春休み前・別れ
月。冬が流れた後、取り残されたように拵えられたこのたまゆらである沈黙は、やがて春に喩えられた。月だ。花曇りだった昼が終わりを告げると、街は早歩きをはじめ、人々に気づかれぬように静かな夜をそこに置いた。月だ、僕の心は浅い呼吸に雑じらせて、そう呟いた。寡黙な月は、その静寂から何かを語っていた。けれど僕には月の言葉がわからない。月から読み取れるのは、せいぜい彼が無口であり、孤独であるということだけだ。いや、それが月の語りかけてくる言葉なのかもしれない。少なくともあの月は、今の僕にとって痛みをあたえてくるものであるのは確かだった。
こぼれた落ち葉や花びらを手ではらえばすぐに見つかりそうなくらいに近づいてきていた春休み前の頃にも、それと同じ月を見ていた。僕はそのとき、図らずもこの月を見てはげしい高揚感を覚えた。光る雫を夜に滲ませたその金色の月に、僕はたしかな興奮と憧憬を感じたのだ。今となっては孤独についてだけを語る月だが、このとき僕に教えてくれたものはそれでは無く、憧れだった。あのときからすでに月の周りを寄り添うとする雲の存在はいなかった。だから僕は簡単に触れた。覚えている、僕はあのとき月に触れたのだ。
月と自分との間には、何もないのだ。そう理解した僕は春休みを迎えた。春休み半ばを走っているときに、僕は自分が高校二年生になったことを思い出した。そして春休みは夕暮れのように泥むこともなく歿し、新しい学年の教室へと足を運んでいる自分までの過程を描いて終えた。
一年生のとき、よく一緒にいたヤギ顔の友人とは教室が離れてしまった。他にも仲の好かった友人たちはどれもクラスが変わってしまい、僕はまた一からのスタート、という具合のテンションだった。去年の今頃もそうだったんだし、大丈夫だろう、と。別の教室に行けば友人もいるし。僕は人見知りをする性格ではないから、友達を作ることに苦戦はしたことがなかった。だから、その面での不安は無かったのだ。
自分の席の後ろにいる男を僕は知っていた。小学校が同じだった奴だ、それならばますます話しかけ易い。僕はくるりと腰をひねって、後ろへと振り向いた。
「よっ、久しぶり」
返答される言葉は、彼の口からは添えられなかった。彼は漠然としたような表情で、僕を見つめていた。急に馴れ馴れしくされたことに困惑しているのかもしれない。それも納得できた。僕は小学生の頃、あまり彼と会話したことはなかったのだ。
「だ、だれ?」
しばらくの沈黙を挿み、ようやく返された言葉はそれだった。僕は口の中にあったガムを噛むのを一旦やめた。「だれ、って首傾げられるほどの無関係でもないだろ」と僕は言った。しかし彼は首を傾げたまま、「いや、知らない」と躊躇なく答えた。すると僕と彼の空気から妙な違和感が生まれた。知らない? 知らないことはないだろう、僕はどちらかというと、小学校の頃から活発で成績表には「ムードメイカー」と言葉が添えられているのが当たり前のような性格なのだ。クラスが違うといっても、僕と彼が通っていた小学校にはクラスが二つしかなかったし、なんなら中学校も同じだったのだ。絶対にどこかでは知り合っているのだ。しかし、彼の口からは「知らない」という四文字がこぼれていた。
「マジで言ってる?」
「まじ、だよ」
すると彼は僕に一瞬だけ目を合わせ、すぐにそらした。僕は黙ってしまった。さっきから肌に佩びられていた妙な違和感は、二人の間から生まれてきた気まずさに食べられていった。僕はきびすを返して前をむき、彼と一旦距離をとった。僕はすこし静かにいることにした。多分誰かが話しかけてくるだろう、僕は頬杖をついて、窓のほうへ視線をやった。大きな塊の雲がみえた。端っこ側に目をやると、そこから一部分が千切れていくのがわかった。目で追うこともなく、ただ傍観していると、千切れた雲はそのまま仲間たちと乖離していった。風が千切れた雲の口をふさぎ、別れの言葉を言わせなくさせた。風が去る頃には、雲も消えていた。そんな事柄に厭きた僕は、机に顔をうめて眠るふりをすることにした。
おいおい、寝てしまうぞ。声にださず周囲の人たちに呼びかけた。しかし、誰も僕に喋りかけてはこなかった。
下校の支度をしているときには、さすがにいささか怒りを覚えた。誰も僕に声をかけてこない、そんなことは今まで無かった。教室をでる際に、もういちど周りをぐるりと一瞥したが、他の生徒たちは僕が帰ろうとしていることにすら気づいていないようだった。単なる苛立ちと、気づいて欲しさにやや大きめの舌打ちをしてから僕は教室に背をむけた。
階段をおりている途中、眼下にヤギ顔の友人がいるのを見つけた。僕は歩みを早くしながら「おーい」とヤギ顔の友人に声をかけた。ヤギ顔の友人はすぐにこちらに目をやった。返事はなかった。階段をくだり終え、あらためて僕は声をかけた。「よっ、どう? 新しいクラスは」
「……は?」
それだった。いま、僕がした質問に、なにか不明な箇所はあっただろうか。文法か何かが出鱈目にでもなっていただろうか、「いや新しいクラスはどうだ、って訊いてんの」僕はすこしスピードを落としてもういちど訊ねた。
ヤギ顔の友人は怪訝そうに僕を見つめていた。眉をひそめ、シワを新たに形づくっていた。どうした、これにはさすがに僕も彼と同じような顔つきになった。春休みの間に、彼は言葉を認識できなくなってしまったのだろうか。まさか、僕は内面でかぶりを振るう。ヤギ顔の友人は、表情をかえることはなかった。
空白のような間があって、「ひとつ、俺からも訊いていいかな」とヤギ顔の友人は僕に訊ねてきた。なんだよ、妙な気持ち悪さをおぼえながら僕はうなずいた。朝にも感じた妙な違和感が、また肌の周りへと帰ってきた。
「お前、誰だよ」
階段をおり、帰宅してゆく人だかりの話し声がどこからも聴こえた。雑踏は僕とヤギ顔の友人の間や外側を通りすぎていった。何度か肩がぶつかった。足元がすこしふらついた。「だれ、だよ?」彼がしてきた問いを、僕はゆっくりと自分の口で繰りかえした。ヤギ顔の友人は、僕の顔を警戒するように見つめていた。静黙された空気が降りてきた。それがほどけていく頃には、ヤギ顔の友人は人ごみに紛れて僕の視界から消えていた。
どういうことだ、僕を通りすぎていく生徒たちの中から無作為に自分の知っている人を見つけては手首をつかみ、「俺のこと、わかるよな?」と訊ねていった。しかし、「うん」と肯く友人は一人目も、二人目も、三人目も、現れることはなかった。「ごめん」「知らない」「え?」、六人目の手首をつかもうとしたところで、僕は伸ばしていた手をおもむろに振り落とした。いったい、どうしてしまったのだ。わからなかった、これは夢なのかもしれないという感覚すら生まれてきた。春休みという期間に、何かが起きたのだ。その何かが、この現状を作りあげたのだ。
誰もが、僕を忘れてしまっていた。