新人類たちの休息 3
桜沢のファミレス会議を経て、さらに二日後。
「いいんですかねー、こんなに休みもらっちゃってー!!」
左右の腕でバランスを保ちながら、堤防の上を歩く。歩道を歩く先輩は、海岸線道路を走る車を目で追いながら「いいんじゃないかなー」なんてテキトーな相槌をする。
ま、今日くらいは大目に見てやろうではないか。
──明日から忙しくなるからな、その前に息抜きでもしてきたらどうだ?
全ては兵藤先生の提案から始まったイレギュラー。
ぶっ倒れた私への配慮なのか、先生は今日、講義室で待機中の私たちに外出許可をくれたのだ。美化委員になって以来初めての出来事で、一体何の裏があるのかと先輩と揃って勘繰ってしまったわけなのだが、どうやら先日の件で原稿用紙五十枚のクレームを提出した経緯ゆえの心遣いらしい。
といっても、いきなり外に放り投げられても私たちとて行き場に困る。それも先輩と仕事関係以外で外出するのは三ヶ月目にして初めてだ。
ショッピングモールで買い物でもするか、それとも目抜き通りを散策でもしようか。
……似合わなかった。神前涼太郎のイメージとあまりにもかけ離れている。私はそれらの案を言葉にするまでもなく却下した。
悩んだ挙句に、二人で適当に歩いていたら気づけば海岸沿いの国道に出ていた。桜沢北高校は海辺に居を構える学校であり、それでいて最も華やかな駅前通りにも近いという恵まれた環境である。いや、徒歩ならそこそこ時間はかかるけれど。
そして結局このまま海岸線を歩いてみよう、という結論に至った。味気ない。
ところがこの海辺の散策は、なかなか気持ちが晴れるものだ。
堤防の上からは真っ青な海が一望でき、遠くでは船の汽笛が鳴り渡る。海鳥たちは上空を自由自在に遊泳しているし、水平線は空との境目が混じり合って、まるでこの星全体が海のようだ。幻想的な景色が感動を呼ぶ。
海底には眠る都市。海のずっとずっと向こうには、海上に取り残された高層ビル群。
私は、悲惨な事故に遭っていながらも海が好きだった。
この『力』にも感謝しているのだ。半永久的に素潜りができてしまうのだから、海中散策すらお手の物。しかも装備一式が不要というお手軽ぶりで、気楽に海を満喫できる。
遥かなる海。私という個々の狭い視界でも、その広さに圧倒される。
「……あのさ、茅ヶ崎さん……」
「はーいなんでしょー?」
返事をすると、先輩はすっかり見慣れただらけた顔をこちらに向けて言う。
「その高さ、いろいろ危ないことを自覚した方がいいような……」
「簡潔に述べよ!」
「……だから、あのですね」
先輩の指が、潮風で弄ばれている……私のスカートを指差した。
「中、見えるよ」
──ショルダーバッグを先輩に投げつけた。
「セ、セクハラ反対……!!」
「照れ隠しもなるべく可愛げを演出すると効果が」
「そんなもの望んでません!! 先輩の不健全、ばか!!」
下着が見えないようにスカートを押さえてみるが、後の祭りである。
やれやれ、と降参のポーズを決めた先輩が、軽い身のこなしで堤防に上がった。「はいどうぞ」と凶器と化したバッグを投げ返され、私は熱くなった顔面をバッグに押し当てる。これで下心を丸出しにされても腹が立つけど、全然気にしてませんむしろキョーミありませんレベルでスルーされるのも、女子としてはなかなか複雑だ。
先輩が私の前を歩いている。
こうして観察すると、この人は本当に背が高い。
思えば怒涛の三ヶ月だったのだ。たくさんのゴミを海から掬い出し、ときどきは陸地で暴漢を退治してみたりして。新米の私が仕事に慣れていないのにも関わらず、この背だけは無駄に成長している男は最初から最後までやる気がなくて、働けとせっつけば事後処理くらいはどうにか捌いてくれる。それも手際良く。
