番外編☆長い旅の果てに ~青い星の聖女~
厚く降り積もった雪が溶け始め、春の穏やかな光の中で新芽や蕾が膨らんでいる。山道を登りながら、長かった冬の終わりを感じ浮かれてもいいはずだが年若い女の顔は思いつめた表情をしていた。
一歩後ろを歩く銀の鎧に身を包んだ青年も同様に沈鬱だった。鎧の胸部分に刻まれた勇ましい獅子のエンブレムは至高神ティルスの物で、前を歩く女は白い神官衣を身に纏い首からは獅子の模様の入った護符を下げている。防寒の為の厚いマントのフードを目深に被り、ただ黙々と細い道を先へと進む。
「……確かこっちだったと」
記憶が曖昧なのは女がこの山を訪れたのが二回ほどしかないからだ。幾度か山道は二股に分かれ、その都度不安な気持ちが襲う。前の二回共彼女を先導してくれた、あの頼もしい相棒は失われてしまった。
そして健気な小さな魔法使いの少女も永遠に会うことは叶わなくってしまった。
残ったのは英雄という押しつけの肩書だけ。
人々の口にのぼるのは聖女としての女の名だけで、支え一緒に旅をしてくれた相棒も、共に戦った魔法使いの少女の名前も、まるで存在していなかったかのように呼ぶ者はいない。
まるで楽しかった日々は夢の中での出来事のように輝き女を幸せな気持ちにさせるがその反面、もう思い返すことでしかその喜びは得ることができないのだと事実に深く傷つき、生きている辛さが常に身を苛む。
雪解け水でぬかるんだ道を前のめりになりながら歩き続け、神官衣の裾を泥水で汚し、汗だくになった頃ようやく頭上を覆っていた木々が切れ広い場所へと出た。
「あった……」
その小屋は記憶通り最後に訪れた日から何一つ変わらぬ姿でそこに存在していた。二階建ての小屋の煙突から煙が薄青い空に向かって伸びている。扉の横にある窓には人影が見え、胸が高鳴った。
初めてここを訪ねた時上り道の途中で上から見下ろしていた幼いと言って差し支えないほどの少女。肩にかかる真っ直ぐな茶色の髪。日焼けした健康的な肌、好奇心と知識を追求しようという真摯な紫色の瞳。気付いて手を振ると少し表情を和らげて反応を返した。上りきり「こんにちは」と挨拶すると、ピンク色の小さな唇が告げた「お待ちしていました」という大人びた言葉が、その幼い容姿と相まってひどく印象に残っている。小さな顔に収まった愛らしいパーツ達が賢明さを表していた。
そして見た目の可愛らしさからは想像できない頑固さを持ち合わせていた魔法使いの少女。
もしかしたら――――。
そんな淡い期待を込めて叩いた手が震えていた。思いがけず重く響いたノックの音の後で「はーい」と聞こえてきたのは青年の声。ガチャリと音をたてて開いたのは扉ではなく窓の方。そこから突き出された顔が彼女を見た瞬間驚き、そして直ぐに笑み崩れた。大きな口を引き上げて、凛々しい眉を下げる。粗野な雰囲気と顔立ちの青年だが、そんな表情をすると人懐っこく見えた。
「よく来たな。こんな山奥まで。あんたの名声はここまで届いてるよ……。大変だったな」
「そんな」
大変だったのは女だけではない。
悲しみと後悔の思いを抱いているのはこの青年も同じだ。
そして彼も。
「先生に会いに来たんだろ?入んなよ。直ぐ呼んで来るから」
返事も待たずに青年は中へと引っ込み大声で師匠を呼びながら消える。言葉に甘えて扉を開けて中へと入ると、正面にある暖炉には火が入れられその上に鍋がかけられていた。開けられたままの窓の傍の作業台には包丁とチーズ、そして干し肉とパンが置かれている。
相変わらず食事当番は青年の仕事らしい。
「……懐かしい」
食器棚の横にある細長い棚には薬草の入った手のひらサイズの瓶が整然と並んでいる。暖炉の傍にある本棚には星や魔法に関する書物と薬草の本が、ソファには黒い猫が丸くなって眠っている。
温かな空気と木や薬草の匂い。そして空腹を呼び覚ます料理の香り。
「お待たせしました。遠い所をお越しいただきありがとうございます」
