魔獣 後編
青年はその小さな後ろ姿をぼんやりと見つめていると鳥がクスクスと笑う。何故笑うのか解らずに眉を寄せると嘴を開けて再び喋りはじめる。
「あの子は素直すぎていけないね」
「……あんたの弟子だろ」
「素直だからこそ飲み込みも早く上達も早い。本来ならばまだ代理で出せる年齢ではないんだよ」
誇らしく思っているのか残念がっているのかいまいち解り辛い。鳥には表情が無いので声だけで判断しなければならないからだ。
「自慢の弟子じゃないのか?十二歳にしちゃしっかりしているしよ」
その問いに答えは無かった。鳥はクルクルと目を回して小首を傾げるだけ。答える気が無いのは解ったので少女が荷物を置いていた場所に腰を下ろす。
少し冷たい風が吹いて身を縮めた。
「さっきの修行のことを教えてくれよ」
「交信及び観察のかい?」
無言で頷くと鳥はぴょこんと地面に降り立ち青年の前に移動した。尾羽の赤い羽根がピコピコと可愛らしく動く。
「魔法使いの一番最初に立ちはだかる壁のひとつでね。これを越えられずに逃げ出す者も多いんだ」
「どんなことをするんだ?」
「たいしたことはなにも」
声に笑いが含まれる。青年は膝を抱えて寒さを凌ごうとしたが、太陽はゆっくりと雲の向こうへと隠れて行く。夕暮れの一歩手前。少女が休めるのはそう長い時間ではないだろう。二、三時間がやっとか。
「精神修行だからね。やることといったら呪文の詠唱と精神を集中させることだけだよ」
「……ずっとか?」
「ずっとだね。途中で気を緩めたり、呪文を止めれば結界が解けて魔に命を獲られる」
「とられる!?」
頓狂な声で繰り返すと鳥が驚いたように羽をばたつかせた。
「大きな声を出さないでくれるかい。使い魔が怯える」
「……悪い。でも」
「どんな物でも極めようと思えばそれ相当の犠牲を払わなければならない。違うかい?」
反論はできなかった。
間違いではない。
「あいつもその修行を?」
「もちろん。やったからこそ魔法使いを名乗っているんだから」
「……大丈夫だよな?」
念を押すと鳥は楽しそうに笑って「さあ」と首を傾げた。
「もし失敗したら私が無償でやるので心配なさらずに」
「無償ね」
平然と言う鳥を横目で見る。少女が魔獣との戦いを恐れているのは青年にも解った。だが代理に出した師が励ましたり、助言したりという素振りを見せないのは冷たいような気がする。
「……なあ。その魔獣ってのはどれぐらい強いんだ?」
「そうだね。王の騎士隊長」
一国の王に使える騎士の隊長といえば猛者中の猛者だ。鬼神のごとき強さと賢神のごとき智謀を兼ね備えていなければならない。とてもあの少女に勝ち目があるとは思えなかった。
「でも勝てるかどうか」
「はあっ!?」
勇猛な騎士隊長の手にも余るほどの敵というのならば尚更だ。青くなっている青年を不思議そうに鳥が見つめる。
「君が闘うわけではあるまいに」
「そうだけどよ」
自分よりも幼い少女にそんな戦いを要求することなどできない。少女の命を犠牲にして護るほどの麦はもう残っていないのだから。
「……そんなに簡単なことではないよ」
何を考えていたのか見透かされていたのだろう。深い落ち着いた声が響く。
「魔獣に荒された大地は草木が芽吹く力を失う。何度種や苗を植えても育たない。浄化に何年かかるかも解らないんだ。毎年高僧の神官を呼んで清めてもらう必要があるが、そんな金は無いだろうしね」
「そんなに?」
鳥は重々しく頷く。
「それだけじゃないよ。飢えている魔獣は人を襲う。この小さな村なら三日と持たないだろうね。そして次の村や町へと移動する。被害が拡大して最早この村だけの問題ではなくなる」
