魔獣 前編
「ほら、お飲み」
湯気の立ったコップを差し出され、少女は嬉しそうに微笑んで受け取った。甘いミルクの匂いが疲れを癒してくれるだろう。
外はまだ春の訪れが遅く、朝晩は容赦なく体温を奪うほどの冷え込みになるぐらいだ。
「お使いかい?お嬢ちゃん」
この日も寒かった。
朝早くにドアが叩かれて女は何事かと腹を立てながら開けた。ゆっくりと朝食をとり、一日の流れがスムーズに運ぶように計画を立てるのが女の日課だ。それを邪魔された。
怒鳴ってやろうかと意気込んで開ければそこに人影は無く、空耳かと首を傾げて閉じかけた所に声をかけられた。
「道を尋ねたいんですけど」と。
振り返り視線を下すと十代の少女が立っていた。旅の格好をしていたから今朝村についたのだろう。マントは朝露がついて重く湿っている。笑顔のあどけなさについこちらも笑ってしまう。
そして寒いだろうから中に入って温まって行きなさいと誘ってしまった。少女は断ろうと首を横に振ったが、小さなくしゃみをひとつしてから恥ずかしそうに苦笑し招かれるまま中へと入った。
「誰を訪ねて来たんだい?」
「えっと……村長さんを」
そういえば村長の孫に同じ年頃の子がいたはずだ。見たことは無いが聞いたことはある。隣町に住んでいるのだと言っていたから、早朝に村に着く寄合馬車に乗ってきたのだろう。
「偉いねぇ。一人で来たんだろ?」
少女は小さく頷いてミルクを飲んだ。期待を裏切ら無い甘く温かい味が舌に広がり、コップを握る指の先からも温もりが伝わるので一口含むだけで身体を芯から温めてくれるはずだ。
「お嬢ちゃんいくつだい?」
女の問いに短く「十二です」と答えた。十二歳にしては言動がしっかりしている。感心に思いながら食器の片づけをしていると乱暴にドアが叩かれた。
今朝は本当に騒がしい。
「何事だい?」
鍵を開けると向こう側からドアをせっかちに開けてきた。慌てた様子で駆け込んできたのは顔見知りの村人だった。
「誰か来なかったか?」
必死な形相の男に鋭い視線を向ける。女の家は村の入り口にあるので旅人達が道を尋ねてくることも多い。ため息を吐いて上着の胸元をかき寄せ台所を振り返る。二人の話声を聞いてひょっこりと少女が顔を出す。
「おや。可愛いお客さんだな」
「おはようございます」
ぺこりと頭を下げた様子に微笑みながらも男は肩を落とし落胆する。どうやら探していた人物ではなかったようだ。男の来た時の顔付を思い出して「何かあったのかい?」と聞いてみる。
「今朝着くはずだったんだよ。魔法使いの先生が」
「魔法使い?ああ……」
合点がいき女は軽く頷いた。二週間前ぐらいに村長が魔法使いに協力を求めたと言っていたのを思い出す。
「村長がまだかと苛立っている」
「仕方がないねぇ。魔法使いってのは勿体つけるから。来た所でなんとかなるとは思えないけど。まったく」
「…………すいません」
申し訳なさそうに少女が荷物を持って傍で立ち尽くしている。女は慌てて謝る必要はないと言いかけて眉を寄せた。少女の荷物の中に長い棒のようなものを認めて。
「まさか……?」
男も気づいて驚いたような表情で見つめると、少女は身体を縮めて小さくなりながらもう一度「すいません」と呟いた。
「じゃあお嬢ちゃんが魔法使いの先生?」
「…………の弟子です」
村外れの山裾にある畑の前で少女は大きく息を吸い込んだ。霜の降りた草の匂いが辺りに立ち込めていた。見渡すと春の芽吹きがそこかしこに見えて嬉しくなる。
「……どうですか?」
村長は頭の薄くなった中年の男だった。少し太り気味な上に汗っかきで脂性なのか、常に浮かんでくる汗を拭っている。少女を見る目が疑わしそうなのは仕方のないことだった。大きな荷物と杖を持っている姿は十代前半の幼い顔をしていてどうにも頼りなく映るだろう。
「えっと……」
問われて言いよどんだ少女に村長は頭を抱える。その顔に「こんなはずではなかった」とはっきりと書かれていた。有名な魔法使いの先生を呼んだはずなのに、どういう理由かその弟子と名乗る子供が来たのだ。
不安にもなるだろう。
「もう終わりだ……」
「あの、そう悲観的にならないでください。もうすぐ先生が」
「来てくださるのですか?」
「ごめんなさい」
「違うのか……」
明らかにがっかりとした村長に頭を下げて、少女は気づかれないようにため息をこぼす。先生の代わりに仕事をするようになって、もうすぐ一年経つがどこへ行っても同じように落胆されたり仕事を断られたりする。早く大人になりたいと思う瞬間だ。
