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妖魔の湧き出る湖 後編

 全員が位置に着いたのは夜も更けて随分時間が経った頃だった。経験を積んだ魔法使いも新人の魔法使いも全て緊張しているはずだ。

 少女は不安で高鳴る胸を押えて空を仰ぐ。何度も何度も心の中で呪文を諳んじながら、震える指先に力を入れて輝く星を数えた。

「青い星……」

 師が研究している三色の星について詳しくは聞いたことは無いが、青と赤と黄の星が不規則な軌道で昼も夜も輝いて見えるらしい。それを知った少女は夜も日中も目を凝らして探してみたが、その星を見つけることはできなかった。

 同じ星を見てみたいと願う細やかな希望も思いも未だ叶わぬまま。

「いつか見える時が来るのかな……」

 来て欲しいと切に思うが、きっとその星は少女の目には映らないだろう。

 そんな気がする。

「大丈夫?」

 少し離れた場所から小人が心配そうに問いかける。視線を後方へ向けて微笑み「大丈夫です」と答えると小人も小さく笑い返してくれた。

 大きくて丸い碧色の瞳や丸っこい鼻、先の尖った耳から顎にかけてふっくらとしている顔は見ているだけで心を明るくしてくれる。表情豊かな小人はその場にいるだけで、雰囲気を軽くし楽しくしてくれる不思議な魅力を持っていた。

「やっぱり、落ち着きます」

「俺っちの顔のこと?」

「はい」

 少女が頷くと少し複雑そうな顔で苦笑して小人は頬を指で掻く。

「煩いとか、ふざけるなとかしか言われ慣れてないからさー……。正直反応に困る」

「そうなんですか?私は見ていると小さなことでくよくよ悩んでるのがばかばかしくなって、なんとかなるかもって気になるんです」

「おい、おい~。それって絶対誉めてないよね?」

 唇を尖らせて小人は不満全開で文句を言う。そんな仕草も口調もやはり茶目っ気があり、楽しげな空気を振りまいてくれる。

「だからきっと、今回も絶対上手くいくって思ってます」

 今この状況で傍にいてくれるのが他でもない小人で良かったと思う。心細さも、失敗への恐怖も、不安も全て彼が薄れさせてくれるから。

「……静かですね」

 夜の闇は妖魔の活動を活発にする。それがここまで静かなのは、今いる場所から湖側に寄った場所で獣人とドワーフが戦っていてくれるからだ。少女達の所までモンスターが来られないように足止めをしてくれている。

「強い奴と遭遇してなきゃ良いけどな」

 小人は眉を寄せて不安げな顔で二人が戦っているだろう方向を見つめた。勿論戦って食い止めてくれているのは獣人とドワーフだけでは無い。

 約束通り数名の冒険者と兵士も共に戦ってくれている。

「そろそろ、合図があるはず――」

 シュパッと音を立てて夜空に青白い光が打ち上げられた。少女の位置から北の随分奥の方から上げられた魔法の光。

「始まるな」

 興奮か緊張か。

 小人の声が震えていた。

「ちゃんと見ててくださいね?私が逃げ出さないように……」

 正面を向いて杖を掲げて懇願すると小人は「ちゃんと見ててやるから、心配すんなって」といつもの調子で応じてくれた。


 戦う理由も、生きる意味も、譲れぬ物も、思いもそれぞれ全て違うけれど、今この一瞬は心をひとつにして、たったひとつの目標を目指して――。

「行きます!」

 目を閉じ精神を集中させる。

 保身も考えず、ただ無防備な姿で直向きに成功させることだけを考えるのは酷く難しい。それでもみな恐いのは同じだ。自分だけが恐怖に襲われているわけでは無い。前線で戦ってくれている獣人やドワーフ、そして冒険者や兵士たちも。

 同様に命の危険に晒されているのだから。


 呪文を詠唱するのは自分の番が来た時だけ。それまではただひたすら精神を平らにしマナと魔力を合わせて増幅させることだけに力を注ぐ。

 46人の魔法使いの中で少女の番が来るのは32番目。まだ始まったばかりの結界魔法が少女の元に来るのは随分先のこと。途切れさせることなく呪文を次の魔法使いに繋ぎ、成功への道筋まで集中を保たなければならない。


