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衣替え・さよなら

 午後から雨が降る、と天気予報士は言っていた。傘を持ち歩いた方がいい、と。僕はそんな忠告を耳の縁あたりに付着させとき、ビニール傘を持って外にでた。二年生になってからの思い入れなんて染みていないままブレザーは片づけて、久しぶりに着ようと思った制服は白いシャツにやや薄生地となったスラックスだった。三ヶ月ほどの期間が、僕に感触の悪い緊張を投げてくる。春休み明けのあの日が、振り返ってくる。ヤギ顔のあいつの顔や、僕が必死になって腕を掴んで呼びとめた人たちの顔が、僕の歩みに比例して振り返ってくる。初めて学校をサボった日と同じような、雲の押し詰められた空に鳥が数羽ほど流れる。

 僕と同じ制服をきた生徒が、何人も僕と同じように歩いている。それは学校に近づいていくにつれて増えていく。僕は三人で歩く男子生徒の後ろで歩いていた。前にいる男子生徒たちは、僕に気づかず、朝から大きな声でくだらない会話をしている。僕も以前はそこにいた。僕もそういう日々にいたのだ。三人組のなかの一人が、後ろを振り向むいて、そいつと目が合うこととなる。ヤギ顔の、そいつと。

  

「帆音、今どこにいる? バイト中ならそれでいい。今から会いに行っても、いいかな。この前僕にした質問、答えに行きたいし。君のおかげで、いろいろ考えられた気がするよ。ありがとう。喫茶店のあと、ちゃんと佳代に会えたよ。しかもいろいろ話せた。僕が忘れられている、と思っていたけれど、案外自分の方がいろいろと忘れていたのかもしれないなんて思ったよ。ありがとな、ほんとに。それとさ、帆音。

 これからも、仲良くしてくれたりしないかな?

 多分、僕にとって帆音は結構大きい存在になっていると思うんだ。今日、こうして学校に行けたのも、帆音が言ってくれた言葉のおかげだし。いや、多分じゃないな。多分じゃないよ。帆音の存在は絶対、大きい。だから、これからもよろしくしてくれないかな? しかも、ほら。帆音も僕と同じだろ? 次は僕が、みんなが帆音を思い出せることができるように手伝いたいんだよ。まあ、僕このとおり馬鹿だから、君みたいに頭は良くないから、力になれるかどうかと訊かれれば肯けないけど。それに、まだいろいろと帆音に訊きたいことがあるし。

 とりあえず、今から会いに行くよ。質問に答える他に、もう一つ、君に言いたこともあるんだ。」

 僕はメールを送信し、スラックスのポケットに携帯電話を戻してコンビニエンスストアへと足を運んだ。波がすこし荒んだ音をしていた。湿気を含んだやや強い風が、梅雨の時期を証明させるように吹いて僕のビニール傘ががたがたと暴れた。雨はまだ降りはじめてはいなかったけれど、曇り空は朝よりも深く暗みを滲ませ、動作がにぶい雲が灰色に苔を生やしはじめた。傘を飛ばされないように、持ち手を握る手に力をこめる。

 コンビニエンスストアに入ると、男店員の「いらっしゃいませー」だけが聞こえた。あとは何も聞こえない。店内には曲もかかっていなかったし、レジの男店員以外の人は見当たらない。帆音の姿はなかった。それでも僕は本当か確かめるため店内をぐるりと回った。商品棚でサンドウィッチを並べている店員もいないし、トイレにも誰もいない。いつも僕が買う瓶サイダーがならんだ冷蔵庫のほうへ目をやってみるが、誰としていなかった。それでも僕が瓶サイダーが並んでいる箇所まで近づいたのには、また違った理由があった。

 その冷蔵庫には、瓶サイダーなど販売していなかったのだ。そこにはペットボトルの炭酸水があって、瓶の容器である飲み物など何もなかった。ポケットからまた携帯電話を手にとって開くと、メールが送信されなかったという報告が伝えられていた。アドレス帳を開いて、急いで「あ行」にいる名前を確認する。

