妖魔の湧き出る湖 中編
獣人たちとは治療テントの前で別れ、少女は青年と共に病室として使われている大きなテントへと向かった。どこのブロックも強いモンスターとの戦闘で怪我人が出ており、被害が大きくなっている。
呻き声の中、忙しく動き回る学生たちの中に見知った顔を見つけて少女は声をかけた。
「久しぶり」
「ああ、そっか。一人前になったんだったな」
同郷の少年で一旦は辛く厳しい学校の授業から逃げ出して退学したが、少女が姉の誕生日を祝うために帰郷していた時に再会し、それをきっかけに魔法学校へと戻った。
「先生が怪我をしてここに運ばれたって聞いて」
「それなら、こっちだ」
少年はついてくるようにと視線で促して奥の方へと進んで行く。今の所まだベッドは空いているので、想定していたよりは怪我人は少ないのだろう。神官達も多く参加しているので、重症者を優先的に治療しているのかもしれない。
「ここにいるのは軽傷の人ばっかりなの?」
「そう、かな。わりと軽傷な方の人が多くて、重い怪我をして治療が済んだ人も」
「先生は――」
気の毒そうな表情を浮かべて少年は「後の方」とだけ答えた。少女の後ろからついてきている青年が息を詰めて俯いたのを目の端に捉え、歩きながら右手を後ろに伸ばして「あなたのせいじゃないから」と励ますがそれも効果は無い。
ワイバーンと戦って命があったのだからそれで十分だ。
「あそこ」
ベッドの手前で立ち止まり、少年は場所を示した後身を返して去って行く。その背中に「ありがとう」と呼びかけると顔を向けずに手を挙げて応えた。
寝返りが打てない程狭く細長いベッドで横たわる先生の顔は青白い。寒いだろうにかけられているのは薄い毛布だけ。そっと近づき口を開くが、よく眠っているようなので声をかけられず仕方なく閉じた。
研究ばかりをしていた先生は元々こういったモンスターと相対して戦うことに慣れていない。人一倍集中力と高い魔法力を持っているが、体力の面で不安があり大規模な戦闘には参加をしないのだと本人も言っていた。
魔法学校からの協力要請でなければきっと断っていたはずだ。
「繊細な人だから……」
協力できないとは言えず、そして知人のいる魔法学校を見捨てるわけにもいかなくて引き受けた。
ローブの胸元から白い布が見え、その部分がゆっくりと上下しているのを見ながらどんな戦況だったのか想像を巡らせた。
湖を前にそこから次々と遭遇するはずの無いモンスターが湧いてくるのを見て直ぐに危険だと判断しただろう。きっと一緒に行動していた冒険者も同意して退却を始める。先頭と殿は冒険者で真ん中に青年と先生がいたはず。素早く退却をしようと急ぎ過ぎたのか、警戒を怠ったのか、背後から襲われたのか。
とにかくワイバーンが現れ戦闘に慣れていた冒険者たちは武器を抜き戦おうとする。先生は青年に後方へ走り臨時本部へ報せろと指示しただろう。青年はその言葉通り行動する。
「先生……俺を庇って、怪我したんだ」
青年は苦しそうに吐き出した。その告白をすんなりと受け止めて少女は小さく頷いた。
師が怪我をするのならばそれ以外考えられない。
常に冷静で、無駄な事は一切しない人だ。冒険者の身が危ないからと先生は身体を張って助けようとはしない。自分よりも丈夫な鎧を着て、体力もあり、経験も豊富な冒険者には先生の助けなど必要としていないのを知っている。
魔法を操り攻撃の手助けをして無難に切り抜ける――そんな男だ。
もっと極端に言うならば冒険者を護る義務など先生には無い。怪我をしようが、命を落とそうが関係ないのだ。自分の庇護の下、怪我を厭わず護る必要のある相手はひとりしかいない。
「俺なんかを……庇って」
膝を着き青年は先生の毛布を掴んで顔を埋める。その肩が激しく震えているのを見て、少女はしゃがみそっと青年の背中を擦った。
「弟子を護るのは師の務め。自分を責めないでください」
もし青年と少女の二人だけで困難な局面を迎えたとしたら、自分は青年を庇って傷を負うことに戸惑いも恐怖も抱かないだろう。それは理屈では無く、感情でもない。
そうすることが当然で疑問を持つ方が難しいのだから。
「あなたが無事で良かった」
「……なんで!俺なんか、別に、役にも立たない。何もかも、中途半端でっ」
「役に立ってますよ。毎日美味しい料理が食べられるのも、楽しい会話が成り立つのもみんな」
青年のお陰なのだから。
「私と先生だけの暮らしの時は一日に一食の時もあったぐらい食生活が破綻してたんです。しかも交わされる会話は魔法に関することだけで。どれだけ、私が救われているか。知らないんですか?」
