海の花
店に入ってから、久しく触れていなかった感覚が背中にあった。二、三本とかごに瓶サイダーを入れていく。気のせいだろうと思いつつも、先ほどから妙に僕は視線をかんじていた。それはレジの方からだ。首を曲げない程度に、辺りを見渡してみる。音もないことからこのコンビニ内には僕以外に客はいないと推測ができる。ならば店員だ。すると視線の主は限定してしまう。レジには見慣れない女の店員しか、いなかったのだ。誰かに見られるなんて、とても久しぶりな気がした。最近、誰からも僕は見られていなかったから。透明人間とさして変わらないような生活をしていたから。僕は気味の悪さをおぼえながらも、反面すこし喜びの感情が滲んでいることに恥ずかしくなった。四本ほど瓶サイダーをかごに入れたところで、僕はレジのところへと向かった。女店員がすぐに目を逸らしたような動きをした。やはり、僕は見られていたのだ。
女店員は見た感じ僕と同じくらいの年齢だと思った。髪は短く、右側の前髪をヘアピンで止めている。髪色がいかにも染めたものだとわかるし、カラーコンタクトをつけているのかすこし瞳が作り物くさい。形のいい耳にはピアスの穴が空いている。僕はその耳を目にしたとき、なぜか赤いランドセルを背負った少女の後ろ姿をおもいだした。まだ幼かった僕にその少女は、教えてくれたことが一つあった。それは母からでは教えてもらえなかったものだった――、女店員はなぜか口元が緩んでいた。笑みがこぼれるのを堪えているように僕には見えた。それは多分正解なのだと思う、彼女は手馴れた様子でサイダー瓶をレジ袋に入れていくのだけれど、どうやら僕をみて笑っているのだった。財布から金を取りだそうとしつつ、僕はそれに対して軽い苛立ちをおぼえつついた。しかし、そんな苛立ちは彼女の問いによって、すぐさま重ねられ消去されることとなった。「あの……」は? 何か言われそうな気がして、彼女に目を合わせる。
「一浪だよね?」すると彼女は、僕の名前を呼んだ。
「は?」
「いや、一浪だよね? 海花一浪くん、だよね?」
その通りだった。海花一浪くんで間違いはなかった。けれど、僕は彼女が僕の名を知っているということをよくわからなかった。どうして知っている? 「そう、だけど」とぎこちなさを拭えないまま答えると「やっぱり!」とまるで中学の頃の同級生かのような口調で話しかけてきた。どういうことか、僕はやはりわからなかった。僕は彼女を知らなかった。たとえカラーコンタクトをしていなくて、髪を染色していなかったとしても、僕は多分彼女のことを知らないと言える。一瞬だけ過ぎった赤いランドセルの少女も、彼女とは別人だと思った。
「懐かしいね、どこの高校行ってるんだっけ?」「いやーほんと久しぶり」「覚えてる? 私のこと」
すまん、と僕は正直に言った。「思い出せない、同級生なんだろうなってことはその口調からわかんだけど」
僕がそう言うと、突然彼女は笑いだした。緩めていた口元が口角から大きく崩れ、二人しかいない空間に彼女だけの笑い声が響いた。「やっぱりかー」やっぱりか? その言葉に、僕はおもわず同じ文章で訊ねた。すると彼女は「いやいや、わかってるよ」とまるで僕と同時進行で自分自身とも会話しているような喋り方で言った。
「うん、そうだよね。だと思った。だと思ったから、私、此処にいるんだもん」
「さっきから意味がわかんねえんだけど……」僕は正直と嫌味を兼ねさせてそう言った。それを聞いてまた彼女は笑って、「まあまあ」と僕の肩を叩いた。手を離し、サイダー瓶の袋を僕にわたした。「久しぶりだね、海花一浪くん」
海花・一浪くん。名前を呼ばれる感触を僕は忘れていたことに気がついた。彼女は、僕を覚えていた。しかし、僕は彼女のことを知らなかった。「一浪誰だこいつ、って思ってるでしょ?」と彼女はすこし面白そうに訊いてきた。素直に肯くと、すこし間があってから「まあ、またゆっくり話でもしようよ」と言って僕にお釣りをくれた。
僕は今、多分とても険しい顔になっていると思った。よく状況がわからないまま、出入り口へと足を向けて歩きはじめたとき、「あと、一浪」と後ろからまた名前を呼んできた。
僕は止まってから、「なに」と彼女へ目をやると彼女は僕の頭あたりをちらっと一瞥して「一浪、変わったね」と暗示的な声で告げてきた。自動ドアが開き、駐車場へと出てからもう一度振り返ると、彼女の姿はなかった。彼女のころころとした丸い声がまだ僕の頭で鳴っている。誰だったのだろう、やはり僕の記憶に彼女はいなかった。分かることは、彼女は僕のことを覚えてくれている、ということと、別れ際に彼女が着ていたユニフォームの胸元の名札に目をやったときに見た。彼女の苗字は、僕と同じものということだった。