 おいどういうことだよ、そう声になるかならないかの呟きを洩らした頃には僕はコンビニエンスストアを飛び出していた。早歩きで駅のほうへと足を運んでいた。意識よりも、直感が先に身体を侵略してしまっていた。早歩きはやがて駆け足になり、なぜこんなに自分は焦っているのか理由もわからないまま僕は走った。ローファーのつま先でつよくアスファルトを蹴った。粘着質のあるぬるい風が肌にへばりつき、セットしていた髪の毛もくしゃくしゃと崩れた。いそいで巻き上がった前髪を戻そうとしたけれど、それほど僕の気が回っていなかったことに気がついた。全力で駆けている。湿気で汗ばみ、シャツが鬱陶しくて嘆息を吐きつける。あまり運動していなかった身体がすぐに限界だと嘯く。うるせえ、とそんな弱音の胸倉を掴んで殴りかかる。そんな僕を待っていたと言うみたいに雨がこぼれてくる。雫がぽつぽつと頬を叩いてきて、赤いランドセルを担いだ女の子が僕を見ていた。どうしてこのタイミングで綿谷海なんて思い出したのだろうか、自分の思想がどう蠢いているのか把握できない。海花帆音がショコラケーキを食べていて、小学生の女の子がジャンプしてランドセルをがくんと極端に揺らしている。踏切が近づき僕だけに強く吹いている風が思考よりも意識よりも早く駆ける足を叩いて踏み切りをこえた。無人駅が見えてくる。もうすぐ時刻が十七時になる。今こえたばかりの踏切が後ろで甲高く音を放りはじめ、雨で輪郭の外がぼやっとした赤いランプが点滅する。向かいの方から、電車がやってくる。

 僕はホームへ上がり、到着したその車両から海花帆音の姿を目で探した。いない、二車両あるから、後ろの方にいるかもしれない。二車両目のほうへ行こうとしたときに、「一浪!」という声が聴こえた。佳代だ。振り向くと佳代が傘を差して僕を見つめている。「どうしたの?」と訊ねながら僕の方へと近づいてきた。

「いや、……何でもないよ。あ、それとおかえり」

「うん、ただいま。誰か探しているの?」

「いや……、」そうだ、僕は帆音を探しているのだ。しかし、佳代にそれを伝えるのはあまりよくないと思った。「ち、違うよ」

「じゃあ、また……」

 電車がふたたび動きはじめる。それに焦って二車両の車窓から中にいる乗客の顔を見てゆく。しかし最後まで確認できないまま、電車は次の駅へと去っていってしまった。「ねえ、どうしたの一浪」佳代は落ち着きのない僕の視界にいちいち入り込んでくる。「なにをそんなに急いでるの?」

 次はいま電車がきた方面に向かう電車がやってくる。僕はその電車に乗ることにした。僕は佳代の顔をつよく見つめ、言った。「ごめん佳代、今僕はすごく後悔しようとしている。きっとこれは後悔になる。わかっているよ。でも、どうしても今は行かなくちゃいけないような気がするんだ。行かなくちゃ、後悔する。もう、自分でも何となくわかっているんだ。だけど――」

 また踏切が鳴り始める。「ごめん」と佳代に目を合わせて伝えてから、向かいのホームへと走った。向かいのホームに立ったとき、佳代が線路ごしに僕をずっと見つめていて再び視線が繋がることとなった。佳代が何か言っている。雨で口元が見えづらい。風で声が聞こえづらい。すこし笑っている。すこし、泣いている。僕は佳代に、言わなくちゃいけないことがあるのだ。何を言おう、どの言葉を叫ぶ? 瞼が持ち上がったまま熱い、佳代が僕との視線から逸れる。そしてホームを降りようとするその表情とその姿を、容赦なく電車が喰った。


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