特別講師による補習授業
女は同じ師の元で学んだ男から要請を受けて山を登っている。知的で整った顔の男だったが、のめり込む性格で異性よりも魔法への興味だけで生きているような人間だった。
同時期に弟子入りした者たちの中に自分以外に女はいなかったが、兄弟子の中に成人した美しい女性がおり弟弟子として可愛い女子や真面目な少女も入って来たが見向きもしなかったのを覚えている。
最初は男の見目麗しい容姿に期待した兄弟子も、憧れの瞳を向けていた弟弟子達も相手にされずに諦めて自分のやるべき事へ専念していった。
魔法と研究だけが己の価値で、導いてくれる師だけが道標。
そんな尊敬する師の言葉すら時に聞く耳持たず没頭する男の目はぎらぎらとしていて、静かな人物なのだと思っていたら実は恐ろしく貪欲なのだと気づき秘かに背筋を震わせていた。
こんな男と色恋沙汰になれば碌なことにならない。
魔法使いとしては沢山ある系統の中でどれが得意というよりも満遍なく扱える優秀さと、執念とでもいう様な勤勉さが男の能力をどんとん高めて行くのを見ていると「ああ、自分には魔法はむいていないのだ」と早々と諦めることができた。
弟弟子の面倒を見て助言を与えたり、指導していると「解りやすい」と評判が良くそれを見た師が「お前には指導の能力があるから」魔法学校の講師になってみてはどうかと勧めてくれたので有難く引き際を間違えずに済んだ。
あの男はきっと一生孤独に身を置いて、研究と魔法の為に生きて行くのだろう。
別れ際に挨拶しに行くと男はやはり机に齧りつき沢山の書籍と資料を読み漁りながら「まあ、頑張って」などと適当に言葉を返してきた。
友人としては男に感極まった涙の別れを望んではいないが、少しぐらいは惜しんでくれてもいいだろうと憤慨しながら「じゃあね」と出て行こうとしたら呼び止められ「餞別」と評して渡された魔力が蓄積された魔晶石を渡されたのでそれで納得させた。
男が他者に気を使わない事を知っているので、魔晶石をくれただけでも上々だ。
少しは友と思ってくれていたのだと解ったことは、竜の巣穴から一欠けらの魔法道具を見つけ出すほどの成果であり奇跡である。
そんな男が弟子を取ったのは二年前。
女が男に魔法学校入学希望者の受験面接を頼んだことが契機だったので、あながち無関係とは言い難い。
受験に来ていた当時六歳だった少女と女は未だ面識が無い。
「いつかは力を借りるかもしれない」と言っていたが、あれから男と連絡を取っていないし、女も学校での生徒指導で忙しかったので時間を取れなかった。
今は丁度長期休暇中で、比較的暇を見つけて出て来られる時期を見計らって男はあの時の約束を持ち出してきた。
女の仕事の都合を思いやれるような人間になったのだと驚くと共に、教えるという行為が指導する側も成長させてくれる物なのだと身を持って経験しているので当然だろうとも納得する。
魔法学校は成績優秀な者にしか休暇を与えず、殆どの生徒が補習と称して毎日勉学に励まざるを得ないので講師側ものんびり休んでいられないのが現状だが……。
息の上がった呼吸を整える為に立ち止まり女は進む先を窺う。
山道は急勾配を避けて蛇行しながら緩やかな登り道を作っているが、その分距離が長くなり朝方早く男の山小屋へと続くこの道へと入ったが太陽は随分高くなってきている。
やはり魔法で小屋へ直接訪ねた方がよかったかもしれないと後悔していると前方から女の子が慣れた様子で降りてきて、女に気付くとにこりと微笑んで会釈し駆け寄ってきた。
「どうぞ」
斜め掛けした水袋を下して差し出してくれた少女は茶色の髪を揺らして名乗り、今日はよろしくお願いしますと深々と頭を下げる。
女は水袋の中に入っていた薄めた葡萄酒を喉に流し込みながら観察した。
小さな顔に輝くすみれ色の瞳は不躾にならないようにしながらも、女の挙動を見ながら失礼が無いようにと心を配っているのが解る。慎ましやかな鼻と可愛らしい唇を包む輪郭は丸く幼いのに、その配慮の仕方が子供らしくない。
色白では無い肌は日に焼けて健康そうな少女は呼吸が治まった女の様子を見て「あともう一息なので」と励まして先導するように歩き始めた。
流石にあの男が育てただけはある。
