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雪路


 短く息を吐き出すと白い糸状の靄へと姿を変える。深々と降る綿雪は髪に肩にと惜しみなく積もって行く。肩越しに自分の来た道を振り返って見たが、雪の壁に遮られてよくは見えなかった。歩いてきた足跡さえも次々と降り続く雪に掻き消されていて更に不安感を煽る。

 ずっと森の中を歩いていたがあまりの寒さに思考力が低下しているのか、自分がどこへ行こうとしていたのかも判然としない。どれほどの時間が過ぎたのかさえも解らなかった。

「……変だな」

 確か歩き出した頃には雪など降っていなかったはずだ。それがいつの間にか歩くのも困難なほどに積もっている。

 自分の記憶に自信が持てない。

 首を傾げつつもゆっくりと先へ進む。

 とても静かだった。聞こえる音は白い衣装を纏った木々が重さに耐えられなくなって枝の上の雪をドサリと落す音と、雪の降り積もる音だけ。忍び寄る寒さと孤独と喪失感はどこか遠い所から届けられるのか、とても現実のものとは思えなかった。

「まるで夢……」

 空を仰いでも暗い雲とそこから湧いて落ちてくる白い結晶が視界を覆う。他には何も見えない。月とは言わないまでも星のひとつでも見えていればまだ希望が見えるだろうに。

「……あかり?」

 ため息の後に視線を戻すと雪の向こうに暖かそうな灯りが見えた。

 橙色の灯り。 

 不安だった心が一瞬で緩む。必死で重い足を動かして進んで行くと次第に木が無くなり拓けた場所に出た。

 足跡ひとつない広場にぽつんと小屋が建っている。白く盛り上がった屋根の上に突き出た煙突から煙が上がっていた。外気と内気の気温の差で曇っている硝子窓の向こうから確かに暖かな光が漏れていた。

 そして人影。

「すみません!」

 雪を跳ね上げて広場を突っ切り扉に縋りつくようにして叩いた。早く中に入れて欲しかった。酷く寒い。そしてとても寂しいのだ。

「はい」

 返事の後に扉が細く開けられた。中から暖かな空気が流れだし、一緒に美味しそうな匂いも外へと出てきた。腹が急に減ってきてごくりと唾液を飲み込む。

「どうしたんですか?こんな夜に」

 もう一度声をかけられてやっと自分よりもずっと下の方から声が聞こえていることに気付いた。見下ろすと小さな女の子が心配そうに見上げている。

 まだ十歳ぐらいの女の子。寒いのか体を縮めて扉に隠れている。

「……道に迷ったみたいで」

 中に入れて貰えないだろうかと尋ねると少女は小さく微笑んだ。そして扉を大きく開けてくれた。

「それは大変だったでしょう?どうぞ中へ」

「どうも」

 頭を下げながら中へ入る。

 部屋に入って正面に暖炉があり、その前に二人掛け用のソファがあった。その上で気持ち良さそうに黒い猫が寝ている。暖炉の横にはドアがひとつ。

 後ろ手に扉を閉めて右の方を見ると少女がテーブルの上に食事を用意していた。扉と同じ並びに小さな窓とキッチン。壁に食器棚。そして少し小さめの四人用のテーブル。

「こんな物しかないですけど」

 わざわざ椅子を引いてくれたのでそこに急いで座った。目の前に温かいスープとパンがある。スプーンを使うのがもどかしくて皿を抱えて直接口を付けた。

 寒さで凍っていた舌がゆっくりと溶け出す。食道を通って胃の中へ納まる頃にはじわじわと体も暖まっていた。

「どうぞ」

 少女がチーズを切って出してくれた。その慣れた手つきに感心する。まだ十歳ぐらいの子が客を持て成している。普通なら大人がすぐに出て来るはずだがそんな様子も無い。

「ここには君ひとりで?」

 そんな疑問が湧いてもおかしくは無いほど少女は落ち着き、突然の訪問者にも慣れているようだった。だが少女は満面の笑みで「まさか」と首を振る。そして暖炉の前のソファに移動した。

「先生と一緒に」

 優しく眠っている猫の頭を撫でて床に座る。

「あの……先生って?」

 パンを飲み込んで聞くと少女が人差し指を一本立てて暖炉へと向けた。軽くウィンクするように片目を細めて小さく言葉を紡ぐ。

 すいっと指を上へ動かすとその動きの通りに炎が揺れる。右へ動かすと右へ、左へ向けると左へ。

「炎が……」

 驚いていると楽しそうに少女は指をゆっくりと動かしてこちらへと向けた。指に誘われるように炎が暖炉から飛び出す。空中をふわふわと炎が泳ぎ、暖炉の中から鼻先へ手を伸ばす。

