世界は海に沈んでいる
元は小高い丘であったそこから階段を下りていく。
しかし半分を過ぎた辺りで下は冠水し、透き通った水は果てがないほど世界を覆い尽くしている。かつて発展途上国の主要都市であったそこは、海の一部として深海と化しているのだ。
どこまでも透明度を保つ水。水面下に聳える都市の残骸。
私はメガネ型端末──ルノアデバイスで海中を観測した。ピピ、と音が鳴る。
『検索完了。前方十七メートル、水深百二十メートル付近にて不法投棄物あり』
「オーライ」
イヤホンマイクのスピーカーから、デバイスを通じて音声ナビが聞こえる。このデバイスはメガネの形状をしているとはいえなかなかの優秀ぶりで、蝶番の部分に取り付けられた小型コンピュータはそこいらのマシンを圧倒するほどのスペックを兼ね備えている。
……ふむ、確かに。半透明スクリーンとして機能するレンズに、ルノアデバイスが計測したであろう問題の箇所が映し出されている。あれは間違いなさそうだ。
「せんぱーい、見つけたけどどうしますー?」
私は振り返り、天辺から二段、三段の辺りで腰かけている先輩へと訊ねた。
彼はいつもの眠たげな顔で頬杖をついているのだが、どうやら手伝う気はなさそうだ。ひらひらと腑抜けた手を振りながら、くぁ、と欠伸までしやがる始末。任務中だっていうのに、なんて緊張感のない男なんだ。
「茅ヶ崎さんファイトーかっこいー」
「くっ……薄情者……!!」
行動を共にするようになってからまだ三ヶ月程度しか経っていないが、この人のぐうたらっぷりは出会って三日で痛感させられたので、貶すにしても遠慮はしないと決めている。我慢をしてしまうと余計にストレスが蓄積するだけだし、先輩自身、どれだけ罵倒されても動かないと決めたら本当にまったく動いてくれないので、いっそ責めておく方が気楽だ。
私は深々と溜息を吐き、ついでに呼吸も整える。
靴と靴下を脱いで隅に置き、少し悩んでからベージュ色のカーディガンも脱ぎ捨てた。
そろりとつま先を海中へと浸からせる。おお、六月とはいえまだ水は冷たい。ちょっと寒いくらいだけど、先輩がだらけている以上実働は私に託されている。ああ、理不尽だ。
もう一度ルノアデバイスで計測した位置を覚えて装置を外す。水中作業に装備は必要ない。
私は躊躇なく、段差から深海へと──跳び込んだ。
果てのない青の中。ひたすら深く沈んでいく。深く、深く。
コポコポと空気の玉が水面へと上昇していく。代わりに私は沈んでいく。
この海は本当に美しい。海面を照らす陽光は深海まで鮮明に照らし、大都市の成れの果てを細部まで視認できる。高度な社会文明を築いていただろうその都市は、百五十年前の大水害で海底の藻屑となってしまったが、不思議なことに劣化や風化などはなく昔のままそこに取り残されているのだ。
いつ見ても、神秘的で魅惑的な景色だ。
私は着地した。
超高層ビル群のひとつ、その屋上らしきスペースに佇む。
見上げると海面がてらてら輝き揺れている。不規則な波のゆらめきが太陽光を数多の角度で反射し、私の貧相な語彙では表現できない極彩色を放っている。宝石も美しいけれど、自然の生み出す美観に比べれば、なんてちっぽけな安物だろうと感じざるを得ない。
──さて、のんびりしている暇はない。探し物をさっさと陸へ持ち帰らなければ。
私の仕事は、海の清掃なのだ。
世界規模の水害で陸地が冠水してしまった我が世界は、災害による人口の大幅な減少を代償とするかのように太古の自然とその美しさを取り戻した。でも、せっかく綺麗になった海を、無尽蔵のゴミ捨て場か何かと勘違いする非常識な人類はやはりどこにでもいて、私や地上で居眠りをしてるだろう先輩はその海を守るエージェントなのである。
美しき自然。幽玄なる水没世界。
私は歩いた。
瓦礫と瓦礫を、リズミカルに踏んでは蹴って、まるで地上で歩いているかのように悠々と進む。勿論これはヒトとして在り得ない異常現象に他ならないのだが、生き残ってしまった人類の中にはこういう一風変わった特技の持ち主も稀にいるのだ。
私に水は意味を為さない。いや、あらゆる物質は、物質足り得ない。
屋上から屋上へ。浮力を活用して飛び移る。
……あぁ、あったあった。
ゴミ袋だ。おそらく手っ取り早いと海に投棄したのだろう。不透明の燃えるゴミ専用袋が、デバイスが検索した位置にぽつんと沈んでいる。
生ゴミは海の成分を変化させるが、これがもし電化製品なら最悪だ。組み立てに使用されている部品の錆びなどは、せっかくの純度を微量だが汚してしまう。保護条約で不法投棄は立派な犯罪だと定められているが、バレなきゃ犯罪じゃないとかぬかす阿呆が多いせいで私たち清掃員の苦労は絶えない。
魚たちが近寄ってきた。赤、青、色とりどりの愛らしい生命たち。
微笑ましさに頬を緩めながゴミ袋を持ち上げる。中身は少ないらしく、おかげで非常に軽い。
これを陸に上げたらあとは先輩の出番だ。何としても持ち主を突き止めて、相応の罰は受けてもらわなければ。いくら私が『潜れる人間』だからって、任せられっぱなしは癪だ。
魚たちに小さく手を振ってから、今度は上に向かって泳ぎ出す。
途中後方を振り返ると、眠る都市と目が合った。
ずっと昔。あの廃墟はまだ廃墟ではなく、海の上で機能していたのだと思うと不思議でならなかった。
割れた窓や崩れた鉄柱。今はもう死んでいるあの場所が、かつては騒々しく息づいていただなんて想像するのは難しい。海の中の模型はただただ、静謐に時を刻みながらそこに沈んでいるだけなのだ。
──それでも、滅びた世界は、今日も美しい。