 ゆっくりと流れて行く時の中で、胸に去来する様々な想いや雑念に惑わされそうになる。心を無にしておくことの難しさは修業で嫌と言うほど味わい慣れたはずなのに、永遠とも思える長さに怯み怯えてしまいそうだ。


 ちゃんと少女の元まで魔法の輪が届くのだろうか。


 途中でなんらかの事故が起こり、途切れてしまったのではないか。


 それとも少女を飛び越して次に魔法が行ってしまったのではないかと、有り得ない事まで思考する。


 加速して行く感情と思考とは裏腹にマナと魔力は融合し確実に大きくなっていく。


 女魔法使いに教わったスペルを丁寧に読み解く力は、魔法を組み上げる際にマナを効率よく集めて呪文と合わせる力に。


 先生が教えてくれた根気強さと、どんな時も折れない精神力は魔法の一番重要な支えに。


 獣人の指導により鍛えられた肉体は長時間の呪文詠唱に耐えうる体力を。


 ドワーフの愚直な優しさも、小人の明るさも。


 弟弟子の粗野な陽気さも。


 全てが少女を励まし、勇気づけてくれている。


 大きな魔法のうねりが右手側からすごい勢いで迫ってくるのを感じて大きく息を吸い込んだ。ここに来るまで31人の魔法使いの手を通ってきた希望の光。ここで途切れさせ霧散させることは出来ない。


『承前。源たるマナよ。北辰眠り不条理と消失を終え、東風止み宇宙と想像を得る。南天落ち吉凶と現象起き、西方穿ち神秘と理を授けん。

 理念と正道の布陣にて、長道を星が流れれば、終わりの鐘声が鳴り響き、永久の揺り籠とならん』 

 重くなった杖を動かしてゆっくりと方位を表す印を刻む。更にそこに増幅させた己の魔力とマナを紡いだものを流し込みひとつの呪文を完成させる。

『始まりを補完し終わりを結わえて結界となす』 

 杖を両手で支えて翳し、少女は想いを込めて地面に刺した。金色の光が包み、足元から一筋の光が次の魔法使いの元へと走って行くのを確認すると安堵する。

 長い詠唱の続きがその先で唱えられ、そして起点の女魔法使いの元へと繋がればひとつの大きな輪となり第一段階が終わる。

 そして次の呪文詠唱がまた始まるのだ。


 まだ気を抜くのは早いというのに、少女の疲労は限界で第二段階まで持つのかと再び疑心暗鬼に陥る。

 ここまで上手く行っている分、これから先の失敗は許されない。


『グヲオオオオ!』


 空気を震わせる大きな咆哮に少女はびくりと身体を縮ませた。同時に樹が倒れる音が続き、地面が揺れた。


 近い。


 集中を乱すに十分な衝撃と気配の近さに少女はただひたすら目を閉じて杖を握り締める。息苦しいほどの圧迫感と恐怖感に冷や汗をかきながら、逃げ出しそうになる気持ちをなんとか奮い立たせた。

「心配すんな!俺っちが引きつけて、余所へやるから」

 小人の声が横を擦り抜けて行く。その声はいつも通りの軽い物で、少女を落ち着かせようとしてくれているのが解る。


 でも、引きつけてその後どうするのだ?


 小人は戦う術を持たず、その持前の素早さだけで逃げ果せるには頼りない。

 ダメだと引き止めたくても少女は動けず、遠ざかる気配だけを必死で追った。


 行かないで――。


 堪らず目を開けた先を巨大な身体が羽ばたいて行く。前肢が巨大な翼になっており、長い首の先には鋭い咢と縦長の瞳孔を持つ金の瞳が輝いていた。どっぷりとした腹部、後肢の間から見える太く長い尻尾を持つ姿はまるでドラゴンのようだ。

 実際にはドラゴンの亜種で炎は吐かないが、その強靭な肉体と凶暴さはそれに匹敵する。


 その名はワイバーン。


 目の前にいるワイバーンは尻尾が途中で切れ、片方の目から血を流している手負いのモンスターだった。

 血走った目を動かして目の前を走って行く小人を追いかけようと夢中になっている。少女の存在にはまだ気付いていないのか、木々の間を縫って奥へと走る小人の背中に喰らいつこうと牙を擦らせて樹を薙ぎ倒しながら進んで行く。


 相手がワイバーンでは勝ち目がない。


 どうすれば?


 放っておけば小人は喰われてしまう。

 動けば結界魔法を完成させることができない。


 どうしたらいい?


