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孤独の鎖


 風に混じり始めた甘く芳しい春の香りに心が浮き立つでも無く、少女は曇天に覆われた空を見上げて目の前に建つ粗末な建物にゆっくりと視線を移動させる。

 灰色の石で作られた殺風景な建物の入り口の上にはティルス神のシンボルである獅子の旗が掲げられていた。何年も風雨と陽にさらされて汚れ、端が解れているのを見て胸が切なくなる。

 貧しい中でそれでも希望を失わずに生きて行くことは可能なのだろうか。

 鮮烈な最期を遂げた女の想いを少女は汲み上げることができずに、ここを訪れるのが遅くなってしまったのは心苦しい。

 今でも尚、気持ちを切りかえられない情けなさにぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 町外れの人気の無い場所にあるこの建物がティルス神殿からの寄付金によって成り立っている孤児院であり、あの女賞金稼ぎがここで幼少期を過ごしたのだと聞いたのは五カ月も前のこと。

 “孤独の鎖”という通り名を持つ女がその身の内にどれほどの孤独を抱えて賞金稼ぎとして生きて来たのか。知る事は難しい。少女が彼女と知り合ったその日のうちに死を迎え、願いを、想いを託されたのだから。

 一日にも満たない時の中で女が教えてくれたことは多かった。

 感謝しているが、その恩に報いる方法を考えそれを実行するのはとても難しい。

「悪に鉄槌を。悪を赦してはいけない」

 勇者にと続けられた祈りを込めた言葉に頷きはしたものの、それはとても叶えられない願いだった。

 女もそこまでは望んでいないだろう。

 ただ志は高く、それだけの強い気持ちで進めと鼓舞されたのだと今では理解していた。

 重い足を動かして少女は孤児院の扉を叩く。

 様々な理由で親をなくし行き場を失った子供らが暮らす建物の扉は拒むように厚い扉で閉ざされており、確かに打った少女の拳の音は石の壁と扉に吸い込まれて消えてしまったかのように向こうからの応えは無かった。

 もう一度強く腕を叩きつければ漸く微かな「はい、ただいま」という声が返り、少女の胸が緊張で高く跳ね上がる。

 この世の悪全てを憎んだ女が育った場所は一体どんな所なのか。

 どんな人や子供がいて、どんな環境だったのだろう。

 期待などは無意味。

 せめて孤児院で働く大人たちが子供たちを少しでも慈しんでくれていればと願うだけ。

「お待たせいたしました――あの、失礼ですが」

 どちら様でしょうか?という現れた四十過ぎの修道女の困惑した表情に慌てて頭を下げて訪問理由を述べる。そして背に負った荷物の重さを再確認して苦い思いを飲み込んだ。

「そうでしたか、それはわざわざありがとうございます。どうぞ中へ」

「失礼します」

 誘われた先に殺風景な廊下と小さな受付がある。受付に署名をしてから修道女の後に従って廊下を進む。絨毯など敷かれていない石床は冬の極寒の中では防寒の意味はなさず、どこまでも反響する音と湿った風に身体が芯から凍えてしまいそうだ。

 廊下にはぽつりぽつりと細長い窓が設けられているが、日中の明かり取りとしてつけられているそれには外の景色を眺める余裕や機微を感じさせない。

 無駄な物など無いのだと知らしめているかのようだ。

 孤児院だというのに子供の声はない。ただ押し殺したような沈黙と静寂が漂っていて息苦しかった。

「子供たちは今、労働の時間で外の畑を耕しているのです」

 静けさの言い訳のように修道女が口にして廊下を右に曲がる。曲がる際にもう片方を見透かすとその先には二つの扉が並びその上に木の札がかけられ、そこに礼拝堂と講義室の字が見えた。

 至高神ティルスの神殿が運営に手を貸しているのは純粋な奉仕や善意だけでは無いだろう。幼い頃から刷り込んだ教えと身を持って受けたティルスの慈悲深さは敬虔な信者を生み出していく。

 それは悪いことでは無く、互いの利点が合うのであればそれだけの価値はあるのだ。

 神の名を尊び神殿の威信に縋らねば、孤児院は忽ち立ち行かなくなり飢えて死に絶える。

「どうぞこちらへ」

 招かれた一室にはソファが向い合せに置かれていた。勧められるままに腰を下ろすとギシッと音を立てて座面が軋んだ。

 修道女が施設長を呼んでまいりますと一礼して去って行く。少女は背負っていた腕より長い細い包みと皮の袋を下しほっと嘆息する。この部屋の窓は大きく西を向いているからか明るく、そして温かい。