今まで人を襲わなかったのが不思議なぐらいだよと続けた。そこで青年は魔獣と遭遇した時のことを思い出した。あの時本能で命は無いと悟ったのは間違いではなかったのだ。本当なら食べられていてもおかしくはなかった。
改めてぞっとした。
「ここで止めないと本当に手に負えなくなる」
「なあ。もしかしたら魔獣じゃないかもしれないだろ?」
青年が再び否定しようとするが鳥は羽を広げて飛翔する。
長く喋りすぎた様だ。もう空は茜色を通り越して菫色と群青を混ぜた色へと移り変わっている。
「間違いないよ」
確信している声が上から降ってくる。青年が見上げると薄いひも状の雲が西の方へと流れて行った。
夕日を浴びて。
「実際見ていないのにか?」
「話を聞くだけで十分だよ。あれはあの子を随分苦しめたからね」
間違うはずが無いと告げて鳥は村の方へと飛んでいった。
少女を呼ぶために。
石床を蹄が叩く音が薄暗い地下室の中で響く。
コツコツ、コツコツ……。
行っては戻り、ぐるぐる周りを歩き回る。
「うまそうだなぁ」
舌なめずりをする様も容易に浮かぶほどそれは頻繁に来ていた。喉の奥からひび割れた声を出す生き物。口外へ出た鋭い犬歯の間から長い舌を出して顔を下から覗きこむような仕草をする。
「本当にうまそうだぁ」
再度出される声に心を動かされないように集中するのが精一杯。恐れて呪文を止めたり、精神を乱されれば目の前の獣に喰われてしまう。恐怖に負けない心を持たなくてはならない。
修業は最終段階を迎えている。
飲まず食わずで一週間。ギリギリの精神状態の中でそれはほぼ毎日訪れている。多い日で二度も来ることもあった。様々な魔獣が来る中でそれだけは足繁く通ってくる。
狙っているのだ。
少女の血肉を。
名を呼ばれて少女はすぐに目を覚ました。村と畑とを隔てている丘を下ってすぐに立っている楠の下で幹に背を預けて眠っていたのだ。青年の好意は有難かったが現場から離れることはできなかった。ここなら村人が畑へと近づくときに必ず通る場所なのですぐに起きることができる。
「先生、なにか?」
膝の上に止まっている黒鳥に少女は尋ねた。呼びに来るほど自分が寝入っていたのかと思い慌てて空を見たが夕闇にはまだ遠い。
安堵してほっと息をつくと鳥がくつくつと笑う。
「……なんですか?」
「あの青年は面白いね」
「……はぁ」
なにを言い出すのかと思ったら自分の師はあの青年を気に入ったらしい。少女が困った表情で見つめているのに気付くと更に楽しげに笑う。
「彼は心配していたよ」
「そりゃあ代理で弟子が来たからです。しょうがないでしょう」
嫌味をたっぷり込めて言っても効き目は無い。嘴を避けんばかりに開けて高く笑う鳥を白眼視する。普段は真面目で思慮深い人なのに、時々高所から物を見て面白がることがあるのだ。
「彼は君の身を心配していたんだよ」
「……大丈夫です。ちゃんと遣り遂げてみせますから」
頬を膨らませて拗ねる姿は十二歳の少女そのままだ。よいしょと立ち上がり砂を落として荷物を担ぐ。その肩にちょんっと鳥が飛びつく。
「心配して畑を諦めようとしていたよ。君の命の方が大事だと」
「……私の命が?」
失笑して少女は歩き出す。
自分の命を失う恐さはとうに無くした。今一番恐れていることは失敗と、名誉を傷つけてしまうこと。
「私の命より村人達の命の方が大事です。一を救うより十を助ける。そうでしょう?」
「確かにね。一人の犠牲で住人が救われるのならばその方法を選ぶだろう。でももう一つの可能性があるね」
