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いつか来る、未来のために

 少女は頭上を木々が覆う坂道をゆっくりと上りながら左手下に広がる町並みを眺めた。小さな家々が肩を寄せ合うように建ち並び、煙突から流れる煙の数だけ人々の営みがあるのだという当たり前のことに胸が切ないような、不安で震えるような得も言われぬ心地になる。

 魔法学校の森に出現した妖魔を生み出す湖を結界で森ごと封じたあの日から半月程経ったが未だに実感が湧かない。

 確かに自分が経験し目にしたことなのに、あまりにも現実離れし過ぎて受け止めることが出来ないのだろう。

「こんなに、穏やかで美しいのに」

 人の住む場所から隔絶された場所に魔法学校があったことが功を奏し、湖の妖魔や魔獣が人々を襲い苦しめることは無かった。犠牲になったのは原因を究明しようと森に入った魔法使いと、魔法学校からの要請を受け国が派兵した兵士たちと妖魔退治の依頼を受けた冒険者と魔法使いだけだ。

 それでも命を失った者も、大きな傷を得た者も多く被害は少なくは無い。


 先生も。


 ワイバーンを睨んだまま杖を手に弟子を背中に庇った。幾らでも方法はあっただろうに、師は咄嗟に襲われそうになった青年との間に飛び込んだのだ。

 体力も、筋力も、体格も、頑丈さも、全て弟子の方が優れていたのに。

 鋭い前脚の攻撃を受け、師は左肩から右脇腹まで斬り裂かれた。

 腕が捥げなかったのは幸いだったと、目が覚めた師が自嘲気味に述べたので思わず「自分の身体を少しは大切にしてください」と責めたが曖昧に笑って誤魔化されてしまった。

 青年が献身的に看病をしたお陰で直ぐに寝台の上に起き上がれるようにはなったが、神の回復魔法を以てしても体力が元通りになることは無く、布団の中から出ることは難しかった。

 その為師に命じられ少女が大先生の屋敷を訪ね仔細を報告することになったのだ。


 眼下に広がる景色は平和で、これからもずっとそれが続くのだと信じていた。

 それでも突然闇は牙を剥き、全てを蹂躙せんと狙っている。


 マンティコアは「再び世界を、闇が覆いしその日がくる」と言った。それは間違いなく数百数千年後の話では無い。ここ数年のうちに必ず起こることであり、もしかしたら今この時なのかもしれないのだ。


 そう思うと恐ろしくて堪らない。

 なにか行動を起こさなければならないのだろうが、それがなにか解らず、更に言えば少女のような駆け出しの魔法使いに何かできるとも思えない。


 無力感だけが残っている。


 一人前になったというのに、ずっと不安で心細い。


 坂道を上りきり現れた門を潜って広い庭へと足を踏み入れた。白い石が敷かれた道をゆっくりと歩きながら、日当たりの良い場所にある洗濯小屋とその傍らに翻る白いシーツやシャツなどの洗濯物へと視線をやる。

 午前中に干されたのか、近くに人影は無い。

 もともとこの広い屋敷に住んでいるのは、大先生とその弟子だけだ。

 先生がここで魔法を学んでいた頃はかなりの弟子を抱えていたそうだが、大先生も結構な年なのでひとりの弟子にじっくりと向き合う方が楽なのだろう。

 身を震わせるような風が吹いているが、陽射しが温かいので両開きの玄関に辿り着く頃には薄らと汗を掻いていた。

 落葉樹たちは葉を落とし、カサカサと音を立てて地面を移動して行く。

「入らないの?」

 声をかけられて顔を正面へと向け、その時になって風に飛ばされている落ち葉を無意識に追っていたのだと気づいた。

 黒い髪の少年は前と変わらず真っ白な肌に笑窪を刻んでにこりと微笑んだ。

「えっと……久しぶりだね」

 扉を大きく押し開けてから少女をどうぞと中へ促す少年と会うのは本当に久方ぶりで、二年程前に先生に連れられて貴重な魔法書を見せて貰いに来た時以来だった。

「なんだか大変だったそうだけど、無事に結界魔法を発動させられてよかった」

「知って、るんだ?」

「もちろん。魔法使いの間では羨望と嫉妬の思いを込めて参加した魔法使いのことを話題にしているから。森を丸ごと結界で包む偉業を成し遂げた魔法使いにきみの名前があることは先生とぼくの誇りなんだよ」

