さよなら
窓にしがみついては剥がれていく雨粒が、景色も冷静な息で奪っていった。車両の中はよどんだ空気が蒸れていて、居心地が悪い。もうあの無人駅は小さくなって見えない。まだ佳代がそこで立っているのかどうかも、関わりを切り捨てた窓は映してくれない。今の車窓はぬかるんだ道と、田んぼをひとしきり流し込んでいき、やがて赤い鋼橋の上をわたる。途切れ途切れでみえる深い川面は、雨が殴りかかって騒がしい。不規則な振動で肩から一気に重力で持っていかれる。
暑い。額に芯から張りついた前髪を指でつまんで離す。溶けたヘアスプレーが中途半端に毛先に残っている。電車が各駅に止まるたびに、つよく焦燥感で内側を押される。全力で走った体が、まだ状況を理解しきれずにひたすら汗をほのめかしてくる。汗を袖で拭う。携帯電話に目をやるけれど、やはり帆音に宛てて送ったメールは未送信になっている。
つり革を握りしめる手の力が軽くなる。送信できなかったメールの内容をひらいて、その文面を読み直す。いい具合に自我の海底に溶けこんでくる気持ち悪さがあらためた姿勢で清楚な格好をしてやってきて、送信されなかったことに思わず安堵する気持ちもいささか生まれた。僕らしくないメールだ。まずこんなに長文で文章なんてあまり書かない。僕の物語なんて、文章に起こしてみても短いものだ。中学のときはかなり自分はおしゃべりでたまに迷惑がられるくらいにうるさい奴だと思っていたけれど、今になってあまりそういったタイプじゃないのかもしれないなんて自分を見つめ直せたりした。あまり自分という人間に、言葉を多くは必要ないのかもしれない、と。しかし、帆音に送るメールには、それだけの言葉を使用せざるを得なかった。それは、これからも。帆音はもう僕のことなんてほぼ全部知ってしまったのかもしれないが、僕は何も彼女を知らない。まだ訊きたいこともあるし、そして彼女を助けられていない。僕と帆音は、外面はなにも似ていなくても内側の隅っこに咲いた花の種類くらいは同じだと思うのだ(それは僕だけが思っていることかもしれないけれど)。
僕が帆音に訊きたいこと。たくさんある。僕が帆音のことを忘れている分、いろいろとある。中学の頃、僕らはどうやって知り合ったのか、だとか彼女と僕の間に、強い思い出などはあるのだろうか。それと――どうして彼女は、僕が「忘れられた」ことを最初から知っていたのか? だとか。景色に、建物が増えてきた。そろそろ最終駅だ。別にそこで降りたからといって、帆音がいるかなんてわからない。根拠なんて何も無いのだ。
そして駅に到着する。そうだ、綿谷海のことも訊きたい。決して、興味が無いわけではないから。
ホームのいささか長い階段を降り、改札で整理券をわたしてそこからの乗車金を払った。外にでると、石畳のまるい広場があり、円型の木のベンチが二つほど設けられていた。雨で誰も座ってなどいなかった。外壁がすべてガラス張りのショッピングモールが建っていて、その前にはタクシーの駐車場があり、その後ろでバス停がL字で並んでいた。ショッピングモールの中にある洋服屋の袋をもっている女子高生や、傘をさしながら会話している女子高生たちの姿も、少しだけどいた。僕はそのなかで帆音の姿を探してみるけれど、帆音はいなかった。僕はバス停とは反対側のほうへと歩いた。反対にはJRの駅があり、中に入ると、ここら辺でやっている地方テレビのキャスターとそのゲストが生中継をしていた。カメラマンの前でとても作り物くさい笑顔をみせてなにか喋っている女性キャスターを通りすぎ、僕はJRの駅を抜けた。ビジネスホテルや、居酒屋、商店街に繋がる横断歩道などが、駅のガラスドアをでた途端に僕にこの街について前のめりの姿勢で語ってきた。見慣れた景色だ。どこか都会になり切れなくて、垢抜けない駅前だと、僕はいつも思う。雨は梅雨らしく偉そうな顔で雨を降らしてそれらを濡らしていた。古臭い音が癒着している横断歩道を、ビニール傘をさしてわたり、暗い色合いになった石畳の道路をはさんだ歩道の右側の方をあるいた。屋根があったから傘をしぼめる。しぼめた傘からしたたった雨粒がスラックスの裾にかかって、足元をみると今更さした傘の意味なんて皆無なくらいにすでに全身が濡れていることに気づいた。
ふとサイゼリアに入っていく女子高生がみえて、目をやってみるが帆音じゃなかった。プリクラを撮ろうとゲームセンターを指差している女子高生のグループにも、帆音はいない。僕とおなじ高校の制服をきた子もいくらか見かけた。アイスクリームを挿んだパンを頬張る男子高校生に混じっている女子高生も、帆音とは違う。商店街のほうも探したが、いない。帆音、どこにいるんだよ。いままで僕の頭でくすぶっていた煙は、消える際に彼女まで消してしまった。あるいは、隠してしまった。不意に散った桜みたいに。今日の選択が違っていた場合の明日みたいに。あるいは。
汗は乾いたのに、雨でシャツは濡れていた。偶然でしかない雨なのだろうけれど、僕は何かしらこの雨に暗示的なものを感じてしまう。そんなもの、何も無いのに。何かを伝えているような沈黙が、ひたすら降りてくる。帆音は僕のことを、忘れてしまったのかもしれない。いや、違う。僕は振りかえり、駅に戻ろうと思った。ここに彼女はいない。くらげ町に、彼女はもういない。そう思ってしまえば足取りも軽くなるかなとか思ったけれど、雨が染み込んでやはり重かった。それも、何となくわかっていたことだ。
雨の音がぼやけて、静かな隙間があったような気がした。うまく記憶が握れなかったその隙間で、僕にまたたいたのは彼女らしき横顔だった。横断歩道をはさんだはす向かいにあるマクドナルドから、彼女の無駄に大きな話し声が聴こえた。目を凝らしてみると、彼女と似たような容姿をした女子高生の足が数人みえた。そこにいるのか、僕はまた走りだして、横断歩道の信号が変わるのを待った。焦りがひどく胸を叩いてきた。足裏を浮かしたり落としたりと落ち着くことができなかった。信号が青になり、やや駆け足で僕は横断歩道をわたる。一階のレジで注文していた女子高生たちが二階のテーブル席へと階段を上がろうとしている。待ってくれ、どうして僕に気づかない?
扉を押してマクドナルドに前のめりで入店したとき、その息を切らした僕の、慌てように思わず階段を上がろうとしていた女子高生たちが止まった。僕に目をやっている。ひそひそと何か言っているような気もする。僕はその軍団に帆音の姿を探した。とても明るい栗色の髪、ピンでとめた前髪、目元の大きさが釣り合っていないカラーコンタクトの瞳、リップを執拗にぬった唇、たしかに彼女はいた。しかし、すぐに彼女は帆音でないと思った。そして、すぐに彼女は帆音ではないと言えた。
「綿谷……?」
それは僕の初恋の相手だった。綿谷、海。しかし、今僕が目にしている彼女は、まるで僕が知っている彼女ではなかった。帆音、どこに行ったんだ? やはり探してしまう。綿谷海が僕をじっと見ていた。ひび割れてささくれた呼吸が、やや暴力的に洩れる。雨で寒い。暑い。すこし笑いたくなった。さよなら、だ。さよならが途切れる。音も生まれず。腹の中から泣きじゃくる声も無い。
さよなら。気づくと僕は、彼女を忘れてしまっていた。 END




