二つの月
緩慢でありながらも雲は除けていき、幾分と削がれた形をした月が見えてきた頃には、街は海も山もどれも似たような色合いになっていた。雨が姑息にも残したぬるい風と匂いも屍となったのに、外から人々のいそしむ音はなにも聞こえなかった。雲がうねりを描きながらほどけていき、隙間から星すらもまたたかせ始める。月は住宅地の上にたたずんで、厳かな静謐を空にもつくりあげていた。
月と浮かぶのは、コンビニエンスストアで出会った僕とおなじ苗字をした彼女だった。あれからも僕は記憶の箱をとりだし、蓋をずらしては引っかかる物をかいさぐっているけれど、やはりどれも煙になっていて触れることはできなかった。彼女が言うように、僕らが本当に同級生なのなら――どこかで出会っていて、それなりに知り合っていた関係なのなら――、僕は彼女のことを忘れてしまっていることになる。ヤギ顔の友人やみんなが僕のことを忘れてしまっているように。彼女も僕と「同じ」だということになるのだ。
食事を終えたあと、僕は冷蔵庫からさっき買った瓶サイダーを持ってまた海へと向かった。また彼女に遭遇するかもしれない、という期待もあった。また話せるのならいろいろと訊きたいこともある。そして何よりも、僕のことを覚えてくれている人がいたことに僕は静かな高揚を覚えていたのだ。
海は空と縫い合わされていた。細い白線がするりと中心に引かれ、同じ色をした面が重なろうとしている。そうさせようと企むのは夜だった。夜は仮初めな唄を空気にはらませて送り、海からただよう凪に音をさずけている。薄く削られた雲が見下ろした場所には小さな蟹がいて、ひんやりとした砂の地をあくせくとした足取りで横断している。蟹の甲羅がすこし青くなる。蟹はそれに気づいていない。
月。僕は見ていた。しかし、その月は誰にも気づかれずにいた。僕だけが見ていた。月は、言葉足らずなままの形で完結してしまっていた。それにたかる月の化身は青くただよっていて、仄かに夜を薄めている。蟹はそれに気づかず、影も通りすぎて波の方へと戻っていった。僕以外に人の姿はなかった。僕は波が届くか届かないかの境目に立って、しばらく遠い地平線を見つめた。芯から丁寧に作りあげられたような静寂が、ささやかな風を流していた。月明かりで白っぽくなる僕の前髪は、潮の薫りを汲むように揺れた。海の水面には、月を模した光が落ちていた。しかしそれは偽者で、月はやはり孤独でしかない。僕が春休み前に対峙したあの金色の月も、やはり孤独であった。
おもむろに頭の位置まであげた瓶サイダーは、そんな月を閉じこめた。月はサイダーによって輪郭がぶれた。蓋をあけると、炭酸の気が抜けるような音がはじいた。僕は月をよどませたままのサイダーを、喉に押しこんだ。喉の下でうなる炭酸が、すこし眠り気を佩びはじめていた身体に染みた。深く、深く埋もれたいと思った。サイダーでは埋めることのできない空洞が、僕にはできてしまった。僕の影はすぐに負けて、月の光で青じみてしまっている。切なさを増やしてゆく気分に、僕は「すこしだけだ」と強がりを空っぽな言葉で加えた。
「なーにしてんの」
後ろから、声がした。無駄に大きな声だ。振り返ると、コンビニエンスストアにいたあの彼女がいた。
月が二つある、と彼女は水面に投影されたそれを見て呟いた。月が二つある、僕にはそう思えなかった。やはり僕にとって月は、一つしかなかった。あれは偽者だ、と僕は言った。「そうだね」彼女はすこし笑って、「あれは偽者」と言葉をくりかえした。
「俺のこと、わかんの?」
「そりゃあ分かるよ。友達じゃん」
友達なのか、僕は記憶をひたすらなぶっていた。しかし、彼女のような知り合いが僕にはいない。やはり、僕は彼女を忘れてしまっているのだと思った。
「苗字まで一緒なのに、忘れてしまうもんなんだね」
「海花……」僕は自分の苗字でもある、彼女の苗字をつぶやいた。海花、という苗字はとても珍しいものだった。なかなか聴かない苗字だと思う。そんな苗字が一緒なのだから、十分印象には残るはずなのだ。それなのに、思い出される人物は彼女ではなく、別の人物だった。
「名前に「海」がつく、というところで共通点がある人は一人だけいる。でも、君じゃない」
すると彼女は笑った。「だと思った」
「だと思った?」僕は訊ねた。「どうして、だと思った?」
「だって、他にもいたもん。海、って名前に入る子」
綿谷 海。僕の脳裏に挟まっている人物の名はそれだった。綿谷 海とは僕は小学校、中学校と同じだった。僕との関係はというと、彼女からすればただの友達だったのかもしれない。けれど僕はそうじゃなかった。綿谷 海は、僕にとって初恋の女の子だったのだ。母親も教えてくれなかったそれを、僕は綿谷海から学んだのだ。
「一浪さ、海のこと好きだったでしょ」
一浪、と僕は覚えていない相手に名を呼ばれることにすこし動揺した。「綿谷とー、友達?」
「まあ、そんなとこ」と彼女は答えた。
「あのさ、君の名前も教えてくれない?」と僕は訊ねた。
「海花 帆音」と彼女は名乗った。海花、帆音。やはり聞き覚えのない名前だった。そんな名前をした知り合いなんていなかったとしか思えない。海花帆音、海花帆音、海花帆音、僕は頭のなかで何度もその名前をつぶやいた。
「ま、想像通りの反応だね」、と彼女はまた笑った。「あなたと一緒だよ。海花一浪くん」
「え」
「私も同じ」
僕と同じ、つまり彼女も周囲から忘れられていた。




