海のエージェント 5
なんつって、委員長と距離があろうがなかろうが、仕事に支障をきたさなければ私としてはどうでもいいわけです。どうでもいい、と思っている筈。心がほんの少し痛むけど。
ただ、三ヶ月という月日でそれなりに打ち解けたなぁと思っていた矢先に気がつかされてしまって、調子づいていた自分に腹が立っただけだろう。友達だと思っていたのに相手にとって友達ではなく単なるその他大勢だった、みたいな。悔しい。
私たちMIは、その特性上パーソナルスペースが一般人より狭くなりがちだ。世間様の晒しものにはなるまいと、無意識に交流相手を選別する癖のようなものが身につく。そういう理由があるのなら、先輩の対応は理解できなくもないのだから。
……頭を切り替えなければ。目前には防火性扉。両頬を打って思考をチェンジする。
施錠はされていなかった。出入りする人間がいるのだから、当たり前だ。
先輩の先行で侵入する。ゆるり、と開けられた隙間、先輩は中の気配と様子を探り、誰もいないことを確認するとその隙間から音を立てずに入り込んだ。
内部は暗い。視認できないほどではないが。
「……誰もいませんね」
「あぁ」
拍子抜けだった。
兵藤先生の口ぶりでは、中は常に不法待機者が潜伏しているような印象だったのだが。
大展望台フロアは一階、二階と分かれていて、さらに頂上付近に特別展望台がある。一階と二階だけでもかなりの広さがあり、当時賑わっていただろうカフェや売店もそのままの形で残されている。隠れる場所には事欠かないが、これといって気配も感じられない。
完全にもぬけの空だ。
「茅ヶ崎さん」
呼ばれ、私は振り向いた。
先輩はグッズショップ前でしゃがみ込み、手招きをしていた。
「何ですか?」
屈む彼の横に並んでみると、つま先に異物が当たる。
拾って確認すると、見覚えがあった。
「包装シートだ、薬の」
「ですよね……うわ、いっぱいある。全部空じゃないですか」
「……Hype」
「え?」
「裏に書いてる。これはちょっと面倒だなー……」
言われるがままに裏返すと、シートの端っこに、目立たないように『Hype』と記されていた。
ハイプ……聞き覚えがあるんだけど。
疑問符を浮かべていると、先輩があっさり答えをくれた。
「Hyperionの略称だ。最近逮捕者が続出してる、違法薬物」
「……うわぁ」
正式名を聞くとさすがの私も思い出すことができた。
──ハイペリオン、通称ハイプ。ハイプという単語自体あまり良い意味では使用されない。その名が表す通り、依存性が高く中毒者の根絶も難しいとされるドラッグだ。
一般人がMIのような運動能力を得られるという宣伝文句で、未成年者を対象に取引されているらしい。例えばここのような廃墟などは売人たちも活動し易く、退屈な日常に飽いた若者は薬物の誘惑に勝てず非日常のスリルに酔うのだ。
といっても、効果は所詮付け焼刃で一時的。本物のMIには到底敵わない。
何しろ、人体組織を構成する細胞をほんの数時間だけMIのそれに近い状態へ作り変えるだけなのだ。運動能力は向上するが、MIのもうひとつの特徴である自己再生能力は一般の人間と変わりない。耐久力は紙にも等しい脆さである。
待機者がいない代わりに落ちていた使用済みの薬物シート。
不良たちの巣窟。
がらんどうの廃墟。
……確かに、あらゆる事態を想定しているとはいえ、これは厄介かもしれない。
どうやら単なる調査では済みそうにない。隣を向けば、先輩は早速通信デバイスで階下を探索中である中萱、ユキハル両先輩に連絡を取っていた。
「俺だけど、そっちはどうですか」
ユキハル先輩が応答する。
『誰もいねえな。ヤンキーどもが荒らした形跡はあるが、ただ──』
「ただ?」
『すげえ量の血痕がある』
──ぞわ、と総毛立つ。
『だが死体がない。肉片ひとつ落ちてねえ』
血痕? なのにそれを生んだ筈の遺体がない?