「うわあっ!」

 恐くて叫ぶのがやっとだった。ふっと目の前まで来ていた炎が姿を消す。暖炉を見ると変わりなく炎が揺れていた。

 パチッと薪の爆ぜる音が響いて少女がクスクスと笑った。

「お客様かい?」

 暖炉横のドアが音も無くすっと開いて中から男が現れた。

 若い男だった。

 男と呼ぶよりも青年といった方が良さそうなぐらい若い。だが身に纏う雰囲気は落ち着いていて理知的な顔立ちが実年齢より上に見せているかもしれない。

 これが先生……。

「道に迷ったらしくて」

 少女が膝を抱える格好で男を振り返った。男は何も言わずにただ頷いてテーブルの方へ歩いてきた。向かいの席に腰をおろし柔和な笑みを浮かべる。

「外は寒かったでしょう?」

「はい。指の感覚も無くなるぐらいですよ」

 自分の手を見下ろして苦笑する。今もまだ少し違和感が残っていた。それほどの寒さだった。

「どうかしましたか?」

 問うと男は少し困った顔でう~んと唸り、腕を組んでこちらを見ては眉を寄せて首を捻る。それが気になって仕方がない。なにか言いたいことがあるのならはっきり言ってくれればいいのに……。

「何なんですか?」

 もう一度尋ねると男が頭を掻きながら言いにくそうに口を開いた。その瞬間に少女が短く息を飲む。

「大変言いにくいんですが、貴方は特殊な病気に罹っている可能性があります」

「病気?」

 そんなはずはない。どこも痛くないし、具合も悪くない。食欲もある。病気である可能性などどこにあるというのだろう。

「まさか!こんなに元気なのに」

 笑い飛ばそうとすると男はそっとため息を吐いて、指を組んだ両手をテーブルの上に乗せてじっとこちらを見つめた。

「だから特殊な病気だと申し上げたのです」

「特殊?」

 男の真剣な瞳に急に怖くなる。世の中解らないことや不思議なことが山ほど存在する。魔法や奇跡、悪魔や呪い。その他諸々。理解しがたいものも沢山ある。

 だから症状も無い病気があっても何の不思議も無いのだ。

「まだ病気と決まったわけでは」

 恐怖を振り払おうと口にした言葉に、男は悲しそうな顔で頭を振る。

「残念ですが貴方は間違いなく病気に蝕まれています」

「何故!」

 そうと言い切れる。責めても男はただ静かに首を傾げて再度「残念です」と」呟いた。

「……証拠が無い」

 この男は自分を陥れようとしているのではないか。もしかしたら病気だと信じ込ませて落胆させ殺そうとしているのかもしれない。もしくは魔法でぱぱっと治したふりをして多額の治療費を請求するつもりなのか。

「私は貴方を陥れるつもりも、治療費を請求するつもりもありませんよ。ただ貴方を救いたいだけです」

「嘘だ!では何の病気か言ってみろ」

 問い詰めると男が強い瞳でしっかりと見返してきた。そしてきゅっと組んでいる手を握りしめた。

「貴方は一週間近くも雪山にいたはずです。今この山には特殊な霊気が漲っていて四日も外にいると強力な力の影響を身体にではなく魂に受けてしまう。貴方はどれほど外にいました?覚えていますか?」

「それは……」

「この病気は記憶が曖昧になるのが特徴です。そして次に時間の感覚が無くなり、身体の自由も失う。失礼ですが貴方のお名前を教えていただけますか?」

 すぐには答えられなかった。

 自分がいつから外にいたのか、どこへ行くつもりだったのか、すでに記憶も時間の感覚も曖昧だったからだ。

 そして驚いたことに自分の名前すらも、家の場所すらも思い出せない。もちろん家族のこともだ。

「……死んだりしないですよね?」

 恐る恐る口にすると少女が唇を噛んで俯いたのが目の端に写った。男はゆっくりと目を伏せると「このままでは残念ですが」と答える。

「助かる道は?」

「あります」

 死ぬのかと気が萎え始めていたが男がきっぱりと助かる可能性もあると口にした途端、すぐにむくりと希望が芽生えた。

 少女がすっと立ち上がり壁にかけていたマントを羽織る。そしてその傍らに立てかけていた木製の杖を手に持ち彼女が先生と呼ぶ男の横に立った。

「下山して麓の村医者に診てもらってください」

「そんな……今から?」

 ずっと歩き通しで疲れているのにまた歩くのかと思うと背筋が凍る。あんな寒い中を下山するなど考えたくも無い。やっと人に出会い、暖かで安全な部屋で過ごせると思っていたのに。