少女は強く頷く。その可能性を信じているから逃げないでいられるのだ。
「もちろんです。私は死ぬつもりはありませんから」
そう。両方が助かる可能性だ。
「……だそうだよ」
鳥が丘の上へ問いかける。そこには青年が立っていた。話を聞いていたのだろう青年は複雑そうな顔で少女を見下ろしている。
「任せてください」
心配はいりませんからと微笑む少女に何と言葉をかけてよいか解らないのだろう。青年は途方に暮れた顔でじっと立ち尽くしている。少女は青年の横まで辿り着くと大きく伸びをした。空へ向けて両手を突き上げて。
「あのよぉ……本当に」
「大丈夫です。頼りなく見えるかもしれませんが、これでも一応魔法使いなんですから。少しは信用してください」
「……そうだな」
「はい」
しっかりと頷いて少女は丘を下る。真ん中辺りまで下りた時後ろから「頼んだからな!」と声援が聞こえた。足を止めて振り返り今度は心からの笑顔で「はい」と応えられた。
雲の多い夜だった。
闇に包まれた中で息を潜めて待つ。足元から忍び寄る寒さに怯みつつも警戒を緩めない。
「静かすぎる」
少女は眉を顰めて耳を澄ませるが虫の気配も、小動物の息遣いすら感じられなかった。風すら止んで辺りを取り巻く空気が重くなっている。服を着たまま水中に沈んでいくような重圧。
息をするのすら辛い。
「禍々しい……」
耳の奥がキンッと鳴る。肌が泡立った時、唐突に影が畑に躍り出た。馬のような形の影。
「おいっ」
麦畑から飛び出そうとした少女の手を青年が強く引く。怪訝そうな顔の少女と必死の形相の青年は暫し見つめ合う。
先に動いたのは少女の方。
そっと青年の手の甲を叩くと「大丈夫です」と微笑んだ。その顔に迷いは無い。強い決意に満ちた眼差しに負け青年が手を放す。
すぐに身を翻して少女は畑から出ると真っ直ぐに自分が描いた魔方陣へと向う。魔獣のぴんっと立った耳が足音に素早く気付いて鼻をひくつかせながら少女の姿を追った。細長い尾がゆらりと揺れる。
「やっぱり。二度と会いたくは無かったけど、久しぶりですね」
「やっと来たなぁ。この日を待ってたんだよぉ」
喉の奥から嫌な声を出して魔獣は目を細めながら少女へと歩んでくる。嬉しそうな表情を浮かべて距離を縮めてくる。
少女は杖を手に持ち、足を地面に踏ん張りながら魔獣と相対する。
「人間界は居心地が悪いなぁ。魔界の方がオレ好きなんだけど、お前がいるからわざわざ来てやったんだ」
恩着せがましく歪んだ理論を押しつけながら魔獣は少女の正面で止まり、頭の先から足の先まで眺めると舌なめずりをする。
頬擦りをするように少女に顔を寄せると生臭い息がかかった。死臭のする臭いに少女は顔を顰めた。麦を荒して食べていただけならばこんな臭いはしない。生き物を殺して食べていた証拠だ。
「やっぱりうまそうだなぁ」
背中の瘤が不規則に動く。まるでその中に別の生物がいるかのような動きだった。目を反らしたくなるのを踏みとどまって少女は魔獣を睨む。
「村の奴らを食べてたらもっと早く来たのかなぁ」
「村の人を襲ってたら先生の方が来たと思うよ」
「だからさぁ。我慢してたんだろぉ」
来るの遅すぎるよぉと言う魔獣の尻尾が少女の杖に巻きつく。尾の先は割れていてその間からチロチロと紫色の舌を出している蛇だった。長い首を巡らして少女を抱くようにする。
青年の位置からは魔獣の身体に隠れて完全に見えなくなった。鋭い犬歯が今にも少女を喰い殺してしまいそうだが動けない。足が恐怖で竦んでいる。
