9 十年前
──誰かが俺の髪を撫でている。
地肌から毛先を梳くように、細い指が触れる。
むず痒いような、気恥ずかしいような。
うっすらと目を開くと、思わぬ人の顔があった。
『あぁ、目が醒めましたか。凪』
「……ウカさま」
『駄目ですよ、無理をしては。狐が心配していました』
「……すみません」
じっと顔を見ることが不躾に思えて、目をそらす。
俺に膝を貸し、ずっと髪を撫でていたのは、稲荷の神を束ねるその方だったから。
長い美しい髪をそのままに、惜しげもなく柔和な笑みを浮かべるその方は『宇迦之御魂神』。
各地の稲荷神社で祀られる神で、本来ならお山の大社にいらっしゃる方で、俺なんて末席の者が膝枕なんてされて良い身分の方ではない。
腕を付いて起きようとしたが、体が重くて持ち上がらない。
『まだ、力が戻っていないのですよ。もう少し、休んでいらっしゃい』
「……何が何やら」
『狐が血相を変えてあなたを連れて参りました。ぐったりとしたあなたを。相当心配していたようですよ』
後でお礼をしなくてはね、とウカさまは笑う。
笑えない。とてもじゃないが、笑えない。
年端も行かぬ子供(万尋)に会う為だけに慣れぬ力を使い、その挙げ句倒れるなんて。
あまつさえ、ウカさまに面倒を掛けるなんて。
他の者に知られれば、末代までの笑い話にされてしまう。
末代なんてものがあれば、の話しだが。
「……というと、ここは」
『本山の大社ですよ。狐は他の部屋で休ませています』
目を瞑ると、額に細く冷たい指先が触れる。
そこからじんわりと温かい気が流れてくる。
「……申し訳、ありません」
『何を。あなたは私の弟であり、息子のようなものではないですか。全く、他人行儀な』
『そうだな、まるで他人行儀のようだな』
『佐田様』
音もなく現れ、すぐ側に座ったのは『佐田彦神』。
『凪が来ていると聞いてな。よもや、こんな事になっているとは思わなかったがな』
「……恥ずかしい限りで」
『何、気にするな。いつかは、そんな事もあろうかとは思っていた』
『……それは一体どういう?』
『ここのところ、狐から相談されていた。凪が人の子を見初めたと』
『……まぁ』
密かに心の中で舌打ちする。
お喋りな狐め。
用事があると社を空けていたのはそのせいではないのか。
『佐田様は結婚されておりますものね。相談には適任でしょう』
『結婚とは言っても遥か昔のことだけどもね』
『詳しい話は凪が起きられるようになってからにしましょうか。あぁ、でもこんな嬉しいことはないわね。きっと他の者も喜ぶでしょう。昨今にはなかった慶事ですもの』
「……姉さま」
本人をそっちのけで喜ぶウカさまの袖を引く。
気が早い。
まだ全然、全く、気が早すぎる。
まだ何もないというのに。
『ウカ、気が早すぎるのではないかな』
『……そうですね。でも、凪の事ですよ? あの小さな、人見知りの、奥手の凪のことですよ? これがどうして落ち着いていられますか』
あぁ、駄目だ、コレ。
ひとりで盛り上がってる。
こうなったら神も人間もそう変わらない。
女人共通なんだろうか。
思わず溜め息を付く。
『……お前も苦労するな、凪』
「……あぁ、いえ」
『まぁ、全ては凪が体調を戻してからにしよう。私の方でも何か考えてやろう。ウカ、そろそろ凪を離してやりなさい。休めるものも休めなくなる』
『……そうですね。では、ゆっくりおやすみなさい、凪』
瞼の上に載せられた手の平が冷たくて。
気がつくと眠りに落ちていた。
次に目が覚めた時には、前日の体の重さが嘘のようになっていた。