「一刻を争います。いいね?くれぐれも道を見失わないように」

「はい。先生」

「ちょっと!」

 人の気も知らないで男と少女は扉の前へと移動する。少し腹を立てながら腰を浮かせると男が「朝が来る前に下山しないと手遅れになりますよ」とぴしゃりと言い放った。そう言われれば従うしかない。

 渋々立ち上がると少女が笑顔で「大丈夫ですよ」と励ましてくれた。

「急ぎましょう」

 少女は取っ手を握り心を奮い立たせるためかぎゅっと唇を噛んだ。その唇が震えている。よく見ると指も肩も震えていた。

 特殊な霊気が満ちている外へ出るのが怖いのだろう。十歳ほどの幼い少女だ。きっと自分より恐怖を感じているだろうに……。

「行こう」

「はい」

 心を決めて言うと少女は強く頷いて扉を開けた。その背中に男が「気を付けて」と声をかけた。その言葉を胸に刻みつけて外へと出た。


 不思議なほど穏やかだった。

 ついさっきまで降っていた雪が止んで冷たい風もぴたりと止まっていた。空を見上げると厚い雲の切れ間から時折星と夜空が見える。

 ぼんやりと見とれていると少女が声をかけてきた。

「こっちですよ」

 顔を向けると少し離れた場所で手を振っていた。小さな足跡が雪の上に残っている。その足跡を辿るようにして少女を追う。雪は少女の臑の中程まで飲み込んでしまうほど積もっている。深い所では膝の上までくる場所もあった。そんな中を迷うことなく進んで行く。

「ちゃんとついて来てくださいね?はぐれたらまた迷っちゃいますよ」

 肩越しに振り返り口元を綻ばせて少女が笑う。またという言葉に身震いして慌てて少女の背中を追い、すぐ後ろを歩く。こんな所ではぐれたら元の場所へ戻ることも、少女を探すこともできない。もう独りにはなりたくなかった。

「迷う人は多いの?」

 折角ひとりではないので会話をしようと質問すると少女は小さく頷いて杖を持っている手を前に翳した。そして足を止めて短い言葉をそっと呟く。すると杖の先端がぽうっと輝きだし辺りを明るく照らした。

 何故立ち止まったのかという疑問が浮かんでいるのに気付いたのだろう。少女が視線で先を見るようにと促す。首を伸ばして先を覗き込むと少女の二、三歩先には道は無く、ぽっかりと暗い巨大な穴が口を開いていた。

「が……崖?」

 魔法の光さえも底を照らすことができないほどの深さがある。剥き出しの岩肌の所々に木が根をを張り、その上に白い雪が覆っている。下は川なのだろうか。轟々と水の流れる音が響いてきた。

「迷ってこの下へ落ちてしまう方も多いんです」

「そうなの……」

 川からの冷気と風が上の方へと上がってくる、すごい重圧に足がガクガクと震えた。

「急ぎましょう」

 崖を左手に見ながら少女はまた足を動かす。慣れた足取りで進んで行く後ろ姿をはぐれないようについていくのがやっとだった。十歳の少女の速さではない。こっちの息が上がってしまう。

「少し……休憩しない?」

 大きく息を吸い込んでから提案すると、少女は振り返りもせずに首を横に振った。

「思っていたよりも時間が経っています。急がないと間に合わないですよ?」

「でも、少しくらいなら……」

「……死にたいんですか?」

 そう言われると返す言葉が無い。

 誰だって死にたくはない。

 だが導かれるままに歩いているとだんだん疑いの気持ちが芽生えてくる。本当に病気なのだろうか?そもそも魔法使いに病気かどうかの判断ができるのか?ちゃんと調べたわけでもない。ただ顔を見ただけで解るはずが無い。

 特殊な霊気というのもおかしい。そもそもそんな危険な外へ弟子を行かせるのか?こんな幼い子を素性の知れない男と一緒に行かせるなんて。


 騙されている!