「他人を巻き込むやり方は嫌い。私に用があるなら直接訪ねてくればいいでしょ?」
「あの山にオレ達が入れないのはお前がよぉく知ってるくせに」
嫌いで結構だよぉと魔獣は楽しげに続けてペロリと少女の首筋を舐める。濡れた温い舌がゆっくりと上へと上がって行く。
「やめて」
頬の曲線に差し掛かった所で舌を掴むと、魔獣は慌てて舌を引っ込めて牙を少女の腕に向かって突き出した。それを斜め後ろに下がって避けると魔獣がたたらを踏んで前方へと倒れた。
少女が立っていたのは魔方陣のギリギリ手前。魔獣は完全に体勢を崩して魔方陣の中へと入った。
「やった!」
歓声を上げたのは青年。
魔方陣が輝きながら地面から浮かび上がる。少女がすかさず杖を掲げて呪文を矢継ぎ早に紡ぐ。
「可愛いことしてくれるなあ……」
魔獣はウロウロと陣の中を歩き回りながら呟く。強い口調で口早に繰り出される呪文に呼応して魔方陣も強く輝く。闇を貫いて夜空に光が吸い込まれた。
「……本当に可愛いなぁ」
鼻をひくつかせてから牙を剥き出しにして嗤う。
逆に少女は額に汗を浮かばせて苦しそうに眉を寄せる。結界と捕縛の陣の中に捕えられているのに魔獣は余裕の表情だ。阻む光の壁の向こうから爛々とした目で見つめている。
「なんかやばそうじゃねえか?」
麦畑の中で青年はごくりと唾を飲む。素人目にも少女が押されているのが解る。目に見えない魔力の源が集まり魔獣の力とぶつかり合っているのか、肌に本能にびりびりと訴えてくる。
逃げろと。
「そうだね。押されている」
チョコチョコと歩きながら鳥は青年を見上げる。
「どうすんだよ?なにかしてやらねぇのか?あんた、先生なんだろ?」
「う~ん。今は邪魔できる状態ではないからね」
「でも。でも……」
口籠った青年に鳥は翼を広げて高く一声鳴いた。
甲高い声。
「先生!もう無理っ!!」
少女の悲痛な声がそれに続く。掲げていた杖が徐々に下がって行く。しっかりと握っている腕がぶるぶると震えている。
「ほらほら。そんなもかぁ?」
「うぅ……。だめ!」
魔獣が吠えて壁に頭突きをすると地面が揺れ、青年は地に転がりガチガチと音を立てている歯を必死になって止めようとしたが出来なかった。男の自分ですらこんなに足が竦んで恐いのに、あの小さな少女は揺れる大地に足を踏ん張り立ち向かっている。
「うまそうだぁ」
涎を垂らしながらもう一度首を大きく反らせて体当たりをする。さっきよりも大きな揺れに地面には亀裂が入り、地鳴りが辺りに響き渡った。
青年は地にしがみつきながら少女がふらついて倒れるのを見た。その瞬間杖を地面に突き立て陣が解けるのを防ぐ。
「怯むな!抜け!!」
いつの間に飛翔していたのか、夜空を飛びながら鳥が叫ぶ。少女は体を起こしながら頷くと右手を腰の後ろに伸ばし、なにかをぐっと掴むと引き抜いた。澄んだ光が反射して青年は目を細めた。
「契約!」
少女は声高に言い放つと抜いた短剣を目の高さに構えた。じっと緊張した面持ちで魔獣を見据えながら呪文を唱える。
契約の儀の為の呪文。
「おいおい。オレに勝てるのかぁ?」
嘲笑しながら壁に向かって何度もぶつかる。そのたびに立てられた杖が今にも倒れそうに揺れる。
右へ左へ。
光が段々と弱くなっていく。
「楽しみだなぁ」
「……なにが?」
呪文を終えた少女が尋ねると魔獣は興奮して鼻を鳴らす。醜い鼻を蠢かしながら、そして赤い舌を牙の間から出して口の周りを舐める。
「もちろんお前を食べるのがさぁ」
「簡単にはいかないんだから」
「せいぜい楽しませてくれよぉ」