言葉を選びながらゆっくりと喋る少女はまるで小さな大人のような感じだ。同じ年に入学してきた自分の生徒達の言葉遣いの悪さや粗忽さを思えば、まだまだ指導を強化せねばならないと反省すること頻り。
それともこの少女が特殊なのか、男の指導が厳しいのか。
少女の足元を見ながら足を置く位置、歩きやすい場所を確認しながら歩く方が楽で残りはそう苦も無く歩き切った。
見えてきた山小屋は小さいながらも、地下に魔法が施された部屋がある本格的な建物だ。魔法と研究に没頭してきたはずの男からは想像もできないが、ちゃんと手入れされ所々痛んだ箇所は丁寧に補修もされている。
意外でもあるが人よりも物である本や魔法道具を大切にする男の性質を思い出して、研究するための大切な場所だけに細心の注意を払っているのだろうと苦笑した。
「君が山登りを楽しむような女性だとは思ってなかったから驚いたけど、ようこそ。山奥の我が家へ」
出迎えた男は魔法を使って来なかったことを後悔しているのを解った上で笑いながら揶揄する。その声や調子が柔らかなので嫌味たらしく聞こええないのが救いだが、言われた方はやはり面白くは無い。
「貴方がこんな山奥に住んでいるなんて知らなかったからよ」
口を曲げて反撃すると「次は魔法を使ってどうぞ」と軽く返された。その言葉に眉を跳ね上げて睨む。
「ちょっと、次もあるの?」
「今日の指導次第でね」
事も無げに女の教え方によっては次も来てもらうと仄めかされては堪った物ではない。魔法学校の講師は研究と己の魔法力向上に時間を取られない分、生徒指導案、授業案、課外授業、時間割の編成、試験作成とやる事は山ほどある。
「あたしそんなに暇じゃないんだけど?」
険を含んだ声に悄然と少女が俯いて謝罪する。
「すみません。努力します」
「え?いや、別に責めてるわけじゃないんだけどねー……。うん。努力はしてくれると助かるわ」
申し訳なさそうに謝られて戸惑いながら女は横目で男を窺うと、弟子の背中を押して「先に下で待ちなさい」と地下室へと促した。
「卑怯じゃない」
「なにが?」
「あの子に謝らせるなんて」
くすくす笑いながら男はわざとらしく肩を竦めて「私がそうしなさいと言い含めていたわけじゃない。あれは弟子が自主的にしたことだからね」と悪びれもしない。
「しかもどんな意図があってあんな風に育ててるのか聞いてもいい?」
「あんな風……とは?」
眉を寄せて怪訝そうな顔をするので自覚は無いようだ。
ため息を吐いて女は額を押えて「あれでは小さな大人よ」と責める。
「私はあの子を子供として見ていないからね。ひとりの人間として接しているから自然とそうなってしまうのかもしれない」
「そんな!あの子はまだ八歳で、十分子供だわ。勉強よりもお菓子が好きで、遊ぶことと親に甘えることを求める時期でしょ」
「それを魔法学校に子供達を閉じ込めて、親からも世俗からも隔離している君が言うとは。青天の霹靂だね」
「でも学校には甘いお菓子も遊びもあるわ」
男が少女を大人として扱う事が正しいとは思えない。子供らしく幼少期を過ごせるかどうかは人格形成に影響を及ぼす。過度の期待や指導は圧力となり子供の可能性を潰してしまう。それは学長の考えでもあり、女も支持している意見でもある。だからこそ魔法漬けの学校の中でも生徒達が楽しみを見出せるような授業を心がけ、遊びの中から学ばせる等工夫を凝らす。
このまま少女が育ってしまえばどんな大人になってしまうのか……。
「あの子を教えてみれば君にも解るさ。あの子がそんな物を望んでなどいない事をね」
責める女にそれは杞憂に過ぎないと請け合うと地下へと続く扉を開けて男は微笑んだ。その顔をしっかりと睨みつけてから石段へ足を乗せて下りて行く。背後で扉の閉まる音がしたが、男の気配はその向こうに消えたのでここからは少女と二人きりにするらしい。
放任主義なのか、弟子を信頼しているのか。
女の腕を買ってくれている訳では無いだろう。
石造りの地下はひんやりとしていて、ここまで歩いてきて火照った身体には心地が良い。湿気は無く薬草の干した匂いと、書物の匂いが混じりあっていてどこか師匠の部屋を思い出させた。
懐古の想いにかられていると少女が部屋の中央で緊張したまま女を待っていた。