玄関を除くこの部屋唯一のドアの向こうから老成した男が現れた。灰色の髪は長く、細い顔や首、華奢な肩を強調している。理知的な青い瞳が女を見つめ一瞬眩しそうに細められた。白い肌と落ち着いた雰囲気の男は魔法使いというよりも研究者といった方がしっくりくるような気がする。
まだ若いはずだが彼は表情が薄く、どこか浮世離れしていて年よりもかなり上に見えた。
「御無沙汰してます」
女が頭を下げると男は薄い唇を微かに持ち上げて微笑み、空気のような声で「英雄とはまた重い楔だ……神殿はなんと惨いことを」と責めた。
「そうしなければ人心は離れ、混乱を鎮めることは難しかったのです」
女の後ろに控えていた青年が仕方なしに神殿を擁護するが、彼もまたそれを受け入れがたく思っていることを知っている。だから女は静かに青年の名前を呼び、それ以上の発言をしないように窘めるだけにとどめた。
「誰ともできない昔話をしにここに来たんです。人々の希望に応えることが正直辛くて……逃げてきちゃいました」
「辛くて当然だろ!俺達だってまだ心の整理ができないでいるんだ。あんたなら余計」
料理上手の魔法使いの弟子は言葉に詰まり床を睨む。握りしめられた拳と強張った肩が癒されることの無い悲しみを物語っている。
漆黒のローブの裾を揺らして男は食事をとるための四人掛けのテーブルの椅子に腰かけ、女達にも座るように勧めた。節の無い指を組んでテーブルの上に置き、じっと爪の先を眺めている男の瞳はぼんやりと過去を彷徨っているように見える。
「……私は」
不意に天井を仰ぎ、眉を寄せ苦悶の表情をした男が出した声は力なく震え、薪の爆ぜる音に掻き消された。
喉仏が上下に動き身の内にある暗い感情を飲み下した後で男は再び正面から女を迎える。
「私は酷い男です。あの子の為になると信じ魔法を教え、厳しく指導しました。私を慕っていたあの子の気持ちを利用し、騙し、冷たく突き放した。優しい言葉をかけてやったことも無い。弟子にしたことを重荷に感じていたんです。それどころか成長していくあの子の姿に嫉妬していた。どんどん吸収していくその素質を畏れ、私を軽々と超えてしまう弟子が憎かった。あの子を殺したのは私なんですよ」
「そんなこと」
あるはずがない。
魔法使いの少女は自分の目の前であの邪悪な存在によって消されたのだから。
「いいえ。私が殺したんです」
男は静かに頭を振った。
「私は貴女方と旅立てば弟子が、あの子が死ぬと解っていました。それなのに私はようやく荷を下せると嬉々として送り出しました」
「違います!」
再度首を振る。
「だから私はあの子の死を悲しむ権利はないんです」
「止めて……」
そんな話をしたくて来たわけではない。一緒に彼女達の話をしたかっただけだ。キラキラと輝く思い出を、一緒に旅したあの日々を師であるこの男に聞いて欲しかっただけなのに。
「でも償うことはできる」
そっと手が伸ばされ女の肩に触れた。その指の温もりは彼女に少しの力を分けてくれる。そして男の澄んだ青い瞳に優しい色が滲んでいるのを確認して鼻の奥がきゅっと痛む。
「あの子の分まで貴女の為にできることがあるならば力になります。思い出話をすることも、貴女の逃げ場所となることも全て。ここでは貴女は英雄ではなく、ただの一人の女性として存在する」
「っ……ありがとう」
女とて男と同じように自分を責めている。あの時あの子を救うことが何故できなかったのかと。身を挺してでも護ることができたのではないかと。
「あの子も喜ぶと思います」
生き残った者は悔恨と自責の念に苦しみながらこの先生きていかなくてはならない。失われた物と手に入れた物を量りにかければ、失われた方が重く、喪失感だけが強調されてしまう。
それでも人は生きなければならない。
「さあ。貴女の知っているあの子の話を聞かせてください」
促されたが女は溢れてくる思いと涙で口が塞がれている。顎を左右に振ると男は小さく息を吐き「それでは私から」と口を開いた。
ゆっくりと弟子との日々を思い返しながら……。




