妖魔の湧き出る湖 前編
降りしきる雨の中で視界の悪い目をなんとか凝らし首を巡らせる。深くフードを被っているが、既に雨に打たれて半日を経過しているので意味は無い。前髪は額に張り付き、顔は濡れていて、ただ体温の低下を防ぐためだけに視野を狭くしているフードの縁を指で浮かせる。
土の匂いと草の匂いが噎せ返る様に辺りに立ち込めていた。少し離れた場所で魔法による轟音と、剣戟が止むことなく続いている。
「……きりがない」
森に囲まれた状況で背後を振り返っても、木々が無ければ遙か後方に見えるはずの巨大な建物は見えなかった。
ここは魔法学校の所持管理している森で、ちょっとした街を軽く超える広大さと貴重な資源もある。普段から学校の講師が学生でも対応できるレベルの弱小妖魔や動物だけを残して退治するなど徹底した管理を行っていた。
にもかかわらず突然大量に発生したモンスター達の数に学長は外部へ協力を求め、その話が少女の師の元にも届けられた。
六歳の時にこの学校に入ろうと受験し訪れた時も驚いたが、その重厚な石造りの建物がコの字型にどっしりと地面に根を下しているような姿は学校には見えない異様な雰囲気だった。
校舎と寮は別棟だが階段と通路で繋がっている。
近隣の村や町へと行くには徒歩では不可能で、馬車や馬を使って一日半かかった。その特殊性もあり学校には作物を作る畑と家畜小屋が備わっており、その世話をする専用の人達が家を構えて数世帯住んでいる。その住民と学生の為に日用品を扱う店などもあり、ちょっとした集落として存在していた。
「そろそろ進むぞ」
灰色の空を見上げていた少女は呼ばれて顔を前面へと戻し、背の高い獣人に頷きを返す。防水効果のあるマントは厚く、重くて動きにくい。しかも始終雨が叩きつける感触と音が濡れていない身体から温もりを奪っていきそうで気持ちも悪い。
結局本格的な戦闘が始まればマントは乱れて濡れ、足元の泥を跳ね上げて汚れるのだ。
「嫌な雨だよな~」
小人が大きな木の下でマントの水滴を払い落としながら大きくため息を吐く。汗を拭おうとフードを落としたので栗色の髪と茶目のある明るい碧色の瞳が見え、少女はなんとなくほっとして微笑んだ。
「なに笑ってんだ?俺っちの顔、なんかついてる?」
「いえ。なんか落ち着くな、と思って」
「嬢ちゃんの感性がこの連日の戦闘の所為で少し歪んどるようじゃ!こやつの顔を見て落ち着くとは」
大袈裟にドワーフが声を上げて獣人に大変だと報告する。小人は「なんだよ、それ!」と不服そうに両手を上げて抗議するが、獣人の失笑でそれすらもまともに取り合ってもらえなかった。
「なんだよ、なんだよ!みんなして」
「怒らないでください。愛情表現なんですよ」
「そんな解りにくい愛情表現なんて俺っち望んでないよ。こう、ストレートに熱く抱擁して――」
突き上げていた両手を横に広げて少女に飛びつこうとした小人の前に、ドワーフの丸太のような太い腕が出され阻まれる。
「止めんか!」
「止めんのはおっちゃんの方だろ~?俺っちはごついドワーフの腕じゃなく、可愛い女の子の胸の中に飛び込みたい」
「いい年してみっともない小人め!」
「年はいってても、俺っち見た目は子供だからね。ドワーフのおっちゃんと違って」
相変わらず騒々しく少女は苦笑しながらも楽しげな様子に緊張が解れて行くのを感じる。彼等はふざけていても、その時が来れば表情が変わり驚くほどの集中力で武器を振うのだ。今回小人は戦況を見て後方にある魔法学校の講師と優秀な上級学生のいる臨時本部へと走り報告をする伝令係を担っている。
「いつまで続くんかのう」
戦闘が、なのか雨が、なのかどちらともとれるぼやきを口にしてドワーフがのそりと雨の中歩き出す。
少女は疲労の溜まっている脚と肩から意識を無理矢理引き剥がして、歩きにくいぬかるんだ土を踏みしめながら進む。先頭を歩く獣人は寒さの厳しくなり始めた気候も、雨も、ぬかるみも、疲労も感じさせない。