蛇の尾が鎌首をもたげてシュッと音を立てた。少女は真剣な瞳で口角を上げて笑う土地を蹴り、杖を自らの手で倒すとまだ薄く輝く陣の中に飛び込んだ。
その小さな手には剣を持って。
魔獣と戦うには心許ないほど小さな短剣を。
「おい……確か魔獣は王の騎士隊長より強いって」
少女の師の言う通りならば勝ち目は無い。体の大きさだけでも負けているのに。
とても敵わない。
「もう……いいよ。無理だって」
その耳に剣と牙がぶつかる音が届く。硬い音。短い息継ぎの音。土を踏みしだく音。そして魔獣の唸り声。
「あの子は逃げないよ。そして諦めもしない」
「でもよ」
「……君はもう行きなさい」
鳥が青年の頭上で飛びながら静かに逃げるようにと促す。その間にも少女は戦っている。諦めずに、逃げずに……。
「いや。ここで見てるよ」
「そうか」
決心して青年は上体を起こし座って眺めた。鳥も肩に止まり少女の戦いに見入る。
少女がちょうど魔獣の一撃を交わした所だった。鋭い牙を剣で流して避け、魔獣の後ろへと回る。すかさず短剣を振り上げて尻に叩きつけるが、尾が体を巻きつけてその腕を止めた。すうっと息を吸って気合を入れると左手で尾の付け根をぎゅっと握り、全体重をかけて引っ張りながら魔獣の膝の裏を蹴る。膝がガクリと堕ちて尻が地に着くほど落ちる。少女は腕を取られたまま、ぐるりと体を回して魔獣の背に跨った。ちょうど瘤の後ろ。魔獣の顔とは反対側に顔を向ける形だ。
「オレは馬じゃないぞぉ」
首を巡らして自分の背中を向くと不快そうな顔をする。少女は微笑んで振り返ると得意げに「馬に失礼だよ」と言い返す。
「……言ってくれる」
前歯を腹立たしげに鳴らして尻を振る。それを両膝でぎゅっと押えて堪えた。次は頭を激しく振り、前脚に力を入れて後ろ脚を跳ね上げた。少女の首が大きく後ろへと逸れて、直ぐにガクリと勢いよく落ちた。腕を掴んでいた蛇が小さな牙を剥いて二の腕に噛みつこうとした。
「危ない!」
鳥が急に大声を出したので青年の方が驚いた。少女は師の声に危険を感じ取り、右手の剣を左手に持ち替えて背中の瘤にその刃をたてた。
力が足りなかったのか表皮が堅いのか、傷をつけることができなかったが束縛からは逃れられた。
「……良かった」
「どういうことだよ?噛まれたらやばかったのか?」
ほっとした様子の鳥を不思議そうに見つめる。あの慌て方は尋常ではなかった。青年の問いに鳥は深く頷くと説明を始める。
「今は契約の儀に変わっているんだ」
「……なにが?」
「陣の中」
だがもうさっきまであった光の陣は消えうせている。どこまでが結界内なのか判断できない。
「別名『血の契り』と呼ばれている物で、血と血で交わり契約する。つまり先に傷つけて血の契りを交わせば相手を支配できるってことだ」
「……逆に支配されることもあるってことだよな?」
「もちろん」
悪びれもせずにさらりと言いのける鳥の体を乱暴に掴んで揺らす。
「なんでそんなことをさせる!あんたは悪魔か!?」
「……最初は結界で捕えて置く手筈だったんだよ。私が到着するまでね」
「どうして初めからあんたが来ないんだ」
「あの子はもう一人前だ。どこへ出しても恥ずかしくない立派な魔法使いだよ。ただ今回は相手が悪かった」
「あんなに……小さいのに」
何故だか青年の目には涙が溢れていた。悲しいのか、苦しいのか自分でも解っていないようだ。もしかしたら憐みの涙だったのかもしれない。
「小さくても魔法使いだ。とても優秀なね。危険が隣り合わせなことはあの子も承知の上だ。これ以上あの子を軽んじるのは失礼だよ」