 叫び出したい気持ちと助けに走りたい思いが身を引き裂きそうだ。


 何故こうも無慈悲なことが目の前で起こるのか。自分には大事な人を護ることができないのだろうか――。

 それならば誰でもいい。

 ワイバーンを倒して小人を助けて欲しい。

 誰か。


 そして早く結界を――。


 その時願いが通じたのか空が金色に輝いた。夜空を覆う様なまばゆい光に第一段階が結実したのだと覚る。

 あとは終わりへの呪文を唱えれば結界を張ることができた。


 その前に。


 光の輪の中に居る人達が外へと出るのを待たなければならない。出る前に呪文を終えてしまえばモンスター達と結界内に閉じ込められて永遠に出ることは叶わなくなる。


 だから早く。


 戻って来て。


 いつまでも待つことは出来ない。


 ワイバーンやマンティコアのように翼のあるモンスターの移動距離は早く、結界が閉じる前に外へと逃げられてしまえばその被害は尋常では無い物になる。それが片手で数えられるぐらいの数ならば問題はないだろうが、それ以上になると討伐が難しくなる。


 なるべく素早く封じ込めたいと言うのが本音だ。


 でも少女は彼らを諦める事など出来ない。可能な限りギリギリまで待つつもりだが、自分の呪文を終わらせることができない所為で失敗させてしまうこともまた出来ないことだった。


 冒険者たちがワイバーンのやって来た方向から走り出てきた。負傷者に肩を貸しながらも、しっかりとした足取りで輪の外へと出る。

 暫くして兵士達が入った時よりも少ない数で戻ってきた。連れて戻るのが難しく置いてきたのか、それとも仲間の死を引きずっているのか、全員の顔には憔悴と悲しみが浮かんでいた。

 後は獣人とドワーフ、そしてワイバーンに追われている小人だけ。


 心が折れそうだ。


 このまま戻らなかったら――そう考えると、全てを投げ出して小人を追い、獣人とドワーフを見つけに行きたくなる。

「獣人とドワーフは引き揚げる途中でワイバーンを見つけ追っていった」

 冒険者が邪魔にならない場所から少女にそう教えてくれた。彼らはワイバーンに追われている小人を見つけ、助けに行ったのだろう。

 決して仲間を見捨てるような人達では無いから。


 それならば最後まで諦めずに待とう。


 湖の上目掛けてあちこちから結界の壁が伸びて行く。順調に終わりの呪文を唱え終えた魔法使いたちの成果の表れだ。夜の闇を拭い去る勢いで金の光が覆っていく様は美しく幻想的だった。

 胸が詰まる程の素晴らしい現象も、古代魔法王国への尊敬の念も、その魔法を讃える言葉も今の少女に意味は無い。

 絶望的な思いの中で希望を失わずに立っていることは辛く苦しい。

 向上心と好奇心を糧に常に思考を働かせて、好機を見出せと師から教わり心がけてきたが今この時に一体なにが最善であるのか。


 優先すべきはなんだ?


 三人の命か。


 それとも数百、数千の人々の命か。


 湖が何故妖魔を生み出す物へと変わったのか解らないが、魔法学校の管理する森の中でのことだったので発見が早く対処も素早かった。今なら湧き出てくるモンスターを最小限で押えられる。

 ここで結界封じ込めに失敗すれば魔法学校を捨て全員退却となり、改めて討伐と封じ込めをするには規模が広がりすぎ強力なモンスターが野に下り手が付けられなくなるだろう。


 命の重さを比べることは無意味だ。


 上に立つ者は数百数千の命を取れと言うだろう。それでも少女には獣人の命も、ドワーフも小人もそれに匹敵するぐらい大切で失いたくない物なのだ。


 冷静な頭が魔法を完結させよと命じる。


 波打つ心は諦めたくないと叫んでいる。


「後はここだけだ……」

 兵士の沈鬱な声に視線を上げれば両隣のブロックも魔法を終わらせて、少女の担当する部分以外は綺麗な半円を描く結界として形を整えていた。

 モンスター達は結界が完全ではないこの場所へ集中して移動してくる。そうすれば少女だけでなく、冒険者も兵士たちにも危険が及ぶ。

「残念だが、相手はワイバーンだ。きっと」

 国から派遣されてきた兵士たちは獣人たちを斬り捨てよと決断を迫ってくる。冒険者たちも無言でそろそろ潮時だと悲観的なため息をもらした。

 それでも逡巡している少女に追い打ちをかけるように左右から地を打ち鳴らすような足音が聞こえてきた。地響きと騒々しい気配が無数に近づいて来る。

「ここに殺到されれば突破され、結界も無駄になる!」

「奴らも冒険者だ。それなりの覚悟と自負はあるはず。責めはせん!」

「早く、呪文を」

「結界を」

「俺達の犠牲と他の魔法使いたちの努力を無駄にするつもりか!」

「なにしてる!やれ!」


 結実させろ!