 後ろ手に扉を閉めて少年のきらきらとした顔を見上げる。誇りだと言ってもらえるような仕事を自分が出来たとは思えない。

 確かに結界魔法を形成する為に必要な魔力と呪文の詠唱はした。だがそれは経験の浅い者でも集中力を持続することが出来るのならば誰でもできたこと。

 次へと恙なく魔法を送る。

 少女がしたことはそれだけだ。

 途中で迷い、諦めそうになったことが少女の心を苦しめる。

「できればぼくも参加したかったな。きみと違ってぼくはまだ一人前じゃないから無理だろうけど」

「まだなの?」

 驚くべきことに少女よりも魔法の才に溢れ、勤勉なはずの少年が何故かまだ一人前の杖を贈られていないのだ。

 大先生が慎重なのか、それとも先生が軽率なのか。

「いつかは外へと出たいけど、今はここでどっぷりと魔法漬けの生活をしていられる幸せに浸かっていたいから丁度いいよ」

「でも私でさえも杖を贈って貰えたのに」

 少年が一人前と認められないのは納得がいかない。

「また。私でさえとか自分を卑下して……。ぼくよりきみの方がずっと賢くて才能があって逞しい。きみだからこそ、その年で認められ活躍できるんだよ。もっと自信持たないと」

 賢いのは少年の方だ。

 自分は愚者だから経験からしか学べない。

 痛い思いや、辛い思いをしなければ悟れず、しかも何度でも同じ失敗を繰り返す。

「そんなに浮かない顔しないで。先生が待ってるよ」

 少女よりもよっぽど愛らしい顔立ちの少年は微笑むと頬が上気して更に可愛さが増す。町で生活すれば異性が放っておかないだろうが、この屋敷を訪ねて来る者は同業者や仕事の依頼をしに来る人ぐらいだ。


 勿体無いな。


 そう思いながらも彼の純粋な愛らしさはきっと、世間ずれしていないからなのだと少女にでも解った。

 少年は軽やかな足取りで大きな玄関ホールの正面にある扉へと駆け寄り、ノックをしてから「先生、お待ちかねのお客様が到着されましたよ」と茶目っ気のある言い方で声をかける。

 そういう口調から少年と大先生との間が良好で気安い物なのだと推し量ることが出来た。

 少女と師との間にはそこまで親しみ溢れる関係は無く、純然とした師弟としての厳しさしかない。

 勿論長年共に生活していれば嗜好や性格、機嫌など肌で感じられる物でそこに互いへの思いやりや気遣いなど自然と出てくる。

 理解と信頼による共同生活は楽であり、また物足りなさもあるが、それが少女と師の一番理想で居心地の好い距離感なのだろう。

「ここへ入ってもらいなさい」

 扉の向こうから届いた言葉に少女は驚いた。

 少年が叩いた扉の向こうには大先生の私室だ。少女は何度か屋敷にお邪魔させてもらったことがあるが、いつも玄関ホールの左手にある訪問者を招く客室か、二階にある書庫くらいしか入ったことが無い。

 昔の教え子の弟子とはいえ個人的な空間に少女を入れるということを大先生が許可するとは。

「だって」

 にこりと微笑んで未だ玄関先で立ち竦む少女を振り返る。手招きされても踏ん切りがつかないでいると、再び駆け戻って来て背後に回り後ろから背中を押して強引に扉の前まで移動させられた。

「ちょっと、待って……」

「大丈夫。先生は綺麗好きだからいつも片付いているし、恐がるような使役動物も侍らせてないから」

「そんなこと心配してないから」

 例え物が散乱して足の踏み場も無かろうと、長年掃除されていないような部屋だとしても別に気にはしない。

 獰猛で醜悪な顔つきの使役動物がいたとしても、大先生の魔力で封じられているのなら恐く無い。


 問題は。


「私が大先生の部屋に入るってことは、真理への冒涜になるでしょ?だから」

 魔法使いは自分達が学び追及してきた物を他者に知られることを嫌う。長い年月をかけて修練した物を簡単に教えたりはしないし、それを洩らすことを堪えがたい屈辱ととる。

 師が少女に魔法書や修行内容を他言しないことを常日頃からしつこいぐらいに約束させるのはそのためだ。

 魔法書を見ればその持ち主の知識と得意不得意な魔法が解り、修行内容を聞けばどれ程の使い手かある程度は解る。簡単に己の技術と能力の度合いを測られてしまえば仕事をする際に足元を見られることになり、軽んじられて不利になってしまう。

