月
いつもより瓶サイダーの炭酸がきつかった。防波堤に座って海へと足を放っていると、足元の感覚が麻痺してくる。同じ海なのに、肌で得る感覚などが異なっている。背中からも潮が薫り、視界は星空をうつした水面しかない。夜だけど、明るい。埋めこまれた星が夏を語っている。このまま、梅雨の時期も通りすぎてゆく。生ぬるい風が凪をすべって、僕らは風の中で息づいている生き物だと知る。やや紫の混じった不思議な夜の色と、水面の遠くでぽつぽつと色づいた街の光がサイダー瓶によってより曖昧になる。一口飲んで、となりに置くと、水面に月の化身ができていることに気づいた。それは帆音が言っていた「偽者の月」の光ではなく、「春休み前に見た月」のものだと、僕はすぐに気づいた。僕が春休み前に出逢った、金色の月だ。
春休み前のあの日と同じような波の音で、同じような静けさと同じような風が走っては休息をとっている。瓶サイダーを一本、飲み干す。空っぽになった瓶に、僕は水面に坐ったあの月の影を重ねてみたりする。半透明の向こうで月が浮かんでいるのをじっと見つめて、僕の心が同じような状態であることにまだ消えていない炭酸の気配を連れていった。うまく位置を取り戻せていない心が、夜に含まれた紫色よりぼんやりとある。頭か、心臓部分か、手か、腹か、わからないけれど、どこかに。
「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけだと思う?」
何も見えていないんだね、と帆音は言った。こんな奴じゃなかったのに、ヤギ顔のあいつが言った。海はいつ見ても広い。それに比べて、ここから見上げる月なんてとても小さい。水面に落ちた金色の影が、今にもその海に呑まれてしまいそうだ。瓶サイダーが映している。ずっと言葉で燻られている僕は、唐突にできてしまった空白に、まだ上手く触れていないのだ。サイダー瓶を持っていない方の手が、ずっと携帯電話を握っている。すこし瞼を閉じてみれば、まだ僕の時間は先ほどの夕景で止まっている。
一浪はなにも変わらないままだよ、佳代がそう言ってドアの鍵を開ける。僕の中の、変わってしまったもの。僕の中で、変わらないもの。サイダーの空き瓶に落とした言葉は、まだ僕の家の、僕の部屋の窓際に並べられている。僕は腰をもちあげて、防波堤のうえに足で立った。次第に月が、月の影が水面から消えてゆく。仰ぐと夜に、月なんて初めからなかったことに気づかされた。
携帯電話をひらくと、「斉藤伊月」の名前が目にはいる。電話の鳴る音がしている。僕はそれを耳に当て、その電話を出た。「……伊月」
彼がなにか話している。僕はずっと黙って、ひとしきり彼が話し終えるのを待った。そして彼が用件を言い終えたとき、ようやく僕が口を開くのだ。
「伊月。話がある」
さよなら、の大概はどれも途切れさせるようなものだ。それは今も。それは僕も。さよならは、海と月に。
それから僕は、母の煙草の箱を靴で潰した。それから僕は、窓際に並べていたサイダーの瓶を淡々と叩き割っていった。「なにしてんの」と母の怒鳴り声が聞こえたが、そんなこと気にしていられない。夜が明けてしまう前に、僕は髪も染めたいところなのだ。




