幻夢抄録―目覚め―恋心
始めは、固くとげとげしかった氷魚も、今では、すっかりうち解け、気安くなった。
瑪瑙も、少なからず、彼女に興味を持っていた。
「っくしゅん!」
夜の静寂を、氷魚のくしゃみが破った。
「なんだ、風邪か?」
干し肉を、噛みきってから、瑪瑙が聞く。
「そうかも知れない…」
「大丈夫か、熱は、ないか?」
「ん〜、熱は、ないと思う」
額に手を触れて、笑ってみせる氷魚。
「俺の、貸してやるよ…少しは、暖まるだろ?」
「ありがと、あったか〜い…でも、あんたが風邪ひいちゃう」
「平気だ、これくらい」
「ふーん…」
二人の間に、しばしの静寂が流れる。
「氷魚」
背後で、瑪瑙が呼んだ。
「なに?」
「その…あのな、くそっ!何て言えばいいか分かんねえっ」
「ちょっ、ちょっと瑪瑙!?あんたこそ、熱あるんじゃないっ、カオ真っ赤よ?!」
「大丈夫だ…」
次の瞬間、氷魚は、背中に温もりを感じて、身を固くした。
「めの、う?」
「こうすれば、もっと暖かいぞ」
瑪瑙は、氷魚の背中を、抱き締めていた。
氷魚は、思った。まさに、熱が出てしまいそう、とはこの事だ。
もの凄く、顔が、熱く感じるのはなぜだろうか?
「ちがう、違うんだよ…そんなことが、言いたいんじゃねぇ、俺さ、氷魚が、好きだ」
「瑪瑙…」
氷魚は、ふと異界―‐人間界で、過ごした日々を、思い出していた。
それが、なぜか、随分昔のことのように思えて、可笑しかった。
(そう言えば…向こうで、こんな気持ちになったことなんて、あったっけ?)
「お前さえよければ、このままでいてやるよ」
「うん、ねえ、瑪瑙…あたしの兄さんって、どんなヒトだったの?」
「ん〜…そうだな、お人好しで、まじめで、俺と違って…器量よしかな」
「前にも言ったけどさ、あんたも、充分男前だよ」
言った、氷魚の顔は赤い。
「そう、なのか?」
「まあね、あたしの周りに、瑪瑙みたいな人、いなかったし」
そう言って、氷魚は、目を閉じた。
「どうした、眠いのか?」
「瑪瑙…暖かくて、すごく落ちつく。心臓の音が、一つに溶けたみたいで」
その時、薄水色の地平に、一条の光が走る、夜明けだ。
また、一日が始まる、砂漠越えの、厳しい旅が。
「さあて、そろそろ動きだすかぁ」
瑪瑙は、氷魚の背中から離れると、縦に伸びをした。
「ありがと、瑪瑙。これ、返すね」
氷魚は、瑪瑙に外套を手渡す。
「氷魚」
「なに…」
呼ばれて、振り向いた氷魚は、引き寄せられると同時に、唇に、温かい感触を感じて目を見開いた。
瑪瑙の顔が、すぐ目の前にある。唇を、奪われたのだ。
「なっ、め、瑪瑙…?苦しいって!」
突然のことに、氷魚は、目を白黒させた。
「…りたい、氷魚、お前を守りたい」
「え…」
『守ってやる』ではなく、『守りたい』
「ありがと、なんか、恥ずかしいけど…嬉しい」
「なあ、もう一回していい?」
「やっ、やだっ、なに言いだすのよ!」
氷魚は、瑪瑙を突き飛ばす。
「ってぇなあ、ま…いっか。一回できたし」
「もうっ、調子に乗ンなっ!」
「氷魚」
「なによ!また何かする気?」
「ちーがうって!あれっ、あれ見てみろよ!」
瑪瑙は、そう遠くない地面を、指さしていた。
「な、なに、あそこ…色が違うっ、砂漠が切れてるんだわ!」
「行くぞっ氷魚!」
「うんっ」
二人は、走り出す、砂漠を抜けて踏んだ地面には、苔と、丈の短い、下草が生えていた。
「防風林、みてぇだな」
「うん…足元が、ふかふかしてるぅ」
進むにつれ、細かった道は太く、整備されたものに変わった。
「車輪の跡…ヒトが住んでるの?」