一方で、平穏な職務から一転したブレインタワーの事件では、彼の能力を初めて知ることができた。その細部や仕組みまでは不明だが、先輩の強さはおそらく保安隊の勇士すら敵うかどうか危ういほどで、ド素人同然の私でさえ神前涼太郎が常識ハズレの存在だと痛感させられた。
その人柄はというと……きっと、なんだかんだで優しい人なんだと思ってしまう。
放課後はネット対戦に誘ってくれるし、ルールがわからなければ初心者でもわかるように手ほどきしてくれるし。仕事だって、私が急かしても嫌がらずに聞いてくれる。タワーでもアノマリーを引き受けてくれた。
だからこそこの奇妙な距離感がもどかしい。
……うん。なぜか、もどかしい。
先輩は絶対に他者へ踏み込まない。代わりに他者を踏み込ませない。
ブレインタワー事件の日は、『たかが三ヶ月』と納得した。けれど今、私は納得し切れない自分を自覚している。感じ取れる頑なさが、たまらなく歯痒くて。「同じMIなのに」と、心が訴えているのに。
「そろそろ夏だなぁ……」
海を遠望しながら、彼はぼやいている。
「夏は嫌いですか?」
「どっちかっつーと冬が嫌い。寒いの苦手……」
「あー……先輩はコタツにひきこもってそうですもんねえ……」
「夏の日差しも好きじゃないけどなー……溶ける……」
くすっと微笑がこぼれる。確かにこの人に、快晴は不釣合いかもしれない。
「こうしていると、事件が嘘みたいですね」
世界を埋める青い世界。通り過ぎる日常。
残酷な現実がまるで作り話のよう。
「息抜きのときくらい事件のこと忘れたらいいのに」
振り返った先輩が苦笑していた。
「そうですけど……毎週楽しみにしていたドラマの最終回を焦らされているような気分で」
「楽しみもクソもないけどな……でも、ちょっとわかる気がする」
「でしょー? 他に例えるなら……ミステリ小説で、名探偵が犯人を突き止めたところで「次巻へ続く!」と先延ばしにされて発売日まで悶々とする心地」
「あー、あるある」
……あ、ちょっと嬉しいかも。先輩、ご機嫌だ。
彼はなかなか表情に変化がない人だけど、最近になって少しはわかるようになったんですよこれでも。ゲーム中、ノーミスクリアしたときには犬の尻尾がぶんぶん激動している幻覚が見えちゃうくらいには、意外にわかりやすい。
と先生に教えたら、「それがわかるのは多分茅ヶ崎くらいのものだ」と半ば呆れられてしまったのだが一体どういう意味か。確かに、内側を人に読ませないことに長けた人だけど、今ある情報でどんな人間なのかくらい、ちょっとは考えるもんです。
あとはその遮光カーテンみたいな前髪さえなければもっといいのに。
……えっと、どうしよう。話題がない。
「そ、そういえばですね。私、ようやくテレビを買ったんですよ!」
「……い、今さら……?」
「美化委員のお給料が良いから、思い切って新型買っちゃいました! まぁ、電気代考えてそんなに使ってないけど……」
「意味ねー」
「今回の任務が終わったら少しは余裕ができますし、今度のお休みで丸一日映画鑑賞会でもしちゃおうかなって。仕事入らなきゃ、です、けど……えっと……」
うわ、だめだ。気を抜けば任務のことばかり脳裏を過ぎる。
これが職業病ってやつなのだろうか……あ、先輩がくつくつと笑っている。
「茅ヶ崎さんは、ホント根性あるから。頑張りすぎてないか心配してるんじゃない、先生」
「……え?」
突拍子もない賛辞、理解が追いつかない。
予想だにしなかった言葉の数々に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「働き者だし、俺の分まで引き受けてくれるし」
「そう思うなら少しは働いてくれても……」
「……。まぁ、そこはおいといて……」
はぐらかされた、ちくしょう。
「女の子が、血の海とか死体とか見たら、そりゃ失神して当たり前だと思うけど……さすがに二日で再起してくるのは無理があるんじゃないのって」
