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変化の力

「なんだってんだよ。まったく」

 青年は大きく頬を膨らませると隣に立つ顔立ちの整った男を見上げる。落ち着いた雰囲気の男は長いローブを身に纏い微苦笑していた。文句たらたらの青年の背中をそっと押して前に出す。

「この青年は新しい弟子でまだ何も教えていないんだ。師匠の自慢の書庫で少し勉強させようと思って連れてきた。案内を頼めるかな?」

「はい」

 抜けるような白い肌の少年が笑顔で頷く。黒い髪と瞳の丸顔で女の子のような可憐な少年だった。青年を促すように広い廊下を歩いて行く。その後を渋々ついて行った。

 村から無理矢理少女について山小屋へと来たが、弟子入りを願った少女には断られ続けたので仕方なく少女の師匠に手ほどきを受けることになった。だが来る日も来る日も同じことの繰り返し。山に入ってはこの草はなんだとか、村へ行っては一週間分の食糧を買い込んで、世界の成り立ちや情勢についてとか訳が分からない。

 いい加減嫌になっていた所に少女が仕事でいなくなってしまい、俄然やる気が萎えた。気分転換にと連れて来られたのがここ、師匠の師匠の屋敷。

「ああ、もうやってらんねぇよな」

 大声で愚痴り始めた青年に少年はクスクス笑いながら「どうしたんですか?」とイライラの理由を聞いてきた。

 二人は階段を上って二階へと出る。廊下は窓に面していて細いが長く、昼下がりの暖かな光が絶え間なく射しこんでいた。その窓からは森が見え、深い緑が重なり果てることなく続いている。

「修行修行っていつになったら魔法を教えてくれるんだっての」

「そうですね。最初はほとんどが魔法とはあまり関係ないような勉強が主ですからね。ぼくも同じでしたよ」

 屈託なく笑っている少年の横顔をしげしげと見つめて青年は眉を寄せる。ぼくも同じということはこの十歳ほどの少年も魔法使いを目指して修行中なのだろう。しかも口ぶりから自分よりずっと下なのに初歩の魔法ぐらいは教えてもらっているような感じだ。

「お前さ……いくつなわけ?」

「ぼくですか?十歳です」

「で、お前はどれぐらい修行してるの?やっぱり子供の頃からやらないといけないもんか?」

「そんなことありませんよ。大人になってから始める方も多いですから。ぼくは小さい時に先生に引き取られたので……」

 他の道は無かったですからと呟いて少し寂しげに微笑む。窓の外を憧れるように見つめる視線が何故か痛い。きっと外の世界の生活からは切り離されているのだろう。自分は今まで好き勝手に生きてきて、ただ何となく生活して思い通りにならないと暴れて我ながらガキのようだと思う。

 でもきっと自分は正直なだけなのだ。ただそれが他人ではなく自分の気持ちに正直なのが問題なだけで。

「いいのかよ。それで」

 少年は答えずに静かに笑っている。少し足早に歩き突き当りの扉を重そうに開けると中からは古い本独特の匂いと乾いた空気が漂ってくる。中は薄暗くぼんやりと天井まで届く本棚がずらりと壁を囲んでいるのが見えた。

 どうやらここが書庫らしい。

「珍しい本ばかりですから気を付けて扱ってくださいね。じゃないとぼくが叱られてしまいますから」

 子供らしいことを言って少年が窓にかかっていたカーテンを引き開けた。急に光が斜めに射し埃が舞う。軽く咳き込むと窓を開けてくれた。

「なぁんか難しそうな本ばっか」

「興味のある物から始めればいいんですよ。難しく考えずに」

 助言に青年は素直に頷いてゆっくりと歩きながら本を探す。探すにも何千という本の中から気になる本を探せと言う方が難しい。下を見て上を見てとしているだけで疲れて絨毯の上にどかりと腰を下ろした。

「ほんと……なにしてんだよ。俺は」

 親が止めるのも無視して村を出てきた。魔法使いになりたいと心底思ったのにもう気持ちは挫けて辞めたいと思っている。やっとやりたいことが見つかったと喜んだのも束の間、飽きっぽい自分はもうそれも幻だったのだと思い始めていた。

「魔法使いになるのがこんなに大変だなんて思わなかったぜ。あいつ見てたらさ、そんな辛さとか全然感じなかったから。おっ!格好いいとか軽い気持ちでついて来ちまって」

「あいつって……」

 少年が少女の名前を口にする。

「どうしてますか?元気にしてますか?」

「ああ。元気元気。いつも忙しそうにしてるよ」

 そうですかと微笑んだ少年の顔が複雑そう気持ちを含んでいて、青年にも少年が少女に会いたがっているのが解る。聞こうにも迂闊な問いかけは少年の心を踏み躙りそうでどう言えばいいのか迷う。とりあえず目についた本を手に取った。