 射し込む陽射しが柔らかな粒子を注ぎ、その中に確かな春への期待感を煽って行く。

 子供たちが耕している畑に実る作物が彼らの生活を豊かにしてくれればいいと願いながら、窓の外に広がる石壁と乾いた大地に根付いた草の先に小さな白い花が咲いているのをぼんやりと眺めていた。

「貴女が最期を看取ってくださった方ですか?」

 衣擦れの音をさせて入室してきた施設長は年老いた男だった。微笑んだ目尻と口元に優しく刻まれる皺とその穏やかな眼差しは彼が慈悲深く、親の無い子供らに愛情を等しく注げる人物であると告げている。

 腰を上げて少女は名乗り頭を下げた。

「看取ったというか、私は結局間に合わなかったんです」

 自分が駆けつけるのが遅かった所為で彼女が死んだのだと謝罪するのはあまりにも傲慢だ。きっと少女がその場にいたとしても“牙”を討つことは出来ず、追い詰められて躯がひとつ増えただけだっただろう。

 少女の力などたいしたものでは無い。

 なにも成すことは出来なかったはずだ。

「彼女は最後まで勇敢で、美しかった……」

 成り行きで知り合った冒険者たちと“牙”を追い、地下通路で手下の数を減らしながら時間をかけてその影を捕まえた。そして長い戦闘の果てに“牙”は折れ、白刃の元に斬り捨てられ鮮血を吐き出しながら倒れ伏しその命を手放したのだ。

 薄暗い地下で頭部と胴体に分けられ、賞金首はその名の通り首だけとなって国の警備隊へと届けられた。

 賞金稼ぎの女は縁もゆかりも無い町で埋葬され、彼女の持ち物は全て少女の手に委ねられたのだった。

「どうぞこれを」

 女の荷物は驚くほどに少なく、数枚の下着と着替えの他に使い古された地図と携帯食料がほんの少し。年季の入った水袋と愛用していた突剣だけ。

 差し出すと施設長は愁眉で顔を曇らせた。

「あの子は昔から男の子の遊びばかりを好んでいました」

 棒を振り回して打ち合って、取っ組み合って技の掛け合いをし、走り回って――。

 目に浮かぶようだ。

「街で孤児院の子が苛められれば報復に向い、子供たちが喧嘩をすれば仲裁し、時には一緒になって喧嘩して」

 言葉を詰まらせて男は目蓋をきつく閉じた。

 「あの子は」と大人の女性へと育った賞金稼ぎを今でも幼き頃のまま呼んで施設長は声を震わせて慟哭する。

「神を信じず、頼らず、祈ることもしなかったけれど、誰よりも正義を尊び、悪を嫌い、弱きを助けようとしていた」

「私にも悪を赦してはいけないと」

 そうでしょうと首肯して深い皺を刻んだ眉間をゆっくりと開いた。同時に力の入っていた身体から嘆息と共に気力が抜ける。

「あの子が賞金稼ぎになったのはここの子供たちのためなのです」

 危ない仕事を選び、稼ぎの良い賞金稼ぎとなった女は各地を旅して賞金首を捕まえて多額の賞金を手にした。そしてそれを己のためには使わずに僅かな旅の資金だけを残して全額をこの孤児院へと送っていたのだ。

「冬に寒い思いをしないで済むように。お腹いっぱいにご飯を食べられるように。身につける物で周りから蔑まれたりしないで済むように。馬鹿にされないための知識を得るための本を買うために」

 全ては自分が幼い頃に苦しみ、欲しいと願っていた物。

 優しい賞金稼ぎの女は孤独という名の鎖に絡め取られながら、かつての自分と同じ境遇の子等には寂しさも飢えも苦しみも無いようにと最後まで戦ったのだ。

「沢山叱ってもらいました。教えてもらいました。大切なことを」

 自負を持ち、胸を張れ。

「生きて行くための行為と経験は必要だと」

 失敗を恐れるな。

 その日あったばかりの少女に自分の夢を託して。

 最後の瞬間に立ち会ったのが少女ではなく、本物の勇者足り得る人物ならば良かったのに。

 歯噛みする少女を眺めて施設長は「よければ庭に出ませんか?」と誘う。小さく顎を引いてから立ち上がり、男の細い背中を追って外へと出た。

 鳥が囀り、子供たちの声が聞こえてくる。

 明るく楽しげな顔で鍬や鋤を持ち、服を泥だらけにしてこちらへと近づいてきた。施設長に気が付くと手を振り、傍に見慣れぬ少女を認めて新たな仲間かと訝りながら視線を向けられる。