青年は膝抱えると何も言わずに涙で霞む視界の向こう側を見ようと必死で目を凝らす。
少女は振り落とされ地面に頬をつけていた。泥だらけになりながら短剣を握り締めた手を着いて起き上がる。真っ直ぐな瞳で敵を射抜き腰を軽く落とす。
「……終わらせる」
自分に言い聞かせるように呟くと走り出す。魔獣は言葉にならない雄叫びを響かせ前脚を上げて立ち上がる。その大きさは二メートルを優に超す。
固い蹄が空を掻く。少女がすぐ真下へ来るのを待って足を打ち下ろす。同時に少女はしゃがんで力をためた後飛び上がった。蹄が頭を叩き潰そうと近づく。
「あああああっ!!」
短剣を両手でつかみ蹄の向こう、胸元を目指す。切っ先が蹄に当たり弾き返された。体勢を崩して少女の体は落下を始める。背中が地面にぶつかった時にはもうすぐそこに蹄は迫っていた。
衝撃で息ができなかったが体を捻って横に転がり逃げる。ドンッと重い音がして耳の傍らに蹄が沈んだ。
「これで終わりかぁ?」
勝利を確信して魔獣が首を垂らして顔を近づける。少女は激しく咳き込んでいて返事ができない。苦しそうに息を吸ったり吐いたりしているだけ。胸を押えている右手に剣は無かった。そして地に投げ出されている左手にも。
「勝てるわけないだろぉ。もう諦めろよぉ」
「……諦める?」
最後に大きく空気を飲みこんで少女は自分の右手を眺める。半身を起して視線だけを周囲に彷徨わせ、自分の武器が魔獣の後ろ足の更に向こう側に落ちているのを確認するときゅっと唇を引き結んだ。
その顔に鼻面を寄せてクツクツと笑う。
「うまそうだぁ」
長い舌を出して涎をダラダラと零しながら魔獣は嬉しそうに繰り返す。
少女が左手で土ごとぎゅっと握りしめ蒼白な顔をゆっくりと向ける。右掌で魔獣の邪悪な牙に触れ、その山羊のように縦長の瞳孔を覗き込んだ。魔獣の瞳に映る少女の顔は必死さも、諦めも、畏れも無い。ただ緊張に引き攣っているだけ。
「終わりだなぁ?」
「……そうだね」
擦れた少女の声を聞いて魔獣は体を震わせた。全身を甘い痺れが貫く。
「いいねぇ」
「……でも、私は最後まで諦めない!」
「ぎゃああ!」
左の掌を掴んでいた土ごと魔獣の目に擦りつけると少女は駆けた。暴れ回る魔獣を避け落とした短剣を拾い上げると呼吸を整え、涙を流し首を振りながら踏みつぶそうと向かってくる魔獣に相対する。
「ふざけやがってぇ!」
今度は動かずに待つ。真っ直ぐにやってくる魔獣が寸前で失速し後ろ立ちになる。これはさっきと同じ攻撃。慌てずに機会を待つ。
蹄が重力と共に力強く打ち下ろされる。鋭く、速く。
「……青き炎宿りて全てを貫く武器となれ!」
マナがゆっくりと結集し、少女の魔力が魔法の源と混ざり合い力を現す。青い炎が短剣に宿り、その頬を輝かせた。
魔獣の一撃を後ろに飛びのいて逃れるとすぐに反撃に変える。青い軌跡を描きながら短剣を突き上げた。魔獣は牙でそれを弾き返すが、魔力を帯びた刃にその牙が欠ける。前歯をカチカチと鳴らしながら首を激しく振り怒りを表す。
少女は怯まずに二太刀目を浴びせる。今度は上から。
苛立たしげに魔獣が一歩下がる。それを逃さずに三太刀目を右から左へ斬り込む。四太刀目は返す刃で左から右へ。
「……やるじゃないか」
もう一歩下がろうとしたが魔獣の脚は何かに阻まれるようにそれ以上下がれなかった。そこは魔方陣の端。肉眼では見えないがマナの光跡が小さな粒子となり輝いている。
壁に尻を押され少女の五太刀目を迎え撃つしかなくなった。四肢を曲げ首を反らす。
少女は短剣を両手で握り振り上げ、腰を捻る。