「だって先輩がいるじゃないですか」
言い返すと、先輩が立ち止まった。
心底驚いた様子で、ぽかん、と口を開いたまま硬直している。
「先輩だって、ああいうの嫌いなんでしょ? なのにギブしてないですよ」
「いやまぁ……俺は多少は経験があるからで」
「労働嫌いなのに、アノマリーと戦闘になったときは私を庇ってくれたじゃないですか。あのときの先輩はすごくすごく強くて、役に立てない自分がめちゃくちゃ情けなくなったけど……でも、先輩がいれば大丈夫だって確信が持てたんです」
「……あれを見て、そんなこと言えるわけ……?」
あれ、とは。
先輩の『力』のことですか。
私は少しだけ視線を海に傾けて、言葉を選ぶまでもなく告げた。
「怖くないですよ、先輩なんか」
「……!?」
もしかしてこの人は、自分が嫌いなのだろうか。
あの能力は触れた対象を確実に死に至らしめる脅威だ。勿論、長年付き合っていけば能力者は自らをコントロールできるようになるだろう。しかし万が一暴走してしまえば、接触した者を分別なく傷つけてしまう。ほんの些細なミスが命取りになる。
だから他人を傷つけないように、自分の後悔を恐れるように、人と距離を取る。
先輩は本心を明かしてくれないから単なる推察でしかないけれど。もしそうだとしたら、私は言ってやりたい。声を大にして、走行音や波で掻き消えてしまわないように。
「私、美化委員を引き受けた動機こそ不純ですけど、今は精一杯頑張ってみたいと思ってるんです。先輩だらしなくて放っておけないし、賃金高くて貯金は増えるし!
今までみたいに普通に生活してたら絶対に知る機会がなかったものまで知ってしまうのは、正直まだ怖いですよ。自分の中で納得し切れていない部分もたくさんあります」
思い出す。
ひっそり、息を潜めながら一般人として暮らしてきた数年間。
ユキハルさんの恋人を「羨ましい」と妬んでしまった自分の醜さ。
私はまだ、手放さなければならない生活や在り方を惜しんでいる。決別を先送りにしている。
半端な気持ちで取り組んだところで、きっといつかしっぺ返しが来るのだ。それこそ大怪我じゃ済まない事態も招きかねない。私たちの仕事とは、そういう危うさがある。
……だけど、
「先輩だって、自分ときちんと向き合ってるから自分のことそうやって卑下してると思うんです。なら私も、現実をあるがままに受け止めて逃げずに頑張ってみようって。死にそうになったって先輩がいるんだって、励みになるから」
届け、私のきもち。
呆けた面構えに、びしり、と人差し指を突き刺す。
「私は、逃げずに立ち向かっている人を、怖いだなんて絶対に思ってやりませんから!!」
最後は、まるで喧嘩の押し売りみたいに語気が荒くなってしまった。
出会ったあの日、理不尽な状況に腹を立てるあまり先輩に詰め寄ったときのようだ。
神前涼太郎は──泣きそうな顔で微笑んでいた。
「……買い被りすぎ」
「うっ」
ちょ、ちょっと……不覚にも胸が高鳴ってしまったではないか!
なんだその、雨の中で凍える捨てられた子犬のような眼差しは……!!
先輩もこういう顔するんだなぁ……そういう意味ではレアなワンシーンなのかも……。
「せっかくだから、何か食べようかー」
再び歩き出すと、先輩が珍しくそんなことを言ってくれた。
「……私、持ち合わせ少ないんですが」
「ならカップ麺」
「あのですね、あんたに生活力なさすぎるから余計放っておけないんですってば!!」
「カップラーメンは偉大だ……」
「せめてファーストフードにしましょうよ……一品くらい奢りますから……」
「……茅ヶ崎さん優しいよなぁ……」
「はいはい……」
もう、誰かなんとかしてこのダメ男。
先輩の心をほんの少しだけ垣間見れた、そんな日だった。
けれど縮まった関係をひっくり返す急変は、その翌日に起こったのだ。