 少女のような一人前になったばかりの魔法使いは特に依頼者から不審げにみられる傾向があるので余計だ。


 私室には身に着けてきた多くの物で溢れている。

 椅子や机、棚に並ぶ蔵書、羽ペンにインク壺、魔法道具、杖、ローブ、空気、匂い、果ては窓辺に揺れるカーテンに至るまでその部屋の主を雄弁に語るのだ。

 そんな場所に少女を入れるなど、恐縮するなという方が間違っている。

「直接教えて頂いたことが無いのに、部屋に入るのは――」

「先生が良いって言ってるんだから問題ないよ。ほら早く。待たせる方が失礼だよ?」

「そうかもしれないけど、」

 それ以上の抵抗はできなかった。扉が向こうから開かれ、そこに大先生の柔和な笑顔があったからだ。「いいから入りなさい」と促されればそれに抗うことは逆に礼を失することとなる。

 素直に首肯しホールと部屋とを仕切る扉の枠を、唾液を飲み込んでそっと超えた。


 その瞬間ふわりと身体が浮いた。


 足の裏から床の感触が消え上体が傾ぐ。前後左右に揺れ、身体が安定を求めて更に落ち着かない。

 頭の中に去来するのは焦りと恐怖のみ。

「大丈夫。さあ」

 慌てふためく少女の目の前に差し出されたのは大先生の大きな手だった。節の目立つ指が誘うように動き、縋るようにその手に自分の手を重ねる。

「周りを良く見てごらん」

 大先生の深い緑の袖にぎゅっとしがみ付きながら恐る恐る周囲を見回すと、どこまでも広がる闇の中に無数の小さな光が瞬いていた。まるで夜空の中へ浮かんでいるようで、少女は思わず歓声を上げた。

「すごい……」

「世界は光と闇から始まった。神は天界を作り、次に火・水・地・風を生みそれぞれの属性を持った精霊たちを使い世界を潤わせた」

 左前方に火を表すサラマンダーが現れ、右前方に小さなドワーフのような姿のノームが岩の向こうからこちらを見ていた。左後方から吹く風に振り返ればそこには耳の尖ったエルフの美しい女性シルフが唇を尖らせて冷たい風を吹きつけている。右後方には小さな幼女ウンディーネが水のドレスを纏って清い流れを世界へ送り続けていた。

「その恵みを受けて私たちが住む物質界は豊かに発展してきた」

 闇と光が消え、精霊たちの姿が見えなくなると大地を覆う緑の木々や山から流れる川が蛇行し海へと至る景色へと変わる。水辺の近くに家が建ち、人が集まり村になった。

 田畑を耕し自然の恩恵を受けて衣食住が安定すると、人々は知恵を絞り沢山の技術を生み出す。そして流通を始め、他の村との交易が盛んになり人が更に集まり町へと変容を遂げる。

 多くの住民を束ねる代表者が立てられ、規則と約束が流布する。罪を犯した者は規則により罰せられ、償いを求められた。それを取り締まる組織ができ、職業や商売が確立され大きな施設が建てられ街となる。

 欲にかられた代表者が他の街の技術や富を奪おうと争いが生まれ、弱い街同士や村や町が手を取りあったことから国が出来上がって行く。

「人は愚かだ」

 愁いを帯びた大先生の声に少女は頷いて同意する。

 目の前では武器を手に鎧を纏った兵士たちが奇声を上げてぶつかり合っている。目を血走らせて戦う姿は恐ろしく、低級妖魔のゴブリンの顔より醜悪に見えた。

 言葉にならない声で叫び、傷つき倒れた味方の――あるいは敵の――背中や頭を次から次へと踏み潰して前へと進むその顔に理念も正義も無い。そこにあるのはただ、死にたくないという生物本来の持つ生存本能のみだ。

「不便な生活を改善しようとして生みだした道具を用いて戦い、略奪を繰り返し無為に血を流す。人が作り出す物には碌な物が無い」

「……それは魔法も、ですか?」

 少女も腰に相手を斬り殺すための道具を帯びている。命を奪う忌まわしい道具だが、それが少女の命を護る物となるのだ。未だに人へ向けることに対する嫌悪感と恐怖と戸惑いがあるが、いずれ目の前のような乱戦となれば少女も悪鬼のような形相で平然と剣を振るようになるのだろう。

 そして人が生み出した物に魔法も入る。

 暗闇を照らす灯りを生み出す魔法や、簡単に火を出現させる魔法は暮らしを便利にする物だ。

「古代魔法帝国は魔法技術が行き着くところまで成長しきってしまったせいで滅亡へと至ったと言われている。過ぎたる技術は人を滅ぼす物なのかもしれん」

 深緑色の瞳を翳らせて大先生は大きなため息を吐く。その仕草が酷く沈鬱で少女の心を不安にさせる。

 人生を魔法へと捧げてきた老魔法使いが深い懸念を抱くのは何に対してだろうか?