打ち下ろされるのと、振り下ろすのはほぼ同時。
荒い息の中交差した牙と短剣。牙は僅かに少女の腕の脇を外れ、刃は渾身の力と魔法の助けによって濡れた鼻の上を貫いていた。
「……オレの負けかぁ」
はあはあと息をしながら少女がほっとした顔で「まぐれだと思う」と漏らす。そして短剣を引き抜くと赤黒い血がべっとりとついている刃を握った。
「私の血とあなたの血」
軽く引いてから掌を開くと浅い線が残り、そこにじわりと血が滲んだ。呪文を唱えて魔力を込めるとその掌を魔獣の頬に当てる。
「私が望むことは二度と地上に現れぬこと。そしてわたしの前に姿を見せないこと。これを以て血の契約と成す」
「……解ったよお」
体を震わせて魔獣は「畜生」と愚痴りながら闇に消えた。もう二度と地上に現れぬことを約束して。
少女はゆっくりと息を吐き出すとその場に座り込んだ。
「ああ……良かったぁ」
安心して体中から力が抜けてしまった。今頃になって指が震え鳥肌が立つ。心の奥に閉じ込めていた恐怖が湧き起こる。
「大丈夫か?やったなぁ!おいっ」
麦畑から足をもたつかせながら走り出てきて少女に駆け寄ると労いの言葉を青年がかけた。だが少女は力無い笑顔を向ける。その膝に鳥が飛んできて止まる。
「血の契約成功おめでとう」
「……ありがとうございます。でも上手くいくとは思ってませんでした」
師の賛辞に弟子は恐縮して首を振る。きっと師の方も成功するとは思っていなかったはずだ。一か八かの賭けで、勝算は無いに等しいぐらいだったから。
「おいおい……もしかして初めてだったのか?」
青年が怪訝そうな顔で少女と鳥を見る。少女は申し訳なさそうな顔をしたが鳥は「それがなにか不都合でも?」と平然と聞き返してきた。
「不都合も何も!そんな危険なことさせたのか!やっぱりあんた悪魔だよ!」
「先生は悪くないんです。すみませんでした。任せて下さいって言っておきながら」
噛みつく青年に少女が謝罪し、鳥は楽しげに笑う。青年はむっつりとして背を向けると少女に倒されて地面に転がっていた杖を拾い上げる。細長い柄の上に五芒星の形に刳り貫かれた部分があり、その下に黄色の宝石が埋め込まれていた。細い割にはずっしりと重く、頑丈だ。
「……あのさ、頼みがあるんだけどよ」
「はい?」
青年は杖を眺めたままこちらを見ない。少女は首を傾げ手続きを待つ。
「弟子にしてくれよ」
唐突な申し出にきょとんとしてから、ややあって少女はひとつ頷くと「だって、先生」と声をかける。鳥は再び大笑いしてから首を横に振り「私ではなく君に言っているんだよ」と教えた。
「……私に?」
まだ呑み込めていない弟子に師は更に解りやすく「彼は君の弟子になりたいんだよ」と伝える。
「私の!?」
「そうだよ」
驚きの表情のままで駄目だと断る。何故と問う青年に自分はまだ未熟なこと、まだ先生の弟子であることを述べる。
「先生の弟子になった方が良いです」
「あんたの弟子になりたいんだ」
「でも……」
困って鳥を見るが黙っているだけで助言はくれそうにない。大体まだ幼く、まだ知らないことも多い自分が青年になにを教えられると言うのだろうか。
「無理ですよ」
「……彼は才能あると思うけどね」
「本当か!?」
「また先生はけしかけるようなことを言って!」
楽しそうに笑う鳥が弟子の叱責を逃れるため村へと飛んでいった。待って下さいと止める声は届かない。
「先生もああ言ってるんだしよ」
「知りません!」
「頼むよ」
「ダメです!」
このやり取りが朝まで続いたのは言うまでもない。