 黙っていたら向こうから口を開いた。

「年が近い人が他にいなくて。僕の少ない友達の一人なんです」

「そっか……」

 修行中は外にも気安く出られない。世界の成り立ちや世界情勢を学ぶくせに、外界とは離れて生活をしなくてはいけない矛盾を師は「冷静な目で見れるようになるためだ」と言うが青年には納得がいかない。

 年頃の子供には友達を作ったり、遊んだりするのも大事なことのひとつだと思う。それなのに囲われた生活を送らなければならない。しかも少年は自らが望んだわけではない世界を生きている。

 安穏と暮らしてきた青年には想像もつかない辛い現実が少年を絡め取り心からの笑顔を奪っている……。

「よしっ!じゃあ俺も友達になってやる」

「えっ……?」

「こんな所で本なんか読んでたって仕方ないよな。外行こうぜ」

「ええっ!?」

 本を放り投げて青年は扉へと走る。戸惑い顔の少年は床に投げ出された本を大事そうに拾い上げて元の場所へ戻してから、どうするか一瞬迷ったあとでこちらを見た。

 にやっと笑って「置いてくぜ?」と声を残して廊下へ出ると全速力で走り出す。少年が名前を呼びながら後を追ってくる。

 廊下を青年の楽しそうな声と少年の軽い足音が包んでいく。


 ゆっくりと。

 

 穏やかに。




「早く来いって」

「ま、待ってください」

 少年の靴がずるりと滑り木の枝から落ちる。白い繊細な指は幹に枝にしがみつき、可憐な顔には焦りと恐怖が浮かんでいた。瞳は縋るように先に登り枝に腰かけている青年を見つめている。

「ほら。もう少しだって」

「でも……」

 青年の声援に更に動揺しながらも少年は足を再び動かして次の枝へとかける。体重をかけると枝が揺れ、葉が擦れ清々しいにおいが充満した。汗ばんだ掌には木の屑がこびりつき、なんか初夏は棘が刺さっている。よく洗濯された白いブラウスもあちこちに引っかけて汚れたり破れたりしていた。

「手ぇ貸せよ」

 ずいっとすぐ傍に出された逞しい手に少年は右手を恐る恐る差し出した。その手をぎゅっと握り少年は少年を自分が腰かけている場所まで引き上げる。

「すみません。木のぼりなんかしたことが無くて」

 ハアハアと乱れた呼吸の中で少年がなんとかそれだけを伝えた。青年はそうだろうと頷いて「よく頑張ったな」と労ってやる。

「ほら見てみな」

 少年が枝に座り落ち着いた所を見計らって眼下を指差した。この屋敷は小高い丘に建っており、よく伸びた木に登れば遠くまで見渡せた。丘の下に栄えた町は中央を川が蛇行し分断していた。狭い路地や市場の並んだ大通り、教会に領主の屋敷、公園と噴水。そして外の世界へと続く道が街から北の方へと向かっているのまで見渡せる。

「すごい……。窓から見るのと全然違う」

「どうしてか解るか?」

 素直に首を振る少年に気をよくして青年は大仰に頷いて見せる。理由は至極簡単な物だ。

「苦労して登ったからだよ」

「苦労して?」

「そうだよ。この景色は俺とお前しか見れない特別な景色なわけ。この木に登ってここに並んでみる景色だから特別。苦労しないで得た物なんてつまんないだろ?」

 少年が微笑んで納得する。そして「魔法も同じですね」と呟いた。

 そこで青年ははっとする。偉そうに少年に説教したくせに自分は簡単そうで格好いいと思い込んで弟子入りしたことを後悔して不満を漏らしていた。勝手に誤解していただけなのに相手が悪いと決めつけて。何も教えてくれないことに駄々をこねていた。

 まるで子供の様に。

「……だな。苦労して手に入れた物が凄いものだって解りきってるはずなのに。俺は今まで楽な方に生きてきたから」

 少年はただ黙って笑っている。青年の中にある狡い心が本人に言葉によって吐き出されるのをじっと待っていた。

「お前に偉そうに説教して何もかも解ったふりで何にも解っていないのに。うわぁ滅茶苦茶恰好悪い!」

「魔法、辞めますか?」

 悶える青年に少年は囁くように問う。その言葉は耳から脳に伝わり心を鷲掴みした。苦しくて青年は胸を押える。

 どうしたいのかは解らない。ただここで諦めるのは嫌だった。止めて帰っても両親はそれ見たことかと呆れ、誰も歓迎はしてくれない。それならば踏み止まって見返してやる方が気分が良い。

 それに苦労して手に入れた特別な物を自分の手中に持ってみたいという気持ちになっていた。

「いや。辞めない。もうちょっと頑張ってみる」

「よかった」

 心底嬉しそうな笑顔に青年は心を固めた。自ら飛び込んだ世界だ。最後まで頑張ってみようと。この少年だけは青年を応援してくれる仲間だ。だから失望させないようにしたいと心から思った。