常と変らず淀まぬ足取りで警戒しているのに至極自然な姿で歩いている。
元より鍛え方と身体の作りが違うのだ。
「どうかした?」
陽気な小人の声に自分がため息を知らず洩らしたのだと気づき、なんでもないのだと慌てて首を振る。
この小人も戦いはしないが日に何度も森の中を往復して走り回っているはずなのに、にこにこと笑顔を絶やさず不平を零したりはしない。勿論ドワーフも重い戦斧を振り回しながら戦っているのにその力強さは衰えてはいなかった。
つくづく己の不甲斐無さと努力不足と体力の無さが嫌になってくる。
「修行が足りないな、と」
「これでまだ足りないって、あんた一体どうなりたいの?」
目を丸くして小人が呆れるので、みなさんから疲れの色が見えないので情けなくてと正直に答えれば「そんなことか」と三者三様の反応が返ってきた。
「俺は北の地で蛮族との戦いに参加したことがある。あの時は一カ月間ずっと戦いっぱなしだった。睡眠時間は纏めて取ることができず、短い休憩時に取るのを経験している。これぐらいなら全く問題は無い」
「一カ月……」
それならばまだ三日目のこの戦闘は獣人には楽な物なのだろう。冒険者や学校関係者、国から派遣された部隊が森の中には複数入っており、密に連絡を取りながらしっかりと休息や睡眠をとる時間は与えられている。森を適当にブロック分けして少数精鋭をそこに割り当て、隣り合うブロックが同時に休憩をとらないようにと工夫されていた。
「深いダンジョンに潜った時なども周りをモンスターに囲まれて、時間の感覚も無いまま戦い続けることもあるしのう」
手や足を止めれば死へと直結するギリギリの中で戦い続けられる精神力は少女には想像もつかない。
初のダンジョン攻略時に魔力を使い切って意識を手放した経歴があるだけに、少女は苦虫を噛み潰した表情で俯くことしかできなかった。
「あんたはまだ成長途中の子供なんだし、女の子なんだから戦うことしか能の無い奴らを手本にしなくても良いんだよ」
「せめて、足を引っ張らないように努力します」
「頑張りすぎだって。あんたは魔法使いなんだからさ」
「それを逃げ道にしたくはないんです。みんなが生き抜くためには、なんだってしないと」
子供だからとか女だからとか言い訳にしては駄目なのだと胸の中で反芻する。蘇る命の火が消える瞬間の映像を目蓋を閉じて押え込んで、今は集中することだけに意識を向けた。
左手が知らぬうちに背中の短剣を探っている。顔を上げると物言いたげな獣人の黒い目と出会い、小さく顎を横に振って気にしないでくれと表すとすいっと視線は外された。
「…………来るぞ!」
獣人が雨で煙る木々の間を睨んで長剣を抜き放つ。ドワーフも戦斧を肩に担いで身構えた。少女は相手の数と距離が解るまでは動けないので杖を両手に持って呼吸を整えることに専念する。小人はいつでも逃げだせる体勢で周りを警戒していた。
音と気配を探ろうにも雨音と霧でそれも上手くいかない。
「一体なにが」
森を進むにつれてモンスターは強くなっている。ゴブリンやオーク、コボルト、インプ、人肉を喰らうオーガ、巨体のトロール。
次は一体どんなモンスターなのか。
「上からだ!」
鋭い声で注意を促されたのと、頭上から打ち下ろされる風を感じたのは同時だった。羽ばたきと黒い影が覆い少女は急いで左に飛び退く。獣人が割って入り長剣を下から跳ね上げて上空から振り下ろされる獰猛な爪を弾き返して一撃を叩き込む。
「マンティコア……」
呆然と呟いて少女は木の幹に背を預けて、鋭い牙を剥き出しにしている凶悪な老人の顔を凝視する。ライオンの巨体が背にある蝙蝠状の大きな羽で浮いており、蠍の尾をゆらゆらと揺らしながらバランスを取っている姿は背筋を凍らせるのに十分だ。
魔獣マンティコア。
「こんな所に?」
出現頻度の高いモンスターでは無いマンティコアが目の前にいることが信じられない。古代遺跡の中や、深いダンジョン内では遭遇することもあると聞くが、近くに学校があり人が暮しているこの森に何故――?