先輩は素早く立ち上がり、摘んでいたシートを指で弾いた。心なしか空気が硬い。
「ユキハルさん、こっちにハイプの空が大量に落ちてます」
『ハイプ? 二階には誰もいねえのか?』
「今んとこは」
『……一度合流した方がいいかもな。祥を呼んでくる』
「あのバカ、どこに行ったんです?」
『──バカって言うんじゃねえよ!! 倉庫の鍵壊してんだよ!!』
会話に中萱先輩が割り込んできた。
「倉庫?」
『フロアは無人だけど、この中に誰かいるっぽい。物音がする』
『祥、用心しとけよ。あの血は尋常じゃねえから』
『わかってるっつーの!』
血痕、と聞いただけで臆している私とは違い、中萱先輩はこの状況でも騒がしい。けれど逆にその騒々しさがありがたくもあった。異常事態において、普段のままに振舞える人間がいるとこちらも感化されて冷静さを取り戻せるものなのだ。
私は胸元でぐっと拳を作った。
「怖いな」
ぼそり。先輩が呟く。
見上げると、視線だけで私を見下ろす先輩と目が合う。見透かすような、不思議な瞳だ。
強がっても意味はないのだ、正直に答えた。
「……怖い、です。血とか、そういうの無縁でしたから」
「三ヶ月、わりと平和な仕事ばっかりだったしなぁ……」
「先輩は何度か経験してるんですよね、こういうの」
「そこそこ。でも怖いもんは怖い。俺、グロとかスプラッタ苦手だし」
「私だってホラーは嫌いです」
「幽霊モノは別。あんな作り物より内臓飛び出てる方がえげつない……」
「……先輩。気遣ってくれてるのか余計ビビらせてるのか判断できないんですが」
「それは失敬」
彼も普通だ、普段通りだ。
なんだか気が抜けて、自然と息を吐き出せた。
多分、この人なりの励ましなんだと思う。思いたい。変人だから断言はできないけど。
『ッあーめんどくせえ!!』
通信越しに中萱先輩の怒号が響いた。
直後、ガゴンッと鈍い音が鳴る。どうやら開扉に成功したらしい。
あまり出向きたくはないが、何かあるとすればここではなく階下だろう。私は先輩の促しに頷き、非常階段への道を走る。エレベーターが稼動していれば行き来も容易いが、この廃墟で機材が動くわけがない。
──しかし、それは突如として襲来したのだ。
『……え、お前、あれ?』
おそらく倉庫内を物色していただろう中萱先輩の、戸惑う声。
そして階段の踊り場に差し掛かった私の鼻腔をくすぐる、異様な臭気。
「茅ヶ崎さん!!」
初めて耳にする先輩の必死な呼び声。
「……え?」
背後に現れた敵と──私の腹部を貫いた鋭い爪。
そいつは驚愕し、飛び退いた。
完全に仕留めた、と確信もあっただろう。
「……っ、っぶねー……」
私の右腹部には、後方から貫いた獲物が突き刺さったままだ。
先に踊り場を数段下りていた先輩も、さすがに顔を強張らせたまま立ち止まっている。その視線は致命傷になりかねなかった部分へと注がれているのだが、当事者たる私は冷や汗を滴らせながら佇んでいるのみ。
我ながら今のは間一髪だった。先輩の一声がなければやられていた。
「大丈夫、です……抜けます」
私は鋭利なそれを取り除いた。するり、と、豆腐を貫いた箸を抜くかのように。
カラン、と乾いた音を立て踊り場に転がったのは、獣の爪をさらに長く、鋭く磨いたかのような物体だった。いや、それは間違いなく爪と呼ばれる部位には違いなかった。ただ元の持ち主であるそいつが、人の形状を保つ襲撃者である、というだけだ。
本来、刺突されれば肉が毀れ、臓腑を抉り出血するだろう。
しかし私はMIであり、希少とされる固有能力者だ。私に物質の概念は通用しない。
MIであるもうひとつの証──瞳が碧眼に光り、力の発動を知らしめている。
「死ぬかと思いましたけどね……!」
深く潜る。『潜行』と呼ぶ、私の異能。
それが私の力だった。
物質に深く潜り、すり抜けることができる。物質に潜るという意味では、水中も意味を為さない。コンクリートの塊から海底まで、私はあらゆるものへと潜り、留まり、そして抜け出す。逆も然り、あらゆる攻撃や物質を透過させることも可能だ。
MIとなったことで私が得たこの特異な個性。私はこれのおかげで、六年前の海難事故をたった一人で生き残ることができた。客船の大破から運良く逃れ、スクリューに巻き込まれることもなく船の残骸を歩いていたのだ。
……まぁ、私の過去などどうでもよろしい。
当面の問題は、襲撃者だ。
「先輩、これは」
隣に並んだ先輩は、非常階段入り口で身構えている敵を見据えている。
「……アノマリー、だな」
まさに獣と呼ぶに相応しい。アノマリーと呼び恐れられる、異常生命体。
人であったものだ。魔動粒子により新たな変革を遂げた、という意味では彼らとてMIと差異はないだろう。だが、アノマリーの特性はその破壊行動と自我の損失。筋組織の発達により肉体は膨れ上がり、巨大な筋肉だるまのようになる。
奴らは酷く獰猛だ。やたらと伸びた爪で四肢を切り裂き、尖った歯で肉や臓器を食い千切る。自我は失ってしまったがそれなりに頭も働くようで、戦闘のプロでさえ手を焼く狡猾さも兼ね備えている。先ほどのように自らの爪を分離させ武器とする知能もある。まさに戦うマッチョマン。いや、そんな可愛いモンじゃないけれど。
MIの成り損ない、と侮蔑されるが、能力的には手強い部類に含まれるだろう。生まれ持っての特性なのか海水を弱点とするものの、重戦車を思わせる迫力には悪寒を覚える。
「初対面で不意打ちされたにしては上出来だと思う」
「ですよね……」
先輩に褒められた。うん、元気でました。
「アノマリーがいたってことは……一階の惨状はこいつの仕業か……」
「帰ったら先生にたらふくクレーム出してやるんだから……」
「……まー、五体満足で帰れたらいいけどね」
言うが早いか、先輩は──逃げた。
踵を返し、一目散に。私を置いて!!