 遠くで二人の名前を呼ぶ声がした。聞き覚えのある声。

「やばい。俺、勉強してない」

「したじゃないですか。本を読むよりよっぽど勉強になったはずですよ」

「なにを?」

「魔法を本気でやるって気持ちを固めたんでしょ?魔法は心の強さでその力も変わるんです。今いくら教わってもなにも形にはできないはず。でももう迷いはない。それこそが魔法には必要で一番大事なことなんですよ。それを誰が教えなくて自分で気付いて学んだ。ね?十分でしょ」

「……確かに」

 呼ぶ声がだんだん近くなってくる。青年と少年は急いで下りることにした。のぼりよりも下りの方が危ないので慎重に枝を選びながら。

 最後は軽く飛び降りてから少年に手を貸した。無事に下りた二人は笑い合う。

「魔法はあるようでない。まるで幻のようなものです。理解するのが難しくて時々嫌になるけど習得した時の喜びは何物にも代えられないんですよ」

「お前さ……魔法好きなのな」

 玄関へと向かいながらの会話。少年はとびっきりの笑顔で頷いて「これしかないですから」と答えた。

「それにもし先生に引き取られてなくても多分この道を選んだと思います」

「俺もそう言い切れるぐらい頑張ろうっと」

「はい」

 玄関先には青年の師と感じの良い上品な老人が立っていた。少年が表情を引き締めて深々と頭を下げるのを見て、あの老人が少年の師匠なのだと理解する。そして自分の師匠の師匠なのだから偉いのだということに思い至り慌てて同様に頭を垂れた。

「おやおや。二人ともそんなに汚れてなにをしていたんだい?」

 男が呆れ顔で迎える。その横で老人は柔和な笑みを浮かべている。

「木登りをしていました」

「木登り?」

 少し驚いた顔で老人は自分の弟子を見る。少年は木の上からの特別な景色話して聞かせて老人を更に驚かせた。

 青年の師は勉強をしていなかったことを責めずに出立を告げる。老人に会釈をしてから門へと向かう。その数歩後ろを歩きながら青年は師の顔色を窺った。怒ってはいないかと懸念して。

「あの子を木登りに誘うとは思わなかったよ」

 察してか男は自ら口火を切る。責めるような響きは無かったのでとりあえず安堵する。

「いけなかったか?」

「いや。なにかやるだろうとは思っていたけれどね。まさか木登りとは」

「屋敷を抜け出して町に繰り出した方がよかったのか?」

 まさかと苦笑し門を出て丘を下りはじめる。木々の屋根が陽を遮り夕闇へと変わりつつある道を一足早く頼りなくしていく。

「でもそれぐらいはやるかもしれないと思っていたけどね。君はいつも面白いことをしてくれるから退屈しないよ」

「それは褒めてんのかよ」

「もちろん」

「なぁんか嬉しくないんだけど」

 はははっと笑う師を白い眼で見てからちらりと後ろを振り返る。丘の中程まで下ってきたので屋敷の屋根しか見えなかった。あの愛らしい少年に教えられたことは多い。礼も言わずじまいだ。

「君が山小屋に来てくれて良かったと私は思っているんだよ」

 急に師が感謝の言葉を口にしたので青年はびっくりして立ち止まる。まさかそう思われているとは思いもしなかったからだ。厄介者だと思われているだろうとずっと思っていたから……。

「驚かなくてもいいだろうに。君をけしかけたのは私だろう?」

 確かにそうだ。才能があると確かに言った。その言葉が青年に揺るぎ無い決心を抱かせたのもまた事実。

「私の弟子は賢いが利口ではない。あの子に無い物を君は持っている。君から学ぶことは沢山ある。だから君を誘ったんだ」

「俺から学ぶ?」

「そう。あの子は一途すぎる。そして私の名を傷つけることを怖がっている。私の名誉の為なら死すら厭わないほどに。それが私は怖い」

 師も立ち止まり手にしていた杖を掲げ短い呪文を唱える。ぽうっと杖の先が光り、暗くなってきた道を照らす。青年と師との距離は大分広がっていた。

 少女の危うさは青年も薄々感じていた。あまりにも真っ直ぐすぎる。少女を支えているのは師への想い。

 複雑な想い。

 それが折れた時のことを考えると恐ろしい。それを懸念しているのだ。

「私が教えられることはもうそんなにない。君があの子に教えてあげられる物は私には教えられない物だ。だから……頼む」

 向けられた瞳は切ないほどの無力感に苛まれた師の思い。青年は小さく頷いて歩を詰める。

「頼むも何も俺もあんたの弟子だろ?俺のことを頼むぜ。まったく」

「そうだな。じゃあもっと頑張って勉強してくれるかい?」

「ううっ。またそれだよ」

 頭を抱えて苦しむ青年を安堵した顔で師は見つめ微笑む。青年の持っている乱暴なほどの変化の力は山小屋を賑やかにしてくれた。少女の中にも少しずつ変化は見られている。


 そして二人の師である男の中にも。


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