増強の魔法と圧縮の魔法がかけられた修行の為の部屋には何も無く、ただ広い空間が広がっていた。
階段を下りた直ぐ脇に両開きの大きな扉があるがそこには頑丈な鍵と、魔法の二重で施錠されているのでそこが男の研究室なのだと解る。
「さてと、今日はなにをするか聞いてる?」
尋ねると顎を動かして頷き「魔法のスペルを読み解く方法を教えてもらえると先生から聞いています」と淀みなく答えた。これが魔法学校の生徒ならば「魔法のスペルについて学ぶんですよね?」とこちらに阿る様な言い方になるだろう。
なんだかそわそわと落ち着かない。
無性に自分の生徒達が可愛く思えてきて、目の前の少女が不憫に映る。
「今はどの辺りの勉強をしているの?」
「それは……」
初めて少女が口籠った。目を伏せて引き結んだ唇の所為で頬が強張っている。どうしたのかと思っていたら「修行内容は他言してはいけないと先生に言われているので」と困惑気味に呟いた。
教えを乞う相手に問われた事を答えられないのはどうなのだろうか、という戸惑いを見せつつもそれ以上の発言を拒んでいるのはやはり気味が悪い。
「ま、いいわ。余計なことは聞くな、するなってことでしょうから。あたしは頼まれた内容を指導して、貴女の手助けをすればあの人は満足するんでしょうし」
「…………すみません。融通きかなくて」
落ち込んでいる様子に女は目を丸くする。
八歳の子供が「融通」という言葉を口にする時点で間違っていた。つまり日常的に男はその言葉を使い、その意味を知って遣い所も認識した上で少女は使用している。普通は子供に対して大人は言葉を選び、解り易く誤解の無い様に慎重に話すが男は驚いたことにそれすらも怠っているようだ。
「あいつ……」
訴えた所で男は少女自身が理解し、問題なくそれを使っているのだから些末な事だと一蹴してしまうだろう。
こんな気持ちの悪い師弟関係を見ているのは我慢がならない。
だからこそ早く終わらせて帰らせてもらう。
「始めましょうか」
気を取り直して懐から黒い天鵞絨の布を取り出して床に広げる。これは古代遺跡から発掘された貴重な魔法道具で二枚一組の道具だ。片方に物を入れて包んでおけば、もう片方を広げて魔法の言葉を唱えればどんなに遠くにあったとしても瞬時にその布の上に包んでいた物を移動させることができる。
包めなければ上手く移動させることができないのが難点だが、逆に包めさえすればなんでも布の上に転移できるという便利な道具だ。
「“距離よ縮め、空間を超えよ”」
布の上で杖を横に払えば何も無かったはずの布の上に様々な魔法道具が現れる。水晶の玉や指輪、短剣、洋灯、本、ローブ、羽ペン。
どれも魔法がかけられた道具達。
古い物から最近作られた物まであるが、少女の力でも読み取れるだろう物を厳選して選んできた。
興味津々で眺めている少女の視線は一番最初に広げた布に向いていたが、この道具のスペルを読み解くのは難しいのだと忠告すると「昔の魔法は偉大なんですね」と素直に頷いて畳まれた紺色のローブに手を伸ばした。
「とても古い……。どんな人が着ていたんだろう」
古代の魔法使いに思いを馳せて少女が独り呟く。
「ほら。進めるよ」
「あ、はい」
手触りを確かめていた手を慌てて引き戻し、少女は腰を上げると女に向き直る。真っ直ぐ見つめてくる視線を受けて逃げる事の出来ぬ恐怖に戦慄した。
学校の授業では講師ひとりに対して生徒が三十人程。三十人の視線に晒されることになるが、それは同時に女が三十人に注意を向けることによって意識を拡散できることでもある。
一対一の授業では互いに向き合うしか無く、上手く躱して逃げることは出来ないのだと思い知らされた。
しかもこの瞳の真摯さ。
純粋さ。
もし間違ったことを教えてしまったらと思うと恐ろしくて迂闊な事を言えない。
こんな苦痛に耐えながら師も男も弟子を育てていたのか。
「魔法を発動させるためには源であるマナと古代語を結び付け、そこに自分の魔力を籠める事が必要なの。発動した魔法には古代語のスペルが刻まれていて、それを読み解けばどんな魔法がかけられたのかを知る事ができるわ」
女は羽ペンを取り上げて、その白い羽根の部分を指で撫でた。
「これは書いた文字が消えて、呪文を唱えれば浮かび上がってくる魔法がかけられてるの。どんなスペルが隠れているか探してみましょう」