「えええええええええええええっ!? ちょ、先輩!?」
「とりあえず戦略的撤退~」
ふざけるな!!
叫びたいのを堪え、私も後に続く。一段ずつ降りるなんてマメなことをしている猶予などない。奴が殺気立つのを感じ、踊り場から一気に下の出口へと跳躍する。
──ガアアアアッ!!
まるで獣の咆哮だ。耳を劈く。
それこそMIの全速力に後れを取らない速度で追いかけてくる敵には目もくれず、逃げ足だけは速い先輩をひたすら追走した。一階展望フロアに出るとそこは床から壁までトマトケチャップをぶちまけたような悲惨な光景だったのだが、如何せん必死な私はそれどころではなかった。血痕という単語に慄いていた自分などとうの昔に吹っ飛んでいた。
追いついた先輩と並走していると、前方にユキハル先輩を発見。
「おー、お疲れさーん」
「ユキハル先輩ヘルプミー!!」
呑気な先輩にそう叫ぶと、アノマリーが突進を仕掛けてきた。
「いやああああああああああッ!!」
「おおうっ?」
「っ、と」
三者三様、後方からの一撃を回避。
半ばパニックである私と比較しても、残り二人の冷静なこと。
前転したものの壁に激突した私は、ぶつけた鼻をさすりながら先輩たちの後ろに隠れる。
「アノマリーかよ、聞いてねえぞこんなの」
「どうしましょーねえ……」
よ、余裕だ。ベテランの威厳というか、なんというか……。
それにしたって、私は美化委員を引き受ける際に「アノマリーとの戦闘もあるかもしれないよテヘッ☆」みたいな注意事項、聞いていないんだから!!
ちくしょうマジで腹立ってきた……絶対文句言ってやる……!!
私が内心そう誓っていると、先輩が言った。
「茅ヶ崎さん初めてなんだし、隠れてていーよ」
「……へ?」
なんと。あの先輩が。あの怠惰でだらしなくて四六時中ボケてるサボリ魔が自ら動きます宣言ですって。ありえない、一体どういう風の吹き回しですか先輩。
「……その、疑う目はやめよーね? 俺だってたまには働くってば……」
「そうそう。闘牛のお世話はお兄さんたちに任せとけ」
ユキハル先輩まで。私の頭を撫でて、ニカリと笑う。
……でも、私はアノマリーの対処などできない。戦闘面での訓練は受けているとしても、それが対MIを想定したものであり、アノマリーがMIと大差のない敵だとしても。たかが物質をすり抜けるだけの私が、力技であれに敵うとは思えなかった。
歯噛みする面持ちで、小さく頷く。
「……わかりました」
「んじゃ、行ってきまーす」
ぐ、ぐ、と伸びをしながら先輩が奴へと向かう。
ユキハル先輩と並び、敵との間合いを保つ。
「涼、どうするよ?」
「んー……行政局の方針に則るなら捕獲でしょうけどねー……どうすっかなぁ」
「年頃の女の子の前であんまりひでえことしたくねえが……仕方ねえか」
「そうっすね。なら──燃やしますよ」
このとき、二人の双眸は同時に海の色へと変貌し、妖しく発光した。
二人の密議は私の耳には届かない。
しかし彼らは一通り打ち合わせを終えたらしく、──瞬きひとつ。
嵐が起きた。
これは、私がMIであるから視界に捉えることができただけの話。
一般人であれば目で追うことも難しいだろう。それだけの速さで、彼らは動く。
咆哮したアノマリーが駆ける。豪腕を振り被り、足場へと拳を叩きつける。
だが先輩たちは、互いに左右に散ってその一撃を避けた。そしてまず、ユキハル先輩が異能を発動させた。それはあまりに凄絶で、鬼気迫るありさまだった。
「遠慮はしねえぞ!!」
ユキハル先輩の一声で、──それは目覚めた。
コードだ。何本も何本も、腕まくりをしたブレザーの袖口から現れて生き物のように蠢く。一体それほどの本数をどこに隠し持っていたのか……いや、隠し場所はすぐに判明した。私は目を疑う。
機械と機械を繋ぐ無機質な部品は、彼の両腕そのものだった。
……先輩のあれは、義手なのか!?
