11 夜を越える
部屋に入るなり俺の事なんてすっかり忘れて、コートも脱がずにベッドに飛び込む万尋。
脱ぎ捨てた靴を揃えて後を追う。
鍵も掛けないつもりか。
全く警戒心が薄い。
──おいおい。
「……ほら、腕」
「……んー」
シワになるといけないと思い、コートを脱がせてやる。
言われるがままにその手を差し出す彼女に口元が緩む。
脱がせたコートを椅子の背に掛けておく。
ベッドに放り投げられたカードキーを取るついでに、緩みきった頬を指先でつつく。
もうすっかり夢の中の住人な彼女は、へらり、と口だけで笑った。
あどけない寝顔。
あぁ、やっと触れられた。
指先に触れられるそれだけで、強い歓喜が全身を襲う。
触れたくて、触れられたくて。
ここにきて新たな欲を覚える。
「……ここに来るまで、結構頑張ったんだけどな」
知ってほしい。でも知ってほしくない。
気づいてほしい。でも、気付いてもらってそこからは?
湖の白鳥のように、どれだけ水面下でもがいていたとしても、それを知られたくはない。
ちょっとした男心ってやつなんだろう。
「……頑張ったって?」
「……起きてたの」
うっすらと開いたその目に、俺が映る。
つぶらな榛に、俺の金色が写り込む。
答えられずに口を噤めば、柔らかな手のひらが触れる。
ペタペタと何かを確かめるように、触れる手をそのまま好きなように。
「いつだったか、この目を見たことがある気がする」
「……うん」
「いつだったかな、思い出せない」
「いいよ。思い出せなくても」
思い出せないなら、それでもかまわない。
ここからでいいから、俺のことを好きになって。
じゃないと、俺の想いは泡になって消えてしまう。
息が掛かるほどに近く、唇が眼下にあって。
でも、触れることは出来なくて。
ゴクリ、と生唾を飲み下す。
「ごめんね、凪」
「気にしないで」
また閉じかけた瞳を、手のひらで覆って。
──おやすみ、よい夢を。
カードキーで彼女の部屋に鍵を掛けて、そのままポストに放り込む。
メールをしておけば、気づくだろう。
一応、朝に電話してみようか?
エレベーターに乗り、下ではなく上の階へ。
二つ上の階の部屋のドアを開ければ、賑やかな声に出迎えられる。
『お帰りなさいませ、凪。どうでした? 飲み会とやらは』
「……ただいま」
首尾はどうなったかと手ぐすね引いて待っていたようだ。
そんな神使の狐の声に目も覚めるようだ。
適当に靴を脱いで、部屋に上がる。
ここに住んでいるのは、実は偶然ではない。
用意したのはウカ様で、彼女を同じマンションに住むように誘導したのもウカ様である。
……深くは考えないでおこう。
『万尋様はちゃんとお宅までお送りしましたか?』
「……大丈夫」
部屋に帰って、即寝に入ったけど。
上着を脱ぎながら、後ろをついて来る狐に答える。
狐の一家は社から俺の世話をするという名目でついて来た。
他の狐達はもこもこの犬用ベッドでお休みのようだ。
『それで進展は』
「……まともに話したの、今日が初めてなんだけど?」
『今時の若者は出会ってすぐにお付き合いどころか同衾って方も……』
「……どこからそんな事を」
『……まぁ、凪は奥手ですからね』
だったら、聞かなきゃいいのに。
大体、そんなこと出来るわけもない。
すっかり世の中の知識に染まってしまった狐をおいて、自室に逃げ込む。
「……疲れた」
もう六年以上も人の中に暮らしているとはいえ、ああいった場所は疲れる。
万尋が行くと言わなければ、行くこともなかっただろう。
元来、どうも苦手なんだ。
じわりと指先に残る感触に、胸のあたりがもやもやとする。
嬉しいのか悲しいのか、よく解らない感情。
よくわからないものをわからないままに、ベッドに潜り込む。
布団をかき抱いて、まんじりともせずに夜を越える。