「何も見えていないんだね」・多分、じゃないよ。
「何も見えていないんだね」
何も見えていないんだね。僕は黙ってしまった。先ほどのように「え」という声すら、洩れることはなかった。何も見えていない? 僕は自分の声を彼女の声にして、自分に訊ねた。何が見えていない? そして何も不明なまま、僕は自分の中で呟いてしまう。
僕は、何を見ているのだ?
「一浪」また名を呼ばれた。次は先ほどと同じ温度の彼女の声だ。
「な、なに」僕は彼女の言葉によって、強く動揺していた。彼女の言葉が、また僕を不確かなものにしてしまっていた。特に完璧な沈黙なんてそこには無いはずなのに、僕は深い沈黙のなかに埋まっている感覚になっていた。その沈黙は僕に痛みをぶつけてき、周りの音が音を立てて消える。瓶サイダーが欲しかった。なにも考えられない。僕は変わったのか、僕は何を見ているのか、僕は帆音を見ている。僕はどこにいるのか、僕は喫茶店のテーブル席の一つに座っている。帆音はアイスコーヒーにミルクを注入していた。ストローで弧を描いて混ぜながら、僕にまた話しはじめてくる。
「これまでにさ、何人と付き合った?」
「え?」僕はその質問に答えるため、これまで交際してきた女の子の顔を思い浮かべていった。最後に付き合ったのは去年の秋くらいだ。たしか性格が合わなくて、すぐに別れた。「四人、くらい」と僕は沈黙のなかで答えた。
「中学校最後に付き合った子は誰か覚えている?」
うん、と僕は肯いた。谷澤佳代という子だ。高校受験に専念したいから別れようと僕から切り出した記憶がある。あまり府に落ちていなさそうな顔をしつつも、別れてくれた子だ。覚えている。「谷澤佳代、だけど」
「そーそー」と帆音は言いながら、時計の時間に目をやった。「ここの近くに駅あるじゃん? 無人駅。そこに十七時になったら電車がくるから、待っててみ」
「どうして」僕は訊ねた。
「さっきの私の質問にちゃんと答えてもらうために」
今年も梅雨になったけど、雨の日が多いような印象は今のところ無いなと思った。空は白に比べて青が多い。駅は誰もいない。この町が田舎だということを剥き出しにわからせてくるこの無人駅は、長くも短くもないホームに面積の合わない屋根があり、その下に古びたベンチが二台設けられている。その隣に自動販売機が一つある。このホームの向かいにも、同じようにホームがある。向かいのホームにも、人はいない。携帯電話をとりだして時間を見ると、もうすぐ左側から電車がやってくる。僕はなんとなくベンチに腰かけ、彼女が僕に落とした言葉の数々の中身をかいさぐることにした。
何も見えていないんだね。
多分僕は本当の意味で、その言葉について自覚なんてしていないのだと思うけれど。そうかもしれない、と内面の一番外側ではそう呟いていた。僕は、何が見えていないのだろう。彼女はそこまで教えてくれない。すこし夏をはねのけたような風が吹いたところで、僕は答えなんてわからない。今からやってくる電車が、乗客にまぎれさせてその答えを運んでくるとは思えない。見えているものから、見えないものを探すというのはどういうことかなんて、馬鹿な自分はわからない。帆音は僕をすこし高く見すぎている。これくらい雰囲気で分かるだろ、というような空気で話してくる。けれど、帆音。僕はそこまで頭は優れていない。あまり僕に期待をしてほしくなかった。帆音は一体、僕になにを伝えたいのだろう。彼女の言葉が僕に贅肉もつかず素直な状態で届くには、補足が足りなさすぎる。だけど、僕もまた同じなのではないかと思うこともある。僕の方も、帆音を高く見すぎているだけなのかもしれない、と。帆音は僕がなぜ「周囲の人から忘れられた」のか、とっくに原因をわかっているような口調で話しているが、帆音も環境は僕と同じところにいるのだ。帆音もまた、僕を含めて周囲の人は皆彼女の存在を忘れてしまっている。それの理由なんて、帆音も理解していないはずだ。なら、偉そうにあんな言葉を僕に言えることなんてできないはずだ。自分もわかっていないことを、僕にわかったフリをして話してくる。いろいろと考えているうちに、僕は自分が苛立っていることに気づいた。どうして同じ立場のお前にいろいろ小馬鹿にされるようなことを言われなきゃならない?
それからすぐに、宙をステンレス製の何かで叩くような音がなりはじめた。一定な間隔でそれは鳴った。苛立ちはその幅を拡げていっていたけれど、尖っていた神経は踏切の音によってあやふやにされて途切れた。唐突に鳴りだしたものだから僕も思わず驚いた。踏切を見ると赤く点滅し、遮断機がおもむろに下りはじめていた。左へ首をまげると青と白の体に黄色いラインが入った二車両だけの電車が近づいてきていた。二つのホームに挟まれ、速度が落ちてゆく。そして僕の前で止まった。しゅっ、と中のよどみを排出したような音を立てた途端、先頭車両の一番前の扉だけが開いた。降りてきたのは五人ほどの学生で、僕と同じくらいの高校生だった。みんな僕とは違う制服を着ている。その中に一人、僕に目をちらりとやる女子がいた。僕を見た彼女は、すこし驚いた表情をした。僕もすぐに彼女に気づいた。僕は目を合わすことはできなかったが、何か言わなくちゃと心が背中を無理やり押してきて無作為に言葉が選ばれた。
「よ、……久しぶり」
「……一浪?」
谷澤佳代と会話したのは、二年と言えばお釣りが返ってくるくらいぶりだった。