だとしたらなんと精工な作品だろう。見た目だけでは本物なのか義手なのか区別のつけようがない。そして作り物である腕から、無数のコードが人工皮膚を突き破っているのだ。意思を持つかのように波打ち、おそらく先輩の思うがままに操られ、束ねられていく。
やがてコードたちは変形し、先輩の手を覆う篭手と化した。
左右の篭手から伸びる刃。双剣だが、刃の形状が蛇腹になっている。
「腕は貰う!!」
振るうと、蛇腹の部分が分割し、鞭となってアノマリーの腕に絡みつく。
しかし拘束以上の威力を持つ刃は、私の数倍はあるだろう獣の腕を上腕から斬り落とす。ゴトリ、と生々しい音を立て、奴の武器は地に転がった。
アノマリーは絶叫する。激痛に顔を歪め、数歩よろける。
ところが奴はよろけながらも、近場にあった望遠鏡を掴み取って──投げた!!
二人は飛び退いた。
そして避け切れなかった分は──ドンピシャで私に跳んできた。
「げ……!?」
まぁ、この程度ならばいくら私でも対処はできる。
すかさず透過能力を駆使し、跳躍物を難無くすり抜けた。ところが予想外というか、むしろ予想の範囲内というのか、筋肉ダルマは追撃する先輩たちを振り払うようにして一直線にこちらへ突っ込んでくる。まずい、奴の暴走を食い止める術などありはしない。
逃げるか? 脱兎の如く走ってみるか?
それともひたすら透過させてみるか?
何にせよ猛牛を前にしたノミのような心境で、太腿のホルスターから拳銃を攫う。
対MI専用兵器として携帯が義務付けられた麻酔銃だ。大型動物を捕獲するために使用される不動火薬をさらに強化することで、超人であるMIも行動不能にすることができるが、あのマッチョマンに通用するのかはアヤシイ。
「──通行止めでーす」
だが、先輩がいつの間にか私とアノマリーの間に滑り込んでいた。目を瞬かせたほんの僅か、秒にも満たない素早さで回し蹴りを決める。敵は吹っ飛び、離れた位置で唸っている。
ここからは先輩の独壇場とも言えた。
片腕の猛攻を紙一重で無駄なく回避し、繰り出される攻撃を──逆に掴む。
そう、掴んでいるだけ。触れているだけだった。
だがしかし──異様な現象が、あの場では繰り返されていた。
先輩に触れられるたびに、その箇所が赤色に発光するのだ。まるで瞬間的に火傷を負ったかのように。否、あれは熱を帯びている、間違いない。鉄の如く硬く頑丈な皮膚が爛れ、水泡ができ、酷い熱傷に至っている。
「そこまで」
とん、と優しく拳を受け止める。凄まじい握力で腕を捻り上げられ、アノマリーは蹲った。
腕を庇う獣の額に片手をあてがい、──それはあっという間だ。
悲鳴。重苦とその絶望。
ひきつれた叫び。思わず耳を塞ぎたくなるほどの。
嗚呼、奴は死ぬのだ。私は悟り、こみ上げる胃酸を堪えながら後ずさる。
熱傷は一瞬にして額から全身へと行き渡り、アノマリーの全身から炎が噴き出る。生きながら燃え、巨体は転げ回りながら苦悶していた。人体の焦げる臭いが充満する。
──先輩の力は、背筋を凍らせるには十分すぎていた。
ユキハル先輩は、獲物とするものが目に見える。けれど先輩は超常現象としか呼べない代物で、視認できないという点では私の透過も似たような類かもしれないが、とにかく先輩は次元が違う。触れただけで対象を自然発火させるなんて……どういう原理なんだ。
息絶えたアノマリーは、黒焦げの状態で沈黙した。
……もう、だめだ。これは限界だ。
「あ、茅ヶ崎さ──」
一生分のスプラッタを目の当たりにした私の精神は、とっくに臨界点を超えていたらしい。
一気に催した吐き気。
気絶するには時間を要さなかった。