「こんにちは」

 微笑んで挨拶すれば快活な声が返ってくる。施設長が少女を女賞金稼ぎの友達だと紹介すると瞳を輝かせて元気にしているかと問われて面食らう。ちらりと窺えば頷かれ、どうやら彼女の死は彼らに伝えられていないのだと知る。

 その方が良いのかもしれない。

 ずっと賞金首を追い、旅を続けているのだと思わせておく方が幸せである。

「どうして一緒に来てくれなかったの?」

 幼い子供が拗ねたように少女のスカートの裾を引く。少し年長の少年が「仕方ないだろう。仕事なんだから」と諫めるが、その顔にも残念そうな色が浮かんでいる。三十人ほどの孤児たちは皆血色がよく、健やかに育っているように見えた。

 そしてどの子供も女賞金稼ぎが来ていないことに不服そうな顔をしている。

「みんな彼女のことが好きなんだね」

 微苦笑して呟けば当然だとみなが騒ぐ。口々に彼女がしてくれたこと、与えてくれたこと、教えてくれたことを挙げて誇らしげに名を呼ぶ。


 ああ、彼女は孤独では無かったのだと胸が熱くなる。


 “孤独の鎖”と呼ばれた女はここにいる全ての者達に愛されて、慕われていた。鼻の奥が痛くなり視界が歪む。少女は灰色の雲を見上げて涙を必死で堪えた。

 子供たちに悟られてはならない。

 彼らの中では彼女は未だに息づいて、勇敢に戦っている勇者なのだから。

「これを」

 子供たちの輪の中から出て少女は自身の荷物から革の小袋を差し出した。

「これは……?」

 怪訝そうにしながらも受け取った施設長はその重みと感触に眉を跳ね上げる。狼狽えながらも突き返せずにいる男にやんわりと微笑んだ。

「彼女の最期の仕事の報酬です。受け取ってください」

 首を届けた後で三人の冒険者と山分けした賞金は8750シルバール。少女はこの金を自分の物として受け取ることが出来ず、女が世話になっていた孤児院に金を送金していたのだと聞いてこれを渡そうと決めていた。

「すみません。遅くなってしまって」

 中々決心がつかず、勇気を持てなかった少女は五カ月もかかって漸く渡すことができた。施設長はぐっと喉を詰まらせて呻くように「有難く使わせていただきます」と大事そうに胸に抱く。

「また、来ても良いですか?」

「勿論。何も無い孤児院ですがいつでも歓迎します」

 それではと頭を下げて建物に入ると施設長が「そういえば」と声をかけてきた。

「ある村で聖女が奇跡を起こしたという噂を聞きました」

「え?」

「魔獣の血と臭気で穢れた大地を浄化し、畑を蘇らせたと」

「その村の名前は!」

 思わず詰め寄った少女に男は苦笑しながら、弟弟子の出身である村の名前を出した。


 それでは。


 あの荒れ果てた大地を蘇らせることのできる程の力を持った聖女は確かにいるのだ。

 至高神ティルスの神殿が送り出した秘蔵の聖女。

 穢れ無き乙女。

 神に愛された聖なる女性。


 それならば。


 悪しき力が再び地上を覆わんとする時、それに対抗しうる勇者として立つのはその聖女なのかもしれない。


「奇跡を信じても」

 いいのだろうか。

 あの妖魔を生む湖の悪夢を思い出しながら期待する。

 古より伝わる伝説とマンティコアの予言。


 魔帝復活の兆しあり。


 不安は日増しに加速していく。

 その中で耳にした僥倖に縋りつきたいと思うのは少女の中の弱さがさせるのか。


「きっと、大丈夫でしょう」

 光は永劫に。

 闇もまた永久に広がり続ける。

 安易な期待はしてはいけないが、希望を失う必要は無いのだ。

 少女は深く頷いて再び歩き出す。

 未来を危ぶむかのように鈍色の空が覆っていても、子供たちの元気な声が響いている内はしっかりと前を向いて歩こうと決めた。


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