「この間も山に入った人が行方不明になったんです」

 沈黙が嫌になったのだろう突然少女が口を開いた。猜疑心に揺れ動きながらも少女の言葉を聞き逃すまいとする。そのうちにぼろを出すかもしれない。なにが目的か調べなくてはいけない。

「この間ってどれぐらい?」

「そうですね……一か月ほど前です」

 額に浮いた汗を拭って少女が苦笑する。いくら寒くても歩いていれば体温が上昇して暑くなる。ギュッギュッと雪を踏む音がやけに大きく聞こえた。

「その人は?」

 聞くのが少し怖かった。山で遭難して助かる確率が低いのは知っている。自分が助かったのは奇跡的だ。だからその人がどうなったかは容易に想像することができた。案の定ゆっくりとこちらへと顔を向けて少女は目を伏せた。そして頭を左右に振る。

 顔の筋肉が一瞬で固まり、笑顔さえ凍った。もしかしたら自分がそうなっていたかもしれないのだ。他人事ではない。今でもちゃんと山を下りられるのか不安でたまらないのに。

「どうかしました?」

 心配そうな表情の少女になんでもないと答える。今はこの少女を信じるしかない。とても悪いことを考えるような子には見えないから。

 でも……。

「本当に……下山してるのか?」

「え?」

 少し傾斜のある所を下りかけて少女が首を傾げる。何を言っているのか解らないという顔だ。バランスを崩しかけ雪の上に手をつき見上げる少女の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 なんのメリットがある?

 道に迷った男を騙して。

 それが知りたい。

「本当に病気なのか?」

 尋ねると少女の瞳が迷うように揺れる。震える唇を噛んで恐怖を堪えていた。小屋の扉を開く前と同じ表情だ。

「何故この危険な夜の山へあの男は自分ではなく子供の君を行かせた?」

「……それは」

 ギュッと雪を握り締め、開いた唇はわなわなと緊張で揺れて上手く言葉が続かない。何と言おうかと思案している顔にも見えた。

「本当のことを教えてくれ」

 堪らずに目を反らして俯いた途端に少女は足を滑らした。雪を撒き散らし斜面を転がって行く姿を見てどうすべきか迷う。

 助けるべきか、逃げるべきか。

「くそっ!」

 舌打ちして少女が作った道を辿る。雪が腰まで覆い中々先へ進めない。用心しないと自分も足を滑らせて落ちてしまう。山は登るより下りる時の方が体力を使うし危険だ。

 しかも雪が邪魔をする。歩くより滑った方が効率はいいかもしれない。

「大丈夫か?」

 少し先に少女が俯せで倒れている。辿り着くより先に声をかけると、小さな背中がピクリと反応して手を上げて無事だと報せる。ほっと安堵して後はできるだけ慎重に下りることにした。

 やっとのことで近くまで行くと頬を赤く上気させた小さな顔を上げる。少女は今にも泣きそうな瞳で見つめてきた。そっと手を差し出すと足場が悪いからと自分で両の手を着いて起き上がる。

「怪我は?」

「……大丈夫です。私、丈夫にできてるから」

 立っている少女のどこにも怪我が無いのを確認してほっと胸を撫で下ろす。子供に怪我をさせては良心が痛む。しかも置いて逃げるなんて大の大人がすることじゃない。

 少女がさっきの話ですがと切り出す。

「疑う気持ちもあるかもしれません。でも先生も私もあなたを救いたいの」

 信じてくれる?と体の雪を払い落としながらそう尋ねた。病気かどうかははっきりと言わない。だが少女の真剣な眼に嘘は無かった。

「お願い。信じて下さい」

「……解ったよ」

 大きくため息を吐いてから頷いて見せると、少女は嬉しそうに微笑むと立ち上がった。そして空を見上げてから眉を寄せて困ったような表情をする。

「まずい……」

 空が少し明るくなりかけている。星や月はまだ輝いているがそう長くはしないうちに太陽が昇ってくるだろう。少女がなにも言わずに下り始め、それに無言でついて行く。

 まだ騙されているかもしれないという気持ちはあったが、とりあえずは少女と共に下山することにした。また独りで雪山を彷徨うのは御免だ。それになによりも助けたいと言った少女の言葉を信じたかった。

「見えた」

 少女が小さく嬉しそうに呟いた。そして指差した先には緩やかな坂の向こうに村が見えている。なん軒かの屋根の煙突から細い煙が薄暗い空に上がっていた。明らかに緊張の弛んだ少女の顔を見て自分が助かったのだと思えた。

