3 格子戸から
三百年と少し、生きた。
ヒトの身ですらないのだから、生きたと言えるのか否か。
ただ、そこに在る。
気が付けば、お山の祠に存在していた。
そこには大きな社があり、俺のように神になるであろう存在や、それに仕える神使や眷属のものが在った。
その中でも特別若い俺は、子供のように、弟のように可愛がられた。
末席のという意味の『末の』やら、『凪』という名前を与えられて。
それがこの小さな社に勧請されて連れられて来たのが、約三百年前。
江戸時代の末の、この街が出来始めた頃に。
この街の移り変わりを、その時の流れをこの社の内側から眺めて来た。
生まれてこの方、こんなに間近に人の営みを目にすることなどなかった。
神域でこれまで過ごし、人の手に渡り、舟でこの地に降りるまでは。
その者もすでに亡くなってしまった。
彼の息子が家業の後を継ぎ、子をなして、その孫に当たる子供が社の鳥居の周りで戯れている。
「……人は脆いものだな」
思わず口をついて出る。
決して人には聞こえぬその言葉を、神使の狐だけが拾う。
『……凪、どうなさったのです』
「……あぁ、いや。人の世の移り変わりは見ていて飽きるものではないが、そう思って」
──ほんの少しの瞬きの間に、人の生は儚く消えて行く。
その人の子のように鉄紺の着流しを身に付け、脇息に肘を置く。
姿形は人のなり。
今は青年くらいの姿を形取っている。
格子戸の向こうでは、子供達が駆けて行く。
『……寂しいのですか、凪』
「……そうなのかもしれない」
肘付いた手に顎を乗せて答えれば、狐は『そうですか』と応えた。
『ここには、私共と凪しか居りませんからなぁ』
『嫁でも貰えばよろしいのでは』
『そうですな。早速、お山へ打診でも……』
……なんだか、おかしな方向へ飛躍している。
狐はいつもこうだ。
「……要らないよ?」
『しかし、』
「まだ、嫁取りは必要ない。来てくれると云う者があれば、考えるが」
ここらで止めなければ、本当に遣りかねない。
どこの誰とも判らない相手と祝言を交わすなんて。
そこまで考えて、随分と人らしい考えだなと気付く。
これも人の世の中に在るが為か。
『あれ、子供達が裏の塀に登っております』
『注意して参りますか?』
「まぁ、怪我と壊れなければいい」
元気なのは良いことだ、と子供達の気配を辿れば、『全く、凪はお優しい』と狐に言われてしまった。
ある年の夏祭りの宵のことだった。
この街では七月に大漁祈願の夏祭りがある。
街を挙げての行事に、この社も開かれ、灯りが点される。
近所の男衆が数人で番をし、供物が捧げられる。
いつもにはない賑やかな雰囲気に、そのささやかな宴に加わった。
姿が見えないの良いことに。
「ほら、」
『なっ、いいのですか、凪?』
こっそりと供物の揚げや天ぷらなんかを狐に持たせる。
狐達は夫婦で、この夏に子が産まれた。
まだ可愛い盛りだ。
「裏でこっそりと食べさせてやりなさい。きっと、まだかと待っている」
『有り難く頂戴します。それではちょっと失礼を』
包みの紐を咥えて下がっていく狐の後ろ姿を見送る。
そして、手の中にある朱塗りの盃に口を付ける。
「……うん、美味い」
本来ならば飲み食いせずとも、困ることはない。
しかし、嗜好品ならば話は別。
たまには上等な酒だって飲みたいし、甘いものや旨いものも口にしたい。
「……今年の漁はどうだろうなぁ」
「今の所はまずまず、ってところだな」
「そういえば、隣の家の息子が……」
男衆の会話を酒の肴に、ちびちびと呑む。
こういうのも悪くない。
人の声が聞こえるのは、なかなかに心地よい。
いい加減にほろ酔いになってきた頃だった。
「お父さん!」
開け放たれた格子戸から女の子供が顔を覗かせた。
「万尋か?」
「うん。お母さんに着せてもらったの!」
浴衣で着飾った少女がにこり、と微笑んだ。
万尋と呼ばれた少女が、社の灯りの中へ現れる。
紺地に金魚の文様に黄色の兵児帯を締めて、髪には赤い絞りのかんざしを。
まだ小学校に上がるかどうかの少女から目を離せずに、すぅ、と息を吸う。
「どれ、万尋ちゃんか? お姉さんになったなあ」
「いやぁ、まだまだ甘えたがりです」
誉められてはにかむ少女を横に、大人達はまた世間話を始める。
少女は父親の膝の上に収まった。
取り落とした盃を拾い上げる。
空でよかった。
中身があった日には、怪奇現象になってしまう。
笑い事じゃあない。
目の前に花びらがはらはらと落ちてくる。
盃の中に落ちたそれを指先で摘まむ。
紅と白の爪の先ほどの花びら。
木瓜の花か。
一体、どこから?
『どうしたのです、凪!?』
いつの間にか、狐が側に戻っており、この様相に声を上げる。
こちらが尋きたいくらいだ。
首を傾げる。
『……凪から出ておるのです。その花びらは』
「……花びらって、出るもの?」
『初めて拝見しました』
……そうか。
木瓜の花は、確かに『凪』の『お印』のはず。
それなら確かに、俺のせいか。
『……凪、あなた、まさか』
そう言って狐は浴衣の少女を見遣る。
まだあどけない笑顔を、父親や知り合いらしい人に向けている。
言い逃れなぞ、出来るはずもない。
何よりこの、舞い散る花びらが目に見える証拠となる。
「……そうみたいだ」
そう答える他に、なかった。