「知るかよ……そんなこと」
洟を啜り上げて青年は握り締めた拳が白くなるまできつく力を籠める。その手に空いている左手を乗せて力づけるように二度叩く。
「この世は愚か者で溢れてるんだそうです。殆どの人間は後悔しながら学んで行くもので、取り返しのつく失敗や痛い目を沢山経験して成長していけばいいと私はある人に教わりました。賢者たる人はほんの一握り。私ももれなく愚か者だから」
「お前は!違うだろ!」
青年の目にはきっとそう映るのだろう。
そんなことはないのに。
いつだって後悔と反省を繰り返して、途方に暮れているのを覚られないようにしてきた。
「私はあなたの兄弟子です。情けない所は見せないようにこれでも必死なんですから」
「……お前はいつだって余裕綽々って感じだぞ」
「それでは私の努力は実を結んでいるってことですね」
くすくす笑って少女は立ち上がる。青年の肩を最後にぎゅっと握って「先生を頼みます」と大切な人を託した。俯いたままだったが青年はしっかりと力強く頷いてくれたので、師の傍を離れることを不安に思わずに済んだ。
大きなテントを出ると雨は止んでいて厚い雲の隙間から太陽の光が漏れていた。改めて自分の姿を確認すると、皮のブーツは泥だらけで、スカートの裾は雨でぐっしょりと濡れていた。杖も掌も乾いた泥がこびり付き、マントは草と泥が全体にべったりとついて酷い格好だ。
「着替える時間があればいいけど」
くたくただが休憩をもらえるかも怪しい。
森全体を囲い込むための結界を張るには魔法使いが足りない。一人前と認められたばかりの未熟な自分にも声がかかる可能性がある。
「悪を赦しちゃいけない。悪には鉄槌を……」
人に害をなすモンスターは悪だ。
そしてマンティコアが言っていた闇の再来の予言。
「ティルスの聖女は今どこでなにをしてるの?」
この世を正義の光で満たし、正しき道へと導くとされている至高神ティルス。その聖王が送り出したと噂されている聖女の姿も、悪を正したという伝聞も伝わってこない。
焦りと苛立ち。
今この場所で妖魔たちが湧き出しているのに。
これを止めずになにが聖女だ。
「だめだ……。人を当てにして、また逃げ道を作ってる」
今できる事を全力で。
両手を頬に叩きつけて気合を入れる。震える膝に力を入れて、外側だけは自信も余裕もある様に見せて歩く。
治療テントの入り口を潜ろうとした所で「いたいた」と声をかけられ、肘を引かれた。振り返ると懐かしい顔に出会い少女は一瞬呆けて、次に慌てて姿勢を正して頭を下げる。
「御無沙汰しています。あの時は貴重な御教授ありがとうございました」
「いいって、いいって。なかなか立派な魔法使いに育ったじゃない」
スペルを読み解くコツを教えて貰う為に先生がわざわざ魔法学校から知り合いの女講師を呼んでくれたことがある。その時の女性が少女を呼び止めたのだ。
「まだまだ未熟で」
「当然よ。なり立てだもの。でもそれは誰もが通れる道じゃないからね。魔法を志して途中で挫折する者は多いんだから。それだけでも立派よ」
「精進します」
「あはは。相変わらず子供らしさの無い子ね」
「……よく言われます」
「話は聞いてるかと思うけど、結界を張る為の魔法使いを集めてるの。本当は貴女の先生に頼むつもりだったんだけどねー……。情けない話。本当に選り好みしてる場合じゃないんだわ。なり立てでも是非協力してもらいたいわけ」
疲れてるとこ悪いんだけど会議に出て貰えない?と誘われたので少女は素直に首肯した。女の目の下に隈があるのも解っていたし、皮鎧を身に着けて腰に小剣を差しているのも見えていた。
ブーツもマントも泥だらけで、森の中に女も入っていたのだとその格好だけで知ることが出来る。
否やは言え無い。
獣人たちと合流するのは後回しにして女の後をついて行く。臨時本部は退却してきた冒険者や兵士たちが浅い傷の手当てを自分達でしながら、食事をしたり情報交換をしたりしていた。どの顔にも疲れが見え、先の見えない不安を抱えている。
「巨大な結界で囲い込むってどうやるんだ?」
ひそひそと囁かれる言葉は抑えられているが、少女の耳にも女の耳のも届いていた。
言外に「できるのか?」と問われていて、同様の疑念は持っていたので彼らの言いたい事はよく解る。
魔法は万能ではない。