氷魚は、屈んで、轍の土のかけらをつまんだ。
「いや、衙があるんだ。行こうぜ?ここがどこだか、確かめないと」
「あ、瑪瑙ってば…まってよー」
5章:休息
足早に歩きながら、氷魚は、瑪瑙に話しかける。
「ねえ、この衙から、瑪瑙の村までって、どのくらいなの?」
「そうだな、この呂山から、歩いて一日だ」
「呂山…変わった名前ねえ」
今、二人は、衙の大通りに立っている。氷魚は、周りを見まわしながら言った。
衙は、どちらかというと中華風で、去年、友人と行った、中華街を思わせた。
「すごいのね、いろんな店が並んでる…なんか、お祭りみたい」
楽しそうに言う氷魚に、瑪瑙は、片眉を上げた。
「ん、じゃあ見ていくか?」
「ほんと!?」
「ま…いつまでも、そんな格好じゃ、過ごしにくいだろ?夜は特に」
「え…そういえば、そうだった気もする、けど…もう慣れちゃったから、忘れてたわ」
(へえ…結構、細かいトコ見てたんだ)
「ここんとこ、ずっと厳しかったからな、息抜きだ」
言い終えたとき、隣にいたはずの、氷魚が、どこかに消えていた。
「氷魚ッ!?ったく、なんか大人しいと思ったら!」
瑪瑙は、人群れを縫うように進み、走り出した。
その頃、氷魚は、人波に流されるまま、進まされ、やっとの事で、流れから抜け出せたはいいが、瑪瑙と、はぐれてしまっていた。
「マズイ、これって…迷子ってヤツ?」
そのとおりだ。相変わらず、人通りは激しい。氷魚は人群れに、目を走らせて瑪瑙を捜すが、見つからない。
『迷子になったときは、動かないのが一番』というが、黙っていても、なにも始まらないような気がして、ならない。
短絡に考えた末、再び氷魚は、人混みに飛び込んでいった。
(動いていれば、瑪瑙に会えるかも知れない!)
同時、瑪瑙も、氷魚を捜して、走っていた。
(くっそぉ…俺としたことが!氷魚っ、どこだ)
「チッ!」
瑪瑙は、屋根に跳び上がると、再び走り出した。
「やだなぁ…なんか、アヤシー雰囲気、こりゃ、引きかえ…きゃっ!」
「っと!気をつけろっ」
「ご、ごめんなさい」
角でぶつかったのは、茶髪の男だった。年の頃は、瑪瑙と大して変わらないように見える。
内心、氷魚は『そっちこそ、気をつけやがれ!』と毒づいた。
「おい」
行こうとした、氷魚の腕を、男は掴む。
「な、なによっ…ちょっと離してよ!」
「ここが、どこだか分かってンだろ?それとも、迷子か?」
腕を掴まれ、暴れる氷魚に、男はニヤリとした。
「うるさいわねっ、放さないと、蹴るわよ!」
「おっと、気ぃ強いなぁ…気の強い女は好きだぜ、大人しく、こっちこい」
「やだってば!ちょっと、こらっ」
(うんわ、息くさい!不っ細工なツラ、近づけるんじゃねぇよっ、やめろ、このっ)
氷魚は、必死に憤りをこらえていたが、ついに、堪忍袋の緒が、音をたてて切れた。
「やめろって言ってンだろがっ、このゲス野郎――――!!」
氷魚の怒声と、その後に、何かを殴打する音が、路地裏に響いた。
「いたっ!氷魚…裏かっ」
二、三軒、屋根を飛び越えてから、着地すると、瑪瑙は走る。
「氷魚――‐!」
「あ、瑪瑙」
「あ、じゃねぇだろうが!散っ々捜したんだぞっ…大丈夫か!?なにも、されなかったか!?」
瑪瑙は、氷魚の双肩に、両手をあてがう。
「見てのとおりよ、酔っぱらいに絡まれちゃって…あんまりしつこいから、靴で殴ってやったけどね」
氷魚が、つま先で示した先には、男が伸びている。
「こいつかっ、この!」
瑪瑙は、酔っぱらい男を蹴り上げると、吐き捨てた。
「行くぞ!こんなとこ、長居したくもねぇっ!」
「うん…」
5章 完