テレビ・瓶サイダー
学校には行かなかった。空には雲が押し詰められていた。小汚く濁った白色が、ならんだサイダー瓶でさらに混沌めいた顔になっていた。一階から足音が聴こえなくなったことから、母親が仕事へ向かったことに気づいた。階段をおり、リビングにあるダイニングテーブルの椅子に腰を落として、テレビの電源を入れる。
真っ黒だった液晶に何らかの前兆すらみせず点いたテレビ画面には、たくさんの蜜柑が詰められたダンボール箱と、同じように檸檬が詰まったダンボール箱が映っていた。互いに強く主張してくるその二色が、テレビの画面を半分ずつ分担していた。右側はおびただしい檸檬の黄色が隙間の影すらもまたたかせず充ちて、完全な一色の色彩で埋め尽くしている。しかし、左側の蜜柑は完全でなかった。蜜柑側にも、檸檬がいくつか紛れていたのだ。オレンジ色の中に、まるでそこに穿孔するように黄色が混入していて、画面の左側を埋めるにはまだ不完全な状態だ。その檸檬の色をはらんだ蜜柑側のダンボール箱に、僕はつよく意識がおもむいていた。画面に人の手がうつりこみ、右側からまた幾つかの檸檬が拾われて、蜜柑側へと移し変えられていった。さらに蜜柑側の画面から、元々の色が奪われてゆく。そこで僕はテレビを消した。すると切ない沈黙が現れた。それなのに音はしている。雨が降りはじめていた。街が濡れていくのがわかった。どうして今のタイミングで雨が降ったかなんて理由を考えるくらいに僕には暇があったけれど、考えなかった。消したあとでも妙に脳裏が引きずっている蜜柑と檸檬の映像に、なぜか僕は動揺していた。
雨が帰ったのは、雲がなずんだまま色のわからない夕日が終わりかけているときだった。ソファに深く横になっていた僕は、浸透してくる雨の音によってまどろみの畔に立っていた。誰からもメールが届かなくなった携帯電話をとりだして、ツイッターを開く。更新されている呟きはおびただしい数ある。しかし、その文の中に僕の名前はない。僕が学校をサボった、というのに誰からも心配するメールなどは来ていない。つい最近までは、こんなことあり得なかったのに。確かに僕という人間には、たしかな信頼を寄せてくれる友人もいて、好意を寄せてくれる女の子もいた。僕はその状況に十分な満足をおぼえていたし、それ以上の欲を出すこともなかった。しかし、僕は忘れさられてしまった。人々の記憶から。
易しい下り坂を僕は歩いていた。建物の壁は雨の余白にて湿りを佩び、季節が輪郭を手にしていくにつれて暖かくなる気温は、雨の名残惜しさで生温いものへと仕立てられていた。空気が厚着しようとしていた。空が丸くなろうとしていた。僕と夏に空いた距離は、すぐにでも埋められてしまうくらいに、夏はもう近いような気になった。
傾いた道は線路にて途切れる。一車両だけの、まるでこのくらげ町が田舎だと象徴しているような電車が走るその線路をこえると、道路にでる。道路には自動車がどちらの方向からも通り過ぎていって、行き交いが落ち着くのを見計わなければいけない。そして道路をわたれば、堤防が道路に沿って整列しているのだ。雨によって疲れた海が、いささか荒んだ波音を空に浮かばせている。雨が置いていった風が、潮の匂いをもてあましていて、僕につよく薫りを押しつけてきた。空はひどく濁った紺色を雲とたくわえていた。男子中学生二人が下校している。二人は自転車をこぎながら、薫りに手招きされて海のほうへ顔をむけていた。砂浜に犬の散歩をしている女性が歩いている。犬は貝殻などに鼻を近づけながら歩き、飼い主は波の音にたぐり寄せられて海を眺めている。僕も海を見ている。砂浜は雨で濡れているからだろう、すこし感触が重い。
散らかった波音が、今こうして葛藤している僕の味方になってくれるような気配はなかった。すこし考えに耽りたかった。春休みがあけ、何日か経過した今でも僕の頭を占領している謎は、理解していることよりも多かった。足元は堤防のまま、東の方向にあるく。こんなとき、いつも僕は寄る場所がある。海の駐車場にぽつんとある、一軒のコンビニエンスストア。それだった。
コンビニエンスストアに入ると、僕はきまって飲料が並んだ棚のほうへと向かう。その一番左側に、いつも飲む瓶サイダーはあった。やや青っぽい色合いをした瓶を手にとる。気がついたときから、僕はよくこのコンビニエンスストアで買った瓶サイダーを飲んでいた。それはまるで当然の事柄のように。瓶サイダーが僕に賦与してくれるものはきわめて少ない。仮初めにすぎない僅かでありながら直接的な刺激と、すこしはっとさせる沈黙だ。僕がこうして何かしらの時間を求めているとき、いつも片手にはこのサイダー瓶を持っている覚えがある。こういう性格上、僕はよく自身の中で燻りはじめた煙とは、対峙しなければ気がすまないのだ。その煙にも様々なものがある。そんな煙らと向き合うとき、決まって僕はこのコンビニエンスストアに来るのだ。




