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別れ・この街について

 僕が関係しているものだけが、まるでスプーンで種を穿ったかのように皆の記憶から消失されている、ということ。僕はそれについて、ようやく曖昧に煙っていた心情から思考を移せることができた。家に上がり、いつもはしないのに水を何杯か飲んでみたりした。階段をあがり、最初にみえる部屋のドアノブをひねる。二階の廊下は潮の匂いがした。さざなみに手首を掴まれて寄せられてくる潮の薫りが、鼻腔に触れてきたのだ。はっとしたとき、僕は部屋のドアを開けてしまっていた。自分が忘れさられた理由はなにか。視界が邪魔ならば瞼を閉じてみたが、答えが浮かび上がることはなかった。潮の薫り、瞼を開けるときにドアが閉まった。ぱたん、音が鳴って匂いが途切れる。僕はそのドアによって、乖離されたのだった。突然の別れを切りだしたように閉まったドアの音が、ヤギ顔の友人が僕にこぼした言葉を思い出させ、やるせなさを煽った。

「……何なんだよ、まじ」

 独り言は独り言のままで終わる。窓縁に並べられているサイダーの空き瓶に目をやり、そして今日も月が唄っていることに気づく。月は孤独について語っている。誰か、一人でもいい。僕のことを覚えている人はいないのだろうか。窓を開けると、夜が風を手放してくる。雲はある。けれど、月に近寄ろうとする雲はいなかった。泰然としている月の下の住宅地は、完結された静謐を空気に縫いつけていたのである。小波が朝に呼びかける声すら、聴こえてきそうな気がした。

 普段よりも静かな夜が、今日だった。自意識過剰になってしまった僕が勝手に思い込んだことかもしれない。けれど、今日は静かだった。ツツジの花が、何かしらの暴力によって散らされている。横たわった花びらは、明日を知ることはできない。あの花にとって、もう春は終ったのだ。さよなら、だ。

 さよなら、僕はその言葉をサイダーの空き瓶の中へと落とした。瓶底に軽い音をたてて落っこちたさよならは、月が語る孤独をその細い手で受けとって、自分に滲ませた。今日のことが自動的に脳裏に思い出されてゆく。ヤギ顔の友人は僕を見つめてこう言うのだ。

 さよなら、と。確かに僕にそう告げる。その言葉にうなずきたくない僕を、季節は無邪気なのか無垢なのか無視なのかわからない顔して去ってゆくだけ、だ。


 僕の街。僕が生まれ、僕が雨を知り、雪を知って、空の青さを一番多く見た街。初めから、今の瞬間もずっと僕にへばりついた薫りや感情も、すべて教えてくれた街。僕が暮らすこの街の名は「くらげ町」と呼ぶ。正確に漢字にしてみると、「暗気町」と書くらしい。くらげ町には、いつも海が隣り合わせになってあった。僕がまだ喋れないときから、当たり前だけどその海はあった。家からゆるいくだり坂になっている道を歩いて、建物や信号と、横断歩道を抜けると堤防のつらなりがみえ、その堤防をまたぐと地は砂浜になって海が視界を覆いつくしてきた。小学生のとき、集団登校での道のりはその道だったから、僕は毎日堤防に立って海をながめて歩いた記憶がある。中学生のときには自転車登校で、いささか遠回りではあるけれどその道を走って毎日海をながめながら学校へ通っていた。僕が生まれた頃から、あの海はあの海のままだった。僕の街。僕が母を知り、言葉を知り、子宮の中を忘れた街。つまり僕の故郷を、説明するとそんな街だ。

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