 焦りと恐怖と怒りが少女に叩きつけられる。晒される冷たい視線と刺すような感情が否応なく口を開かせた。


天地あめつちの始まりにて』


 詠唱を始めた少女を見て明らかにほっとした冒険者と兵士たちは一応武器を持ち、飛び出してきたモンスターに対応できるように構える。

 少女は時間稼ぎの為にできるだけゆっくりと紡ぐことを意識した。


『四本の杖を持ち、八つの剣を揮い、二十の杯を掲げ、六枚の金貨を捧げん』


 終わりの呪文は短い。

 その前の長い詠唱部分が核となる部分で、後はもう発動への言葉を発すればいいだけだからだ。


『我は理を知り、魔力を持って真理へと至る賢者なり』


 時間をかけたとしても確実に最後の部分へと呪文は巡って行く。

 ああ。

 間に合わない……。


『我が名は――』

 少女は自分の名を口にする寸前で奥の方から駆けてくる三つの影を見た。ひとつは子供のように小さく、もうひとつはがっちりとした背の低い物、そして最後は――。


 震える唇を噛み締めてぐっと込み上げてくる涙を堪えた。

「戻ってきやがった」

「急げ!すぐに閉まるぞ!」

 兵士が驚愕の声を上げ、冒険者は三人を急かす。小人が全速力で見る見る間に近づき、輪の外へと飛び出してきた。そして足の遅いドワーフの首を掴んで獣人が最後の距離を駆け抜ける。

「急げ!嬢ちゃん!ワイバーンが追ってくる!」

 その声に頷いて少女は名を名乗り上げ両の手で杖を持ち上げようとした。46人分の魔力と巨大な結界を形作る魔法は重く、杖の先はピクリとも動かない。

 ここに来てまさかの事態に少女は慌て、軽い恐慌状態になる。

 後はこの杖を持ち上げて、大地から天へと向けて魔法を解放すれば結界は完成するのに。


 経験と修業不足が悔やまれる。


 少女の未熟さゆえに多くの人々を危険に晒すことになるのか――。


「大丈夫だろう?お前ならやれるはずだ」

 獣人の低い声が少女の可能性を信じ、励ましてくれた。

「嬢ちゃんがまた気を失ってもちゃんと連れて帰ってやるから安心して全力でやればいい」

 ドワーフが後顧の憂いを払拭してくれる。

「俺っちが居るんだ。なんだって上手く行くって!」

 小人はこんな時でも応援して、心を軽くしてくれるのだ。


「ふうっ……!」

 師から渡された一人前を表す杖は重いが、誇らしい気持ちも同時に少女の心を支えてくれる。今までも、これからもだ。

 渾身の力を籠めて少女は足を踏ん張り、腰を入れ、蕪を畑から引き抜くような要領で上半身を後ろへと反らせる。両手は杖を手放さないように必死で掴む。

「……不味い」

 獣人の呟きは聞こえていたが、何が不味いのかを確認することは出来なかった。だが前方から吹きつけてくる強い風と生臭い匂いが不快で、先程小人を追って目の前を通り過ぎた時に聞いたあの唸り声を再び聞けば何が現れたのかを知ることはできた。