「魔法は危険ですか?」

「魔法に限らず強すぎる力は全て危険だと思うがね」

 やんわりと微笑んで老人はしがみついている少女の手の甲をそっと力づけるように叩いた。

「君を護りもすれば、傷つける事もあるだろう。そしてその力を畏れ、時には誇りに思い、勇気づけてくれるだろう。君は魔法を選び、そして魔法は君の力となる」

「……はい」

「溺れてはいけない。奢ってもいけない。ただ寄り添い、常に意識し、全てを受け入れ、生涯追究して行くべき物だ」

「はい」

「手放してはいけない。魔法は既に君の体の一部であり、逃げることは許されない」

 厳しい言葉に少女は唇を噛んで俯いた。

「世界は見えない天秤によって均衡を保つように作られている。闇の力が強くなれば、それに対抗する光の者を必ず生み出す」

 闇の再来を予言する伝承は遥か昔から語り継がれてきた。伝説の勇者が封じた闇の化身である魔帝の力がいつか復活すると。完全に封じられることができなかった悪しき力の影響を受けて、大陸には邪悪な妖魔たちが生まれている。

「ティルスの聖女が旅に出たと聞きました。それから魔法学校の森で戦ったマンティコアが再び闇が世界を覆いし日がくると」

「あの湖の件は始まりに過ぎない。これから騒がしくなる」

 闇の動きはもっと活発になる――そう続けられ少女は怯えた。

 どこかでまた強力な妖魔や幻獣が暴れ始めているかもしれない。再び相対した時に戦える自信は無かった。

「私の所にも小さな変化の報告はきている。そして仕事の依頼も今までの倍以上の量だ」

 老魔法使いは自分の弟子である少年の名前を呟いて「あれはまだ準備が出来ていない」と残念そうに首を振り、少女の顔を覗き込んできた。

「その目に沢山の物を見て学び、肌で感じなさい。信じる力と想像力が魔法の糧となる。真実が見えない時は自分の中の真理と信念を道標に進みなさい。迷っても良い。立ち止まっても良い。進むことを止めなければ幾らでも間違っていい」

「人はみな愚かだからですか?」

「そうだね」

 老人は少女の正面に立ち両肩をその両掌で包む。

「だが愚かだからこそ貪欲に求め、成長することが出来る。人は裏切るが、今まで努力して身につけた物は裏切らない。――不肖の弟子は君をその年齢で一人前へと育て上げた。困難に立ち向かう勇気と、それを乗り越えられる機転と、知識と技術を全て兼ね備えた魔法使いへと。だが」

 叡智に満ちたその深い緑の瞳には不安と恐れが溢れていた。真っ白な髭の中で唇が閉じられ、深い嘆息が漏れる。

「君はまだ十二歳の子供だ。それを忘れてはいけない」

「忘れてなど」

 いないからこそ早く大人になりたいと、年を取りたいと願うのだ。

 年齢と見た目の所為で侮られ、軽んじられる日々が少女の心の傷を深くしているのに。

「自尊心が高すぎるから、子ども扱いをされて悔しいと憤るのだよ」

 老魔法使いが肩を軽く揺すって諭すように、だが少女が無自覚の部分を抉るように的確に指摘した。

「違うかな?」

「…………」

「子供に子供だと言ってなにが悪い?君がその辺を歩いている大人の男性や女性よりも多くのことを学び、修練しているかもしれない。魔法を通して得た知識により真理に近いかもしれない。だが君とは違う世界で彼らは生き、そこで君の知らないことを知り大切にして生きている。それだけで尊敬に値すると思うがね」

「……仰っている通りだと思います」

 少女は山で暮らし、師匠と二人きりで魔法としか向き合って来なかった。普通の人々の暮らしや、その営みの中で育まれる大切な物や知恵には疎い。心より頭で考えることが多かった生活から外へと出た時、感じた疎外感と温度差に驚いた。

 話してみると手応えが無く、知的な会話は出来なかった。もっと生活に密着した物や他人の噂や悪口ばかり。

 落胆と共に少しの優越感。

「頑なに生きるのではなく、他者に可愛がられるようになりなさい。弱みを見せ、頼り、教えを請いなさい。剣士や魔法使い、冒険者達から学ぶ物とは別の豊かで大切な物を彼らは与えてくれるはずだ」

