雨 〜明美〜
二次会が終わった頃には、土砂降りだった。
正面玄関を出た途端に、むっとするほど生暖かい空気に包まれる。水槽の中の金魚みたいに、思わず口を開けて息をしてしまう。
ジューンブライド…西洋では幸福になれると言われる六月の花嫁も、最も不快指数の高い時期
にあたるこの国では怪しいものだ。
なんて嫌味っぽく考えてしまうのは、いい年して友人に先を越された僻みだろうか。
しかしこの雨だ。このくらいの嫌味は見逃してもらってもいいだろう。
大きく張り出した式場の屋根の先が、雨でかすんでいる。
早朝から美容室でセットしてもらった髪も、湿気で無様なものだ。
履き慣れないヒールで引出物の重い紙袋を提げて、おまけに傘を差し駅まで歩く道のりを思うと、うんざりして目眩がしそうだった。
「家までタクシーにすっかな・・・」
ご祝儀に加えて家までのタクシー代は痛かったが、この足の痛みには代えられない。新調したシルクのワンピースを無残に濡らしてしまうのも忍びない、というのは自分への言い訳。
ロータリー横のタクシー乗り場へ向かっていると、停まっていた車からクラクションが鳴る。
「明美!乗れよ」
大きな声で名前を呼ばれる。
聞きなれた声。
大声のくせに、どこか遠慮している。私がいつものように悪態をつくと思っているのだ。
「清水・・・なんでここにいるわけ?」
珍しく普通に反応した私に、清水敏明はホッとしたような笑顔をむけた。
今日ばかりは、この男の鬱陶しいおせっかいも、ありがたい。
そそくさと助手席に滑り込みながら、心の中で悪態を付く。
「前に話してたじゃん、ココのホテルで二次会やるって。そんなつもりなかったんだけどさ、ちょうど前通ったし、この雨だろ?家まで送るよ」
黒いミニバンはクーラーが効いていて、気持ちがいい。私は礼を言おうかちょっと迷ったが、黙って窓の雨筋を追っていた。
清水が、これから何を言いたいのか、わかりきっていたからだ。
浅井と付き合い始めたのは、清水と別れてすぐだから、2年くらいになる。
会社の上司、お決まりの不倫関係。
別に浅井とそういう関係になったから清水と別れたわけではない。ただ、清水とはもう終わりかなと思っていた時に、たまたまそんな関係になってしまっただけだ。だから、清水の浮気のせいじゃない。でもこいつは未だにそう思っているきらいがある。自分が浮気なんかしたから、私がショックのあまり浅井なんかに引っかかった、と。失恋に苦しむ私を浅井が誘惑したと思っている。笑ってしまう。むしろ誘惑したのは私なのに。
最近私と浅井には別れが見えていた。
偶然スーパーで、妻子と夕飯の買い物をする浅井を見てしまったのがいけなかったのだ。なんだか冴えないトレーナーを着て玉子を持って、奥方に言いつけられて少しでも空いているレジへ走っていった男が、自分の交際相手だなんて信じたくなかった。ビニール袋にすき焼きの材料らしきものを詰めながらふと顔を上げた彼は、私と目が合って、憐れなほど狼狽した。私は、見ていられなかった。
終わったと、二人が悟った。
それから一度食事に行ったが、あの時のことは話題に上らなかった。私ははじめて誘いを断って、食事だけで帰った。浅井の誘いも、形ばかりのものだった。
不倫の恋の終わりをどう繕えばいいのか、二人とも考えあぐねているようだった。
次の約束は、していない。
だから、清水がこれから言おうとしていることは、もう終わったことなのだ。
別れろよ。
こいつはいつもそう言う。
あんな男とは別れろ。おまえは間違っている。不倫なんて、絶対ダメだ。
よく飽きもせず2年間も同じことを言い続けられるものだ、感心してしまう。
清水がかわらず私のことを好きなのはわかっている。
私はそんな清水のキモチを、利用しているだけなのかもしれない。
思い切ったように清水が口を開いた。
もう別れたよ、終わったの。私たちもう一回、やり直せないかな?
清水の言葉が始まる前に、そう言ってしまえたら……なんて考えるのも、利用してるってことだろうか。
「結婚しないか?」
「え?……何言って……?」
思いっきり、返事に詰まる。言っている意味がわかるまで、しばらく時間がかかった。
「この2年間、ちゃんと付き合ってはなかったけど、結局ずっと一緒だったよな。俺さ、明美をちゃんと束縛しとかないといけないって思ったんだ。あんな男とは別れろよ。俺にしとけよ。」
相変わらずこの男は、鬱陶しいほどのおせっかいだ。
ばかみたい。
だめだ、声に出すと涙がこぼれそうだった。
暖かい大きな掌が、ポンポンと頭を叩く。
この癖も懐かしすぎて私、もう涙を、我慢できないじゃない。