「高い知能を持っているはずなのに」
「動揺しておるの?人の子」
しわがれた声に少女は震え、その声が向けられているのが自分なのだと気づき慄く。にたりと笑い赤く光る瞳が射抜くように見つめてくる。
「ひっ!」
「良い反応よ」
くつくつと喉の奥で笑いマンティコアが羽を一打ちして獣人の剣を避けて高みへと昇る。獣人は剣を鞘に収め、素早く背中の弓と二本の矢を取ると弦に矢をかけて引き絞ると狙いをつけて一本目を射る。そして直ぐにもう一本続けざまに打ち込む。
マンティコアは嘲るようにくるりと回ると羽の風圧で矢の軌道を変えてしまう。
「……あいつを撃ち落とす魔法は無いのか?」
「え……?あ、はい」
「しっかりしろ。あれしきの魔獣に驚いていては、生き抜く事などできん」
「……はい!」
頷いて大きく息を吸う。マンティコアは知能が高く暗黒魔法を唱えるぐらいに魔法に耐性もある。少女の拙い魔法で撃ち落とすことは難しいが、それでも飛んでいる間はこちらから手も足も出ない。
「しかも蠍の毒を受けたら麻痺して、死ぬ」
それほどの猛毒を尾に持っているのだ。
「嬢ちゃん頼むぞ」
ドワーフはマンティコアが降りてくるのを待ち構えて瞳をギラギラとさせ、小人は巻き込まれないように少し離れて「頑張れ~!」と応援する。
少女を護る様に獣人が立ち、その後ろで集中力を高めマナを集めた。丁寧に慎重に源を手繰り寄せ、古代語を織り込みながら儀式に則りゆっくりと印を結ぶ。
「“空気を震わせ”」
雨の滴の間にチカッと青白い光が走る。
「“荒れ狂い”」
次の語を継ぐと空気がビリッと震えた。
「“雲と大地の間を裂いて”」
杖の先を右から左へと下から円を描くように移動させると、マナが撹拌されながら渦を巻く。
「“光の道を作れ”」
更に左から右へと今度は上から円を描いて起点と合わせた。結合した魔法は最後の呪文と起動の為の最後の印を待つ。
「“轟け!電撃!”」
掲げていた杖をマンティコア目掛けて突き出すと、長身の獣人の頭上を抜けて電撃が迸る。雨の影響でジグザグに進みながら時折激しく光ってマンティコアへと一瞬で向かっていく。
電撃を受けた魔獣は身体をビクビクと弾ませたが、大した打撃にはならなかったようだ。
「効かぬわ!」
哄笑しマンティコアが滑空してくる。獣人が腰を落とし、ドワーフも迎え撃つ。鋭い爪が抉るように振ってくるのを長剣で受けとめ、ドワーフが短い脚で蹴り上がり、斧でその前足を斬り落とす。
「ぐぅおお!」
苦しみながら羽を打ち下ろしマンティコアが後ろ足で獣人のマントを掴む。赤黒い蠍の尾の先が容赦なく襲う。
「危ない!」
息を飲んで叫んだ少女の目の前で獣人は左腕を差し出し、その手で蠍の尾を受けた。そして巻き込むようにして腕で尾を固定し、剣の刃で尾を叩き斬る。
「心を乱すな!」
獣人の厳しい言葉に少女は唇を噛み締めた。
なにをすればいい?
この状況で戦闘を優勢にするにはどうすれば──。
風がうねって羽ばたきの音がする。
まずい。
空に逃げられては手が出せない!
「っ!至近距離なら!」
少女は足を踏みだしたがぬかるみに取られバランスを崩した。それでも次の足を出して獣人の横を擦り抜ける。無我夢中で印を結びながらマナと魔力を込めた。古代語詠唱も何度も反復した初歩魔法ならば短い上に無心でも間違えない自信がある。
魔法に一番必要なのは心の力。
それは辛い修行を乗り越えたという自負。
敵が強かったり、戦況を打破する為には強力な魔法の方が効果的なような気がする。頼ってしまう。
でもそれはきっと違うはずだ。
初歩の魔法も使いようによっては効果がある。
だから――。
たとえ小さな力でも、与えられる打撃が低くても。
少女は打ち下ろされる蝙蝠の羽に手を伸ばす。薄い皮膜のその羽に向かって「“飛べ!雷光!”」短く命じられた魔法の雷は白く輝く矢となって掌から飛んでいく。
矢は膜を貫いて小さいながらも穴を開ける。勢い余った少女の身体は前のめりに倒れながらマンティコアの羽にぶつかった。柔らかく、弾力のある羽に激しく打ち下ろされ揉みくちゃにされる。
必死でしがみ付いているとマンティコアの浮いている身体が右側に傾ぐ。少女が掴まっているのは左側なので右の方にいるドワーフが攻撃をしたのだろう。
揺さぶられながらなんとか集中力を維持して、いつもより雑に片手で印をきり呪文を詠唱する。気がつけば杖も持っていないし、幾つか動作をすっ飛ばしたが重要な個所では無いので強引に魔法を完成させた。
「もう一度!“雷光!”」