必死で学んでいる時はその力に憧れ、賞賛し、傾倒した。だが実際に外へと出て数々の困難に出会った時、その魔法ができる事は少なかった。少女は常に無力感を味わい、絶望に身を竦ませて、それでも杖を持っている。
それはひとえに、これしかないからだ。
自分の中に自信を持ってできる事が魔法しかないから。
「可能性を……」
否定しては未来はやってこない。
「さあ、入って」
女がテントの入り口を跳ね上げて促すので、少女は会釈して先に中へと入った。小さくは無いテントの中には杖を持った魔法使い50人程が敷かれた布の上に座り緊張した顔で会議が始まるのを待っている。
末席に座った少女を確認して女は入口の布を下すと、集められた魔法使いの前へと進み出た。
「始まりは些細な妖魔の大量発生でした。まさかこれほど長く、困難な戦いになるとは誰にも想像できなかった事です。あるパーティが森の中心にある湖へと辿り着き、そこから脅威となるモンスターが次々と湧き出てくるのを確認しました。各ブロックでも奥へと進む度に出現するモンスターが強敵へと変わって行くのを、身を持って経験したはずです」
講師として生徒に教える際に必要な、語りかけるような口調で女は魔法使いに呼びかける。全ての魔法使いが目を伏せて自分達が戦ったモンスターの強さに思いを巡らせ、それぞれの戦闘を思い返し苦い顔をした。
「学長はこの森を元の状態へと戻すことは不可能であると判断し、お聞き及びでしょうが結界を使って封鎖することを決断されました」
女が目配せをして壁際に居た学生たちが一斉に動き出す。手に持っていた羊皮紙を魔法使いたちに配っていく。少女の元へも手渡され古代語で書かれた説明文を目で追う。
「これは古代魔法王国時代から受け継がれてきた貴重で強力な結界魔法です。古い文献や魔法書には必ず載っているので、ご存知の方もおられるでしょう。ですが実際にやってみた方はいらっしゃらないはず」
少女でさえも目にしたことがある有名な結界魔法。だがこれは大量の魔力と長い詠唱時間が必要で、成功させるには魔法使いが最低20人はいる。全員で発動までの一刻ずっと集中力を途切れさせることなく続け、完成させることにより巨大で強力な結界を築くことができるのだ。
「未知なる経験に心躍りませんか?古代魔法王国時代の魔法に挑戦できるまたとない機会。是非ともご協力いただきたいのです」
「だが」
ひとりの男が顔を強張らせて反論する。
「一刻の間、無防備となる我々の安全はどうなる?どの場所で魔法を詠唱する?」
「もっともな質問です。結界の範囲はこの臨時本部の少し内側を予定しています。人数を考えればもう少し湖側にして囲む円周を小さくしたい所ですが、そうすると強力なモンスターに襲われ貴重な魔法使いを失うことになる……。貴方がたを護るために範囲を広くし、勿論発動までの間集中して頂くために十分な数の冒険者と兵士をつけます。なによりも大事なのは」
女は握った拳を見つめて言葉を切った。その指に輝く紅玉の環は魔力を帯びており、杖の代わりとして魔法を扱える便利な魔法道具。
「全ての魔法使いが志をひとつにし、結界魔法を発動させること。そのためにはひとりの命も無駄には出来ません。必ず護り通して見せます。貴方がたは安心して魔法に集中してください」
“必ず”が決して期待できるものではないと、ここに居る魔法使いは全員解っていたはずだ。だが誰もが黙り女の声を、面を伏せて聞いていた。
「勿論危険な事は確かです。無理強いはできません。ですが全ての魔法使いが等しく古代魔法王国へ畏怖と尊崇を抱いており、二度と経験できぬ巨大な結界魔法の成功を見てみたいと思われると信じています。そしてその成功者に自らの名が刻まれる事を望むことも」
きらりと瞳を光らせて目の前の魔法使いたちの自己顕示欲を擽ると女は「如何ですか?」と辞退する者がいないかと尋ねる。
「すみません……」
前の方でひとりまだ若い男が立ち上がり、続いて中央で女が立ち上がった。どちらも自信無く青い顔で震えている。
少女とて同じように立ち上がって逃げ出したかった。
だが。
今ここで辞退して人数が足らずに結界が失敗したら、師も弟弟子も、獣人もドワーフも小人も無事に帰れるとは思えない。そして同郷の少年はせっかく戻った学校で魔法を学ぶことができなくなってしまう。
それに前で話している女魔法使いはきっと一番危険な場所に立つ。
もう。
知っている人を失うのは嫌だ。
それだけが少女をその場に留めていた。
考えなければならないのはただひとつだけ。
巨大結界を成功させ、みなで無事に帰ること――それだけだ。




