきはじめた。木は揺れ、いくつも檸檬が落ちてくる。落ちてきた。


「一浪、今日も学校サボったの」

 帆音は瓶サイダーの値段をレジに打ちこみながら、僕に訊ねた。今朝みた夢の話をしようとしていたのだけれど、僕の意識がしっかりとしてゆくにつれて内容を忘れてしまった。僕はポケットから財布をとりだし、瓶サイダーのお金を出しつつ、「ああ、うん」と小さく肯いた。

「学校をサボる、ってどんな気分?」

「もう慣れた。学校行っても、どうせ暇だし」

 「忘れられたもんね」と帆音は嫌な笑みをしながらそう呟くように言った。それはお前もだろうが、と僕は心で押し固めた悪態をついた。直接的に声には出さなかったけれど、奥にしまっていた舌打ちを小さくした。帆音は故意にそれを無視して、瓶サイダーをレジ袋にいれながら「ねえ一浪」と僕の顔をみた。

「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけだと思う?」

「え?」僕は彼女と視線をあわせた。

 そして僕はすこし沈黙に潜った。彼女はとつぜん何を言い出したのか、僕には見当がつかなかった。それは単純な質問なのか、それとも遠回りした僕への皮肉なのか、意味不明なまま完結しそうなその言葉が、黙りこんだ僕の中ではとても重力を持ったものになって聴こえた。

「なんだ、それ。わかんねえよ」

沈黙をそれで切ったあと、僕は頭を掻いて、首を傾けた。それを見て帆音はふっと笑って、「やっぱり一浪変わったよ」なんて昨日と同じような台詞を言った。レジ袋にいれた瓶サイダーを僕にわたしてくる。


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