リスカ リスカ リスカ
1 切る
折り替えたばかりのカッターの刃先が滑らかに皮膚を切り、スラリと横に線を引いた。
私は、一度使ったカッターの刃は必ず折り替えるようにしている。衛生的なことも考えてのことだけど、前に切った記憶を新たな線で上書きするために同じ刃はでは切らない。
微かな痛みを裂いて、自分の肉が切られている感触。
溢れ出る赤い血、日本では珍しいAB型。基本貧血の私は、献血をしたことがない。
私に流れる私だけの血、私だけの赤、私だけの温度。
心臓のリズムに合わせて、ジワリジワリと迫る切り口の痛み。
口から吸った空気が意識と一緒に脳天から吐き出される。視界に黒幕が降ろされてその場に倒れた。
近づく足音、誰かの声がする。
「ねえ」
「あ、やっと起きた」
「どうしているの?」
「どうしているんでしょうね」
「出てってよ」
「せっかく包帯巻いてあげたのに」
「頼んでない。出てって」
「イヤだと言ったら?」
「私が出てく」
「先輩、なかなかいいカッターをお持ちで」
「……返して」
「でも、このままじゃ錆びちゃいますよ」
「返してよ」
「いつまでこんなこと、」
「いいから返してよ!」
「何が楽しくて自分の」
「うるさい!! 返せよ!!」
「返したらまたするでしょ?」
「……」
「睨まないでください、冗談ですよ。はいどうぞ」
「もう来ないで」
「さあ、どうでしょうね。もっとも、ココは出入り禁止の場所ですが?」
「なら、私がもう来ない」
「お好きにどうぞ」
2 深く
切ることは義務、血を流すことは習慣、傷が痛むのは目的。
人は私を見て何故切ると聞くけど、私にとっては切らないことが異常で、人は何故切らないと問いたい。不幸だから切るんじゃない。切りたいから不幸にしていることを、異常な人は理解してくれない。不幸と切ることは私の生活の一部であって、人が食事をとることと同じ。
日々増えていく証は、カサブタになる前に新しく線が引かれ、深く、より深く意味を刻んでいく。白いキャンパスに、赤い血の具で、切れ味の良い筆を使い描く絵画。直線の連なりが、次の切る目的を生む。切る快楽に沈み、血の出る理想を構成し、痛みで満足する。
昨日も切った、今日も切る、明日も切る、明後日も切る、まだずっと切る。
少しずつ意識が薄れ、膝から崩れ落ちた。
床に赤い水が溜まり、手足の痺れが全身に巡った。
力が入らない。奴の来る音がする。
「やっと目が覚めましたか」
「なぜ?」
「先輩の嫌いな後輩ちゃんでした」
「なぜ来たの?」
「先輩が来ないって言えば来ないとでも思いました?」
「返して」
「はいどうぞ。今日は消毒しておきました」
「頼んでない」
「はいはい」
「何が目的なの」
「何が目的でしょう」
「ふざけないで」
「なんて言うか、人助け?」
「助けてなんて言ってない」
「死にたくもないクセにですか」
「……」
「そんな行為したって、」
「あなたに何が分かるの?!」
「何も分かりませんよ、先輩みたいな人間のことなんて」
「ならもう構わないで!」
「かまって欲しくないなら、そのカマッテ行為やめたらどうですか?」
「何なのよ!! 私がアンタに何したって言うのよ!!」
「別に何された訳でもないですよ。この部屋に入るたびに先輩が目で訴えてくるだけです“助けて”って」
「そんなこと思ってもない!」
「だったらイイこと教えてあげますよ。縦に切ってください」
「縦?」
「血の流れる方向に沿って切るんですよ。そっちの方がたくさん出ますよ、血」
「……帰る」
「家でやりますか? またここに来てやりますか?」
「知らない」
「明日も来ますよ」
「なら私は来ない」
3 沈む
致死率が10%にも満たない。死にたい訳ではないけど、生きたくない。
私が切るのは生きる意味が無いから。でも、切ることは死ぬためじゃない。
死のうと考えたことは無い。生きる目的は無いのは分かっている。
生きるために何をした? 死ぬために何をする?
生きる価値はないけれど、死ぬ価値もない。
死ぬ価値がないのは思い込んでいるだけで、死にたくないと言う逃げ。
生きる価値がないのが分かっているのなら、私がすることは一つ。
縦に切る。薄っすらと浮き出た青灰色の線に沿って切る。刃を入れろ、切れ、深く、深く深く線を引け。今まで私が引いてきた横線に、一本だけ縦に線を引け。切れ、切れ私。切れば血が流れる。習慣を思い出せ。切れ、切れよ。止まれ震え、躊躇うな、切れば血が出る。目的は痛みなんかじゃない。切れ、切って死ね、切って血を出せ、血を出して死ね。縦、縦、縦、縦に切れ、今までの私の跡を90度傾けろ。切れ、切れよ私、私を殺せ、私で殺せ。
刃が入る
光景がスローモーションに流れ
深く深く皮膚を裂く
どんどん血が出る
痙攣、指が言うことを利かない
鎮め震え、深く線を裂け
強く刃を押さえつけろ
心臓の音、以外無音、血に溶け込む私の音
音がしない、何も音がしない
平衡感覚が崩れ、身体が大きく横に傾く
頭を打ったが、意識はあった
見える、血が見える。
何本もの横線に立った一本の縦線、それも血に溢れグニャリと傷が開いていた。赤黒い血の奥に、鮮明な赤色の肉、グロテスクな傷だ。
可笑しくなって顔が綻びた。普通に痛い、心臓の音にあわせて痛みがある。力が抜けていき、気持ちよくなってきた。これが生きる目的。私は切った。遠のいていく意識に、音は聴こえない。
全く聴こえなかった。
意識は薄れていたけれど、焦りが込み上げた
音が聴こえない 聴こえない
高い耳鳴りに、酷くゆっくりな心拍
それも徐々に下がるボリューム音
目の前で私の血が流れる
止まらない、すごい量が流れ出る
心臓の音は遅くなっているのに
目の前の映像は早送りのように流れて止まらない
止まれ、私の血
傷から私の意識が流れ出ている
手、腕、痙攣、止まれ、止まれ、血よ止まれ
このままでは消える 私が消えてなくなる
音が聴こえない 私の音も聴こえない
奴が来ない 奴は来ない 音がしない
目を大きく見開くも、視界がぼやける
私から流れ出る血しか見えない
止めろ私、流れ出る私の血を止めろ、私が消える前に
生きる必要の無い私は今、必要の無い死を告げようとする
飲み込まれていく恐怖の中、血が止まらぬ私の傷は、卑劣に歪み嗤っていた。私のことを嗤っていた。
恐怖
死ぬ目的はなかった、生きる目的もなかった。
ただ、死ぬ必要は無かった。
望んでいなかった結果に、音にならない言葉を吐く。
『誰か助けて』
誰も来ない。奴は来なかった。
私が消えてなくなる寸前、奴の口元が動く。
「なんちゃって」
『リスカ リスカ リスカ』END.