差し出すと少女は両手で受け取り感触を確かめるように指先を動かす。羽の縁、真ん中の芯、ペン先。少女が的確に魔法がかけられた部分である先端を押えて顔を上げた。
「そうね。そこにスペルがある。読み取る時は集中して、ばらばらに散らばった古代語の断片を繋ぎ合わせて導くのよ」
先ずはやって見せる。手を翳して一点に集中し、浮かび上がってくるマナと結合したスペルを拾い上げた。
「“消失”“発現”“秘密”“文字”」
「……“文字よ現れろ。秘密を囁け”」
女が読み上げたスペルから少女が発動の為の呪文を言い当てる。そこに得意げな様子は無く、ただ無意識に手にしたペンから感じた事を口にしたようだ。
「そうよ。上手ね」
「ああ……すみません」
恐縮して少女は口を噤む。余計な事をして女が機嫌を損ねはしないかと怯えている姿は痛々しく見ていて辛い。
「呑み込みが早くて助かるわ。じゃあ次」
本を手渡して今度は自分だけでやらせると、簡単に読み解いて文章の中に隠されていた眠りの呪文を見つけ出した。次の指輪も雷を呼ぶ魔法がかけられているのに気付き、洋灯からは灯りの呪文を、短剣からは毒の魔法が付与されているのを、水晶には魔力増強の魔法がかけられているのもあっさりと見抜く。
「あたしが教える必要はないくらいよ。なんの為にここまで来たのかしらね」
「いいえ。とても丁寧にマナと古代語を分けてスペルを組み上げるやり方が参考になるはずだからと先生が言っていた通りでした」
「あの人が?」
そんな事を言うとは信じ難い。
「私は細かい作業が苦手で……針に糸を通すのもできないぐらいなんです。きっちり出来上がった魔法のスペルを読み解くためにマナと古語を上手く分けるのも下手くそで。それを見かねて良い先生がいるからと呼んでもらったんです」
成程。
既にスペルを読み解く方法を教わっていたから少女は簡単にできたのだ。それを読み取るためのコツを目の前で見せて教えてやってほしいという事だったらしい。
小さな大人だと思っていたら針の穴に糸を通すのが苦手な可愛らしい一面があったとは。女は微笑んでローブを持ち、少女に最後の課題を与える。
「これは今までの物よりちょっと複雑で難しいわよ。焦らずにやってみなさい」
「はい」
神妙な顔で少女は受け取り目を閉じた。
ふわりと白い粒子が舞う。
瞬いて消え、直ぐにまたマナが光りの粒になって少女の周りを漂った。
ああ、この子はマナに好かれているのだ。
人は自分の事は見えない。だから少女自身は自覚は無いだろうが、集中を高める度にマナが引き寄せられ輝いているのはその証拠。
少女が子供扱いを望んでいるかどうかは解らないが、熱心に魔法へと傾ける情熱と吸収しようとする意欲は教える者の心を擽って止まないだろう。
喜び。
あの男が他の人間に己の知識と力を教え、育てる喜びを見出しているのは相手が少女だからかもしれない。
「“遮断”“光”“影”“気配”“音”“風”“質量”“熱”……ですか?」
「惜しい。“自我”“心”を見落としてる。つまり?」
どんな魔法がかけられているのか考えさせるが少女は中々答えを見つけられない。
「攻撃を全て無にするローブ……だとしたら、“自我”と“心”が」
「そうね。当てはまらないわ。これは姿隠しの魔法がかけられてるのよ」
「姿隠し……?」
「全てを遮断することで透明人間になれるローブなの」
「どこにでも入って行けるってことですか。誰にも見つからず、気付かれず」
「悪用されかねない古代の魔法道具だわ」
懸念を隠しもせずに少女はぼんやりと手の中のローブを見下ろした。便利だがそれを使用する人によってその価値が変化してしまう危うい道具。
「普通にそんな魔法を作り出して使用していたんでしょうか?古代の人達は」
「かもしれないわね。今では失われた魔法よ」
魔法は万能ではない。
それは昔から変わらない理だ。
だから奢ってはならない。
「扱い方を間違わないようにすることが大切なのよ」
「はい」
「よろしい。それじゃあ授業はここまで。貴女はきっと素晴らしい魔法使いになれるわ」
だから諦めちゃだめよと励ますと少女は少しだけ浮かない顔で頷いて「ありがとうございました」と頭を下げた。




