新世界
白