「……来た」
感じ慣れた魔力が西の方から近づいてくる。そちらへと向くと山の右側を黒い鳥が飛んできた。
「こっち!」
手を振るまでも無く黒い鳥は少女の真上に辿り着くと何度か旋回をしてから方へと降りる。
「その鳥は?」
「先生の使い魔です。私をサポートしてくれるために来てくれました」
「これが……使い魔」
魔法使いは動物を支配して自由自在に操ることができる。しかしどんな動物でも操れるわけではなく、繋がりの強い動物や霊的な動物でなければ使役できない。黒猫や鴉、蛇や蛙など一般的には不吉だと言われている種類の物が多い。
今少女の肩に止まっている鳥は大人の掌ぐらいの大きさで、真っ黒い色の中に胸元に白い模様がⅤの字に入っている。黄色の嘴と尾羽に一枚赤い羽根が混ざっている珍しい鳥だ。
「なんだか普通じゃないみたいだから心配だって言ってくれて」
「普通じゃない?」
聞き返すと鳥が瞬きをして首を縦に振る。ぎょっとして村長が目を見開くと少女が小さく微笑んだ。
「魔法の力を感じることと……来てください」
少女に呼ばれるまま村長は畑の中を覗き込む。そこに植えられていた麦は無残なほど食い荒らされていた。初夏には刈り取られて町へと売りに出されるはずの物だった。
「これです」
指差す先には獣の物と思しき足跡があった。硬い蹄のような跡。それが土を踏み荒らしていた。
「……それがなにか?」
不思議そうに尋ねる村長にそれが問題なのだと諭す。少女は一段下がった畑の中へ降りると足跡を追うようにして畑の中を進んだ。まだ残っている麦の傍まで行くと用心深く地面を調べる。
「猪か何かでしょう?」
村長の言葉に神妙な顔で頭を振ってからもう一度手招きをする。渋々畑へと降りて少女の横へ行く。
「見てください。足跡は向こうからこちらへと来てますよね?」
「ああ。見れば解るよ。猪は麦畑の中を通ってここの麦を食べた……それのなにが?」
「わざわざですか?」
念を押すように少女はもう一度指で獣の足取りをなぞってみせた。最初は畑の向こうに聳える山を指し、辛うじて無事な畑、そして目の前の麦畑、荒された畑へと辿る。
だが村長はそれでも理解できないのか、少し腹を立てた様子で「だからなんなんだ?」と問う。
「村に近い方からわざわざ食べているんです。見つかる可能性が高いのに。それから」
ため息を吐いて麦の中へ入る。十二歳の少女の肩の高さまで成長した麦を両の手で掻き分けながら進み、中程まで来た所で不意にしゃがみ込んだ。完全に少女の身体は麦に囲まれて見えなくなる。
四つん這いの姿勢になりそのままゆっくりと麦を身体で押し分けながら村長の方へ向かって進む。
「一体なにを……」
呆れている村長の顔が見え、少女はそこで来た道を振り返った。
「足跡を辿って行ってみても麦は倒れていないんです。私が通るとみての通り体が当たる部分は茎が倒れています。もし猪なら私が通った時と同じような状況になるはずです」
「どういう?」
納得いかずに村長は額を押えた。汗と脂でべとべとだ。少女は「つまり」と口にしてから立ち上がる。
「相手は猪ではないです」
「では?」
「もし足跡通りの猪ならとても一頭だけでこれほど畑を荒すことはできないはずです」
残った畑はあと僅か。今年の麦の収穫は望めない有様だ。被害の出始めた冬の終わり頃からひと月も経っていないのに村の畑は全滅しようとしている。
「目撃された方はいらっしゃらないんですか?」
聞かれて村長は唸るようにしながら「いる」と答えた。歯切れの悪さに少女が首を傾げると「村でも札付きの悪たれさ」と吐き出した。
「あれは猪なんかじゃねえよ」
短髪の少し悪擦れた風の青年が乱暴に言い放つ。
ここは青年の家。近所では嘘つきで乱暴者の手の付けられない悪ガキで有名な人物。体躯が良く浅黒い肌をしている。
「いつ見ました?」
質問する子供を横目でジロリと見てから「半月前」と返す。少女はひとつ頷いてどんな姿だったのかと重ねて問う。
「なんて言ったらいいんだろうな」
「見た目は馬のようだったと」
村長が遮るように言うと青年は眦を上げて怒声を響かせる。少女の肩に掴まっていた鳥が驚いて飛び上がり天井をぐるぐると旋回した。
「大丈夫」と優しく声をかけて少女が手を差し出すと逃げるようにその上に降りる。
「すみません村長さん。今はこの方に聞いているので」
「……はあ」
