16 赤いソファ
「お休み、万尋」
「おはよう、万尋」
「好きだよ、万尋」
彼は万事がそんな調子で、隙があれば愛を囁こうとする。
ついでに、何かとスキンシップを取ろうとする。
手を繋いだり、額にキスしようとしたり。
それが嫌というわけではないし、彼もそれ以上を強要しようとしたりすることはない。
だけど、それに流されてしまいそうになる私も私なんだろう。
「それって、結局、好きってことなんじゃないの?」
葉月ちゃんにそう零せば、そんな返事が返ってきた。
彼女は最近、天文サークルの先輩と付き合い始めたばかりである。
(サークルの合コンの時に世話してくれた先輩とのこと)
そうなのかなぁ。
いや、自身で問うまでもなく、凪くんのことは好きなんだと思うけど。
どこか、何かがひっかかっているような気がする。
魚の小骨が喉に引っかかって、喉に違和感がある、というような。
「今日は、俺のとこにおいで」
そう誘われたのは、その日の最後の講義が始まる前のこと。
いつものように隣の席についた彼にそう誘われた。
「え……」
「いつもご馳走になってるから、今日は俺が」
そう何もやましいことなんて考えていないような無邪気な笑顔で言われてしまうと、意識している私が馬鹿みたいだ。
……あれ? 意識してるの、私?
「……都合、悪い? だったら、また今度」
「あ、いや。違うの。お邪魔するよ」
勢いで答えてしまったものの、講義の間中、そのことで悶々と考えてしまった。
彼はそんなことまで考えていないかもしれない。
だから、そんなに気軽に誘えるんだ。
今まで、二人っきりになったことがない訳ではない。
多分、きっと、そんなことには。
大学からマンションに一緒に帰って、一度自分の部屋に戻ってから彼の部屋を訪ねる。
そういえば、今まで一度も彼の部屋に入ったことがない。
いざ、チャイムを鳴らそうとすると、だんだん緊張して来て押せなくなってしまった。
「……何、やってるの?」
ドアの前に立って五分程迷っていたら、内側から彼が顔を覗かせた。
呆れているように、笑っているように、苦笑して。
「もうそろそろかなって思ってたのに、なかなか来ないから」
「え、いや、だって、男の人の部屋って来たことないから」
「そんなもの?」
苦笑しながら腕を引いて、ドアの内側へと招かれる。
ドア一枚を隔てて、取り巻く空気が変わる。
ほっとするような、ほわっとした空気に取り巻かれる。
「あぁ、でも俺も初めてだよ。女の子を部屋に入れるの」
「……本当?」
「うん。……いらっしゃい、万尋」
耳元を彼の薄い唇がかすめる。
そこで囁かれる甘く低い声が、響く。
赤くなっただろう耳元を押さえて、彼を見上げれば『してやったり』という顔。
──ずるい。
からかうように思わせぶりなことをして。
なにもしてませんよ? という涼しい顔をする。
その綺麗な顔がなまじ小憎らしい。
お土産に持ってきたコンビニの生どらの紙袋を投げつけるように渡して、ずかずかとお邪魔する。
難なく落とさずに上手くキャッチした彼は、中身を覗いて笑った。
「そんな気を使わなくても。……でも、俺もコレ好き」
彼がコンビニスイーツに目がないのは知ってる。
いや、私もそうなんだけど。
ここのところ、彼と二人で新しいスイーツを見つけては食べ比べしてる。
体重とか、気にしない。
ガチャリ、と居間へ続くドアを押し開ければ、私の部屋なんかとは違う景色が見えた。
ごちゃごちゃ所狭しと物が置いてある私の部屋とは逆に、とてもシンプルな部屋。
かといって家具がないわけではなく、基本は白・黒・グレーで所々に赤やオレンジなんかのビビッドなクッションや電化製品が置いてある。
それが差し色のように映える。
「……モデルルームとか?」
「いや、俺の部屋」
「私、ここに住みたい」
「それは困……らないな」
雑誌なんかで見るような憧れの部屋。
私と凪の部屋じゃ、そもそもの広さが違うんだけど。
「俺は、万尋の部屋の方が落ち着く」
──だって、万尋の匂いがする。
そんなことを臆面もなく言う。
「前から思ってたけどさ、凪くんって天然でたらしっぽいとこあるよね」
「え? そんなことは、ない。……多分」
予想外の言葉だったのか、ちょっと困ったような返答をする彼を無視して、二人掛けの赤いソファに身を投げ出した。