「しつこい!」

 小人が抗議をしている相手はやはりワイバーンだろう。

 ドワーフが鎧をならして歩き出すのを獣人が腕を出して止めた。そして剣を抜き放つと簡単に光の輪を乗り越えて行く。


 止めて――。


「俺に構わず結界を完成させろ」

 白刃が閃いてワイバーンの右前肢を薙ぎ払う。後肢で立ち上がり、前左肢の鋭い鍵爪で獣人を斬り裂こうと振り下ろすのを後ろに飛んで避けると再び跳躍して斬りかかる。

 たった一人でワイバーンと戦って勝てるはずが無いのに。

 ドワーフの斧を持つ手が酷く震えている。

 小人も息を飲んで輪のギリギリの所で獣人を見つめていた。


 できない。


「やれ!」

 他でもない獣人が声を荒げて叱咤する。

「お主死ぬ気か!」

 ドワーフが叫んで、獣人は牙を見せて笑う。

「俺の足を舐めるな!閉じる瞬間に飛び込む。気にせず、やれ!」

「信じていいんじゃな!」

 付き合いの長い二人の視線が一瞬絡み合い、そしてドワーフは穏やかな瞳を少女へ向けて「あやつを信じよう」と囁いた。

 少女も頷き、両の手に力を込めた。


 魔法使いは英雄にも勇者にもなれない。

 ただその者達の道に寄り添い力を貸すだけ。


 獣人は英雄だ。

 ワイバーンにただ独り立ち向かい、森の結界を完成させるために最後まで戦うのだから。


 夢を。

 希望を。

 未来を。


「ふっ!ああああ!」

 引き止める膨大な魔力に抵抗し、少女はありったけの魔力を注いで杖を引き抜く。結界魔法に弾き出され、少女は背中から地面に投げ出された。地を揺るがし、音も無く光が満ちる。

 少女は急いで半身を起こして獣人を探した。輝く光の壁の向こうからワイバーンに一太刀浴びせた獣人が走ってくるのが見える。


 あと少し。


 大気が震え、壁がせり上がる。獣人の背丈を遥かに超えて。


「そんな――!」

 ワイバーンが怒り狂いながら獣人の背後から巨大な顎で喰らいつく。少しの抵抗をした獲物に強く噛みつき首を振うと、結界を見上げて両翼を激しく動かした。

「逃げられる!?」

 狂暴なモンスターが外へと飛び出すことへの懸念で兵士たちが騒ぎ出す。


 だが好都合だ。


 銜えたまま結界を逃げ出してくれれば、獣人は助かる。

「そうだ!」

 少女は座ったまま残った魔力をかき集めて呪文を唱える。初歩の魔法は詠唱時間が短いことと消費魔力が少ないことが利点だ。

「“その物、重力より解放せよ。軽量!”」

 飛び立ったワイバーンへ向けて軽量の魔法をかける。習った時はこの呪文の使い道に首を傾げたが、意外な事で役に立つ。

 ワイバーンの大きな翼は、身体の重量を軽くしたことにより更に速度が増す。その強大な肉体は結界魔法が完成するより速く擦り抜けた。

「追いましょう!」

 ドワーフを促して少女はふらつく足を前に出す。追いかけた所で魔力は既に空で魔法は使えない状態だが、きっと初歩魔法が使い方を工夫すれば役に立つように、なにかのきっかけと知恵で切り抜けることは可能なはずだ。

「行こう!ドワーフのおっちゃん」

「当たり前じゃ!」

 小人が走り、ドワーフも続き、冒険者の数人が無言でついて来てくれた。飛び去った方へ気力だけで進みながら半刻。突如重い物が落下する音が響き、まさかと期待と不安を同時に抱きつつ少女は知らず走り出す。

 木々を抜け、草叢を掻き分けながら出た先で、頭から地面に突き刺さったワイバーンの躯を見つけた。尾が切れたワイバーンは間違いなく獣人を銜えて飛び去ったあのワイバーンだ。

 羽には枝が突き刺さり、前肢は投げ出しているワイバーンに近づくと、首の付け根に獣人の長剣がつき立てられているのを発見する。大声で名を呼ぶと横たわった身体の向こう側で応えがあった。

 頭の方から迂回して辿り着くと獣人はワイバーンの腹に背中を預けて座っていた。落下した際に腕を痛めたのか左手を抱え込み、額からも出血しているのか黒い毛が更に黒く濡れている。

「大丈夫ですか?」

 しゃがみ込み恐る恐る尋ねると鼻を鳴らして笑われた。そして右手を伸ばして少女の頭を少し乱暴に撫でる。

「よくやった。お前は立派な魔法使いだ」

 労いの言葉に小さく頭を振る。

 ひとりではとても怖くてできなかった。

 彼らが居てくれたから。

 護ってくれたから。

「無事で……良かった」

 心からその言葉を口に出来て、少女は幸福感に包まれながら獣人の腕に縋った。


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