「はい……努力します」

 心は早く大人になりたがっており、師にもひとりの人間として扱われてきた。今更子供らしく生きろと言われても難しい。

「戦いの最中や仕事の時は信念の元、励んでいい。だがそれから解き放たれた時は自分らしく振る舞える様にならなければ、これから苦しくなるばかりだからね」

「自分らしいが、解りません。ずっと、六年間これが当たり前で」

 先生に弟子入りする前までは少女も普通の子供として生きていたはずだが、もう本当の自分がどんなものだったのか思い出すことが出来なくなっていた。

 苦しくなるばかりだと言われても不安しかない。

「暫くここでゆっくりしていきなさい。私の弟子は君と年が近いから、いい刺激になるだろう」

「……お言葉に甘えさせていただきます」

 しなくてはいけない様々なことが頭の中に浮かぶが少女は力無く首肯すると、老魔法使いは微笑んで両手を肩から離した。その瞬間魔法が解けて足裏に床の感触が戻ってくる。

 正面にはテラスへと出る細長い窓とその向こうに森が見えた。昼間でも薄暗い木々の向こうは視界が悪く先が見通せない。ゆっくりと視線を彷徨わせると左右の壁に扉がついており、右手側は食堂に出る物だと解る。左側は入った事のある客間の奥の部屋になるのでどこへと通じている物か解らない。

 寝室かと思ったが今いる部屋の右手前側に衝立があり、寝台があるのが微かに見えた。左手前側には四人掛けのテーブル程の大きさの机が据えられ、その上には巨大な大陸の地図が乗せられ方角を示す道具や、距離を測る独特の道具もあった。壁にある棚には魔法道具が飾られており、その傍に空っぽの鳥籠と止まり木がぽつんと置かれていた。


「お茶が入りました」

 食堂に通じるドアがノックされ少年の明るい声が部屋に響く。二人同時にそちらへと顔を向ける。何となく退出する機会を失っていた少女はほっとしてそちらへと動き出す。

 だが老魔法使いは机の方へと移動したので、困惑して歩を止めた。

「私に構わず行ってきなさい」

「でも」

「貴重な外の話を聞かせてあげて欲しい。あの子の為に」

 慈しむような微笑みは少年を思って湛えられた物だ。この思いがけない滞在は少女の為だけでなく、少年の成長の為にも必要なのだろう。

「少しでも役立てるような話ができるように頑張ります」

 生真面目に応えれば老人は苦笑して「違う。頑張る必要は無いのだ。自然に楽しみなさい」と注意する。

「すみません……」

 謝罪しそわそわと俯くと、「折角のお茶が冷めてしまいますよ?」少年が不思議そうな声でドアを開けて覗き込んできた。

「私は仕事があるから、若い者で楽しみなさい。それから彼女は暫くここに滞在するから部屋を用意してやってくれないかな」

「本当ですか!それなら一番いい部屋を用意しないと」

 少年が嬉しそうに声を弾ませてドアを開けたまま駆けて行く。隣の扉が開け閉てする音が聞こえたので部屋の準備に向ったのだろう。

 あまりの行動の速さに驚いていると老魔法使いは愉快そうに喉の奥で笑い声をあげた。

「うちの弟子は解りやすすぎていかんな。だがのびのびとしていて眩しい」

「そうですね」

「まったく、純粋すぎて将来が心配だ。もう少し強さが無いと杖は授けられん」

 やれやれと首を竦めて老魔法使いは机の上の丸められた書簡の山からひとつを手に取り、括っている紐を解いて中身の確認をし始めた。

「……貴重な御時間ありがとうございました」

 扉の前で礼を述べ辞儀をひとつしてから退出すると、追いかけるように大先生の低く温かな声が追いかけて来た。

「古代魔法王国時代の大型結界魔法の成功おめでとう。君は多くの人を救った。もう少し自信を持って、伸びやかに頑張りなさい」

「私はただ、繋いだだけで。多くの冒険者や兵士が護ってくれなければそれすらも難しかったはずです」

「ただ繋ぐということが難しいと私は知っている。君は私達の誇りだよ。だからこそ潰されず、これからもいい魔法使いとして活躍してもらいたいのだ」

 その為の苦言。

 期待と懸念。

 そして不安。

「先生や大先生が私の目指す魔法使いです」

 多くの人々に頼られる魔法使い。

 今は遠く手が届かない目標だが、いつかは必ずそうなりたいと願っている。

 いつまでも真理を追い求め、魔法を学び、その技術を使って誰かの役に立つ。


 それこそが理想。


 だからこそ大先生が必要だというのなら努力する。

 自分らしく伸びやかに、自信を持って。


 いつか来る、未来のために。


 老魔法使いは自嘲染みた笑みを浮かべて「楽しみにしているよ」と呟く。これ以上仕事の邪魔をしないように、少女は再び頭を下げてから部屋を出てそっと扉を閉めた。


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