そう言われてもこの村一の悪たれの言葉を信じるだけ無駄だと思うがと村長は愚痴る。口の中で相手には聞こえないようにしていたが、しっかりと聞こえていた。
だが気にせずに促すと青年がため息混じりに喋り出す。
「あの日親父に言われて畑の様子を見に行ってたんだ」
最近畑を荒している猪が出るとは聞いていた。麦が収穫できないと困るのは青年も同じだ。食料が無くなるし、家に金が無くなると都会へ働きに行かねばならない。華やかな都会は魅力的だが仕事は辛いので行きたくはなかった。
だから困る
青年は夕食後に弓矢を持って畑へと向かった。青白い冷めた半月が輝く夜で、冷気を含んだ夜風が体温を奪っていく。身震いして青年は半ば小走りで目的地へと急ぐ。
丘を登って少し下るとすぐ畑だ。
だが丘を下る前に異変に気付いた。下の方の畑に黒い影が見えた。月明かりの頼りない視力には限界があったので、腰に下げていた小振りのランタンに魔力のやごった小さな石を中に放り込む。硝子の中の灯心にポッと火がついた。
それを丘の上から照らすと影が動いて麦の中から顔を出す。
「なんだ、あれ?」
思わずポカンと口を開いて見入る。麦の丈よりも上に体が出ているからどう見ても猪に見えないのに、こちらを見ているその鼻面には鋭い犬歯が出ていて豚の様な鼻がついていた。耳と首は馬の様で鬣すらあったが、背中には盛り上がった奇妙な瘤がついている。
ぱっと見は馬で顔は猪。
見たことも無い獣に狼狽している青年の耳に土を蹴り上げる音が聞こえた。灯りに興奮したのか、人影に動揺したのか、それはいきり立ち後ろ足で土を掻いている。
今にも襲いかかってきそうな勢いに慌ててランタンを置き背中の弓と矢を取って構えた。だが震えて上手く狙いが定まらない。歯の根も合わずに命は無いなと直感する。青年の指が矢を放すのが先だったのか、獣が畑から飛び出したのが先かは解らない。矢は獣の上を大きく外れて飛んでいった。畑から出てきた獣の脚は太く、馬のように長かったが蹄は猪の物だったのを覚えている。
足の速さも馬と猪を合わせたような具合で、走って逃げてもすぐに追いつかれるのは必至だ。だが諦めきれずに背を向けて村へと走った。すぐ傍まで息遣いと足音がきていた。
「はあ?」
だが追ってはこなかった。途中で止まり何やら地面の周りをぐるぐると回っている。肩越しに振り返って見るとランタンの周りを回っているようだった。鼻息荒く涎を垂らして。
「その間に逃げたよ」
「……賢明ですね」
村長は最初から信じていない様子で青年を見据えている。だが少女は真剣な顔で頷いて「猪でも馬でもありません。そもそも動物でもないです」と言い切る。同意するかのように鳥が小さく鳴き、村長が「それならなんだ?」と答えを欲する。
「……魔界から来た魔獣です」
口を開いた後に表情を引き締めて少女は大変なことになったと呟いた。
再び畑に戻り生き残った僅かな麦の前で荷物を下す。動きにくいのでマントも脱いで荷の上にかけた。
「さて……と」
呟いて空を仰ぐ。そこには珍しい黒鳥が気持ち良さそうに飛び回っている。
「まさか魔獣だなんて」
自身も勇気も喪失していた。まだ見習いから抜け出したばかりの新米魔法使いの自分には荷が重い仕事だ。しかし今から先生を呼んでも遅い。今夜には最後の畑を食い荒らされてしまう。
それを阻止しなければ少女がここに来た意味が無いし、先生の名前に傷をつけることになる。自分の名誉など大したことは無いが、先生の名誉となるとそうはいかない。
それだけはできない。
「なあ」
「ひゃっ!?」
考え込んでいる間に来たのだろう目撃者の青年がすぐ後ろに立っていた。驚いて規制を上げた少女を見てゲラゲラと笑う。
「質問があんだけど」
笑うと乱暴者の顔が消える。少女も微笑んで「なんですか?」と気軽に応じる。荒れ果てた畑を首を巡らして一望すると青年は肩を竦める。麦を刈り取った後でもこんなに荒れることはなかっただだろう。正視に耐えない姿になっている。
「どうして魔獣だって解るんだよ。見たことあんのか?」
普通に生活していて魔獣とばったり出会うということは無い。お伽噺の中で勇者に退治されるだけの存在としか認知されていないのも事実。そんな伝説の化け物が村の山に棲みつき畑を荒しているなど信じられる話ではない。
説明しても仕方のないことなので少女は答えずに仕事を続ける。荷物から杖と小さな革袋を取り出して歩き出す。
「おい。なにしてんだ?それなんだよ?」
「薬草と瑪瑙を粉にして魔法を施した物です。動物が嫌って近づかなくなる効果があります」
革袋の中から灰色の粉末を手に取って、歩きながら麦から二歩ほど離れた場所に撒いていく。残った麦の周りをゆっくりと隙間なく粉を撒いていると少女の肩に鳥が止まる。
「なあそれ。魔獣にも効くのか?」
「……効果はないです」
「おいおい。そんなんで大丈夫なのかよ」
不安そうな表情の青年よりもきっと情けない顔をしているのだろう。自覚はあったのでなんとか笑顔を作って頷いた。
「悪いようにはしませんから」
次に荒れ果てた地面に杖を着き立てる。集中しながらマナの流れを手繰り寄せ、多くもなく、少なくもない量を使用しながら魔法を紡いでいく。色で表すなら金色の粒子のような魔法の源を古代の言葉と呪文で変化させながら、杖先を地面に引きずり土を抉りながら移動する。馬が丸々一頭余裕で入れるほどの大きさの円を描いた。
「結!」
最後に右手を線が結びつく部分に置いて魔力を込めると、唱えた呪文が古代語でぐるりと円周を回り渦を巻きながら中心へ吸い込まれていく。薄く輝きながら魔方陣は地面に潜って消えた。
「すげえっ!」
今まで固唾を飲んで見守っていた青年が興奮して叫ぶ。初めて見たのか本格的な魔法に興味津々の様だ。もっとよく見ようと消えた魔方陣に近づく。
「だめですよ!」
慌てて青年の服を掴んで止める。折角の魔方陣が無駄になっては困るのだ。「なんでだよ?」と怪訝そうな青年に説明する。
「今やったのは結界と捕縛の陣なんです。入ったら魔法が発動してしまいます」
「つまり?」
「朝までは出られません。しかもそこに魔獣が入ってきたら……どうなるか解りますよね?」
「……死?」
「はい」
一度張った結界を解いてその場所に再度陣を描いても効力が落ちてしまう。それはその場所の魔法の源が失われ回復するのに時間がかかるからだ。魔法は魔力の源があって初めて発動できるものである。その源は世界の至る所に満ちている不思議な力で、魔法使いはそれをうまく使って集め凝縮して術を発動させる。源の少ない場所では力を発揮できないことも有り得る程重要な物だ。
「でもすごいな。お前。本当に魔法使いなんだな」
感嘆して青年は少女をしげしげと眺める。
「いえ。まだまだ至らない所ばかりですから」
恥じ入って少女は小さくなった。知識も実力もまだまだ心許ない物で、なんとか仕事をこなして自信と修業を積んでいるという感じである。
「なあ。もっかい聞くけどどうして魔獣だって解ったんだよ」
「それは……」
「修行のひとつに魔と交信および観察するという術を学ぶ物があるんだよ」
「先生!?」
言い淀んだ少女の肩から若い男の声がした。理知的な声は肩に止まっていた鳥の嘴から発せられた物だ。
「鳥が……喋った?」
ぽかんと口を開けたまま青年は鳥を凝視する。言葉を覚える鳥も世の中にはいるが、こんなに流暢に喋る鳥はいない。
「この子は先生の使い魔なんです」
「使い魔?」
「今みたいに使い魔を通じて会話することもできるんですけど……」
はあっと大きいため息を吐いて少女は肩を落とす。それとは逆に鳥は嘴を開けて楽しそうに笑い声をたてた。
「驚かせたみたいで悪いね」
謝罪しているが絶対に確信犯である。青年が理解したという表情で「随分愉快な先生だな」と嫌味を言った。
「どういたしまして」
皮肉に対して礼を言って羽を得意げに動かす。
弟子は困惑顔で自分の肩を見つめる。なにを言い出すか解らない師匠に戸惑いを隠せない。そもそも修行の内容を語るのは禁じられているのだ。師から弟子へと伝えられていく物で、何百年何千年という歴史を守りにいてきた物だからと他の誰でもない先生が耳にタコができる程言っていたのに。
「魔獣の活動時刻までまだ時間があるね。休んで万全の体調で臨まなくては厳しい戦いになるだろう」
「休んで」
言いかけて口を噤む。たとえ休んで万全に迎えても厳しい戦いになるのは目に見えている。でもそれを口にすることはできない。先生の代理で来ている以上、依頼してきた村の人の前で醜態をさらすことは避けねばならない。
「……休んできます」
「解ればいい」
鳥は翼を広げて少女の肩から青年の逞しい方へと飛び移った。唇を噛んだまま荷物に歩みより両手で抱え上げる少女の背中に青年が「俺の家で休めよ」と声をかけてくれた。
「……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてから足取り重く丘を登った。