不完全な部分を補うために少女の魔力は通常より多く奪われる。それでも魔法の矢は輝いて複数の穴を開けることに成功した。
少女は満足して手を離したが、マンティコアは暴れているので羽に弾き飛ばされ地面に背中から転がり落ちる。べちゃりと嫌な音がしたが戦闘時にいつまでも倒れていては命が危ない。
両手をついて立ち上がり剣を抜こうとしたが、獣人の一閃した長剣に首を斬りつけられてマンティコアは咆哮を上げながら倒れ伏した。
「お、のれ。再び世界を、闇が覆いしその日を……我が目で見ること叶わぬとは、無念」
「そのような日などこない。安心して死ね」
獣人は剣先を下にして目の高さで構えた。刃から滴る赤い血が雨と一緒に流れ落ち、脂のてらてらとした輝きだけが残っている。
マンティコアが喉をならして笑う。
「これは始まりにすぎぬ……。地を這う者達に安息の日など最早ない」
「言いたいことはそれだけか?」
「怯え、畏怖せよ。闇の前に跪け。命乞いをしたとて聞き入れてはもらえぬがな」
ふはははと高笑いをしているマンティコアの頭上に獣人は躊躇いも無く剣を勢いよく突き下ろした。笑い声が途絶え、嫌な沈黙が落ちる。
雨は更に激しく降り始め、少女の汚れたマントと服も洗い流された。
「そういえば、大丈夫なんですか!?」
マンティコアの毒は猛毒だ。
獣人は左腕でその蠍の尾を受けたはず。
「隣のブロックに神官がいた。解毒を頼めば問題ない」
「そんな簡単に」
「それまで保つのかの?」
ドワーフも心配顔だが、獣人の顔はいつものように表情が解り辛い。青くなった小人が「俺っちが行って連れてくる!」と慌てて神官のいるパーティの元へと向かおうと草叢に駆け込んだ後で悲鳴が聞こえた。
「どうした!」
獣人が抜身の剣を持ったまま叫んで小人を追う。少女も杖を拾い、ドワーフも遅れまいと走った。
「うわっ!待ってくれ!俺だ!殺さないでくれ!」
「お前……」
獣人が拍子抜けしたような声で呟き、少女は草叢の奥から聞こえてきたのが弟弟子の物だと解りほっとする反面嫌な予感もしていた。
剣の閃く光しか見えない程速い攻撃をすると解っている青年は必死で両手を挙げて敵意が無いことを報せ、草叢から出てくる。被っていたはずのフードは脱げ、オレンジ色の髪は雨で濡れて横顔に張り付いていた。茶色の瞳は少女を見つけるとひどく揺らいで、男っぽい唇が「すまん」と動く。
今回青年と先生は別のパーティを組んで森へと入っていた。少女たちの担当するブロックから三つは離れているので何かが無ければ顔を合わせることは無い。
つまり何かがあったということだ。
「まさか、先生になにか――!」
「大丈夫だ。怪我はしたが、命に別状は無い。今は後方へ下がって、落ち着き次第学校へ運ばれるから」
「後方に……落ち着いたら」
つまり直ぐには長距離を動かせない容体であると。
「なにが出た?」
「……ワイバーンだ」
「なんと!」
「マンティコアにワイバーン。どれも滅多に現れない希少モンスターだよー……」
いつも陽気で大きな小人の声も小さくなる。
「一体どうなっとるんじゃ。この森は」
戦いを好むドワーフでも流石に困惑して首を振った。
青年は硬い表情のまま「俺達は中央にある湖の傍まで行った。そこからモンスターが湧いているのを見つけて、一旦引こうとしたんだ」そこをワイバーンに襲われたのだと説明した。
先生と青年がいたパーティは長年パーティを組んでいる冒険者について行っていた。優秀で経験のあるパーティだったからこそ湖まで到達し、そして一番強いモンスターと遭遇することになったのだ。
「モンスターを退治することは不可能だと判断したらしい。全員学校まで退却命令が出た」
「退いてどうする?」
「巨大な結界で封じ込めをするらしい」
「封じ込め、できるとは」
街よりも大きな森全部を結界で封じることは難しい。何人もの魔法使いが必要で、そしてその為の準備や打ち合わせもいる。
「どうやってするの?」
この場で答えられる者など居ない。冒険者達は魔法の知識も無く、そして青年はまだ見習いになりたてだ。一番魔法を熟知しているのは少女なのに、その自分が困惑し狼狽えている。
「後方臨時本部で詳しい説明があるらしいから、そこまで一旦退いてくれ」
青年の言葉に全員が動き出す。後ろから襲われないように殿は獣人が護り、先頭をドワーフと青年が務める。
少女はふと思い出して振り返り「後方に着いたら、解毒ちゃんとしてもらってくださいね?」と念を押すと獣人が牙を見せて笑い解っていると答えたので、少しだけ安心して後は前を向いて歩いた。