 お礼が言いたい。

「そういえば君の名前を聞いてなかった。良ければ教えてくれないか?」

 ここまで案内してくれた少女の名を知っておきたかった。そしてあの先生と呼ばれていた男の名前も。

 少女はどうしようかと迷った顔をしてからチラリと後ろを振り返って青くなる。

「急いでっ!」

 夜が明けると叫ぶと少女は雪を蹴散らして雪の斜面を走り出す。自分も空を見上げてぞっとする。空が白み始めていた。太陽が急ぎ足で昇ってこようとしている。

「速く!急がなきゃ……」

 もう一度少女が声を張り上げてようやく足が動き出す。夢中で走る。少女のことやあの男を疑っていたこともすっかりどこかへと飛んでいってしまっていた。ただ死にたくないという気持ちで走る。

 太陽との追いかけっこ。

 久しぶりにこんなに走った気がする。雪の上を白く綺麗な光が滑って行く。光を反射してキラキラと輝くその景色は胸に染みるだろう。だがそれを振り返って見ることはできない。

「もうすぐですよ」

 少女が声を弾ませて励ます。

 木々が少なくなってきた。緩やかな下り坂を風と一緒に駆け抜ける。心地良い。不思議と恐怖心は無くなっていた。

「頑張ってもう少し」

 一足早く下り切った少女がこちらへ身体ごと向いて両手を振る。少女の笑顔がだんだん近づいてくる。桃色の頬と大きな瞳と小さな唇が喜びの表情で満たされていた。

 太陽の光がすぐ足元まで来ていた。

「大丈夫」

 少女が頷くと本当に大丈夫な気がした。右手が差し出されて自分も負けじと手を前に突き出す。

 だが二人の手は重なり合うことは無かった。

「よく頑張ったね」

「え?」

 言葉の意味が解らずに首を傾げると少女はゆっくりと空を見上げる。まだ村についていない。なのにここが終着地点だと言わんばかりだ。光が足元を通り過ぎて村の方へと走って行く。

 その時身体が痺れた。

「もう迷わないでね」

 何故か小さく手を振る少女の顔を上から見下ろしていた。そこでようやく自分が何もかも見失っていたことに気付いた。少女が言っていた一か月前の行方不明者は自分なのだ。ずっと迷って森の中を彷徨い続け、肉体から解き放たれた後も迷っていた。

 寒くて痛くて、辛く寂しかった。

 やっと安らげる。

 足を休めることができるのだ。

「ありがとう……」

 太陽の全てを浄化する光に導かれて魂は浮上する。感謝の気持ちを残し少女の優しい微笑みを刻みつけて……。


「ご苦労さま」

 村の方から男が登ってきた。少女は目に滲んだ涙を拭ってから肩越しに振り返る。彼女が先生と仰ぐ魔法使いだ。

「初仕事はなんとか上手くやれたみたいだけど」

 忘れものだよと先生は少女の杖を差し出す。あっと小さな声を上げたので落としたことすら解っていなかった。それほど必死で山を下りることに集中していたのだ。初めての仕事をなんとか上手くやろうとしていたから。

 それに救いたい気持ちが大きかった。

「魔法使いが杖を手放してはいけない。今回は無事に下山できたけれど、もし失敗していれば命を獲られる所だったよ」

 その時に必要な武器を手放すことは愚行だと静かに叱責する。

「はい……。今後は気を付けるようにします」

 しゅんと肩を落とした弟子の頭を優しく撫でて「でも」と続ける。

「よく頑張ったから次の魔法を教えようか」

「本当ですか?」

「それからこれも」

 少女の手の中に杖と銀貨を持たせる。好きな物を買いなさいと渡されたお金に目を丸くすると「こんなに貰えません」と慌てて拒否する。

「じゃあ言葉を変えようか。これは報酬だよ」

 返そうとする手をやんわりと押し止めて男は微笑む。仕事を受けるようになれば内容にはよるがもっと多くの金を貰うことができる。今回の仕事は自分が弟子に与えた。仕事というより試練という方が近い。

 仕事をして誰かを救い、それが金になり自分の生活が成り立つ。自分もまた助けられ、困っている人を助ける……ということが続いていく。お互いに助けられているのだと教えたかった。

 だから正当な報酬を払うと男は強く諭す。

「……じゃあ大事に取っておきます」

 懐にしまうと少女はにっこりと笑う。お守りにするのだ。初仕事を無事に終えて貰った初めての報酬。初心を忘れないための戒めに。

 雪に覆われた山は太陽の光の中でキラキラと輝き眩しいぐらいだ。空は水色に澄み渡り朝の清い空気が胸をいっぱいにする。

「さあ帰ろうか」

「はい」

 ゆっくりとまた山を登って行く。小屋に戻って朝食を採り、掃除をして勉強と修業が始まる。

 少女が一人前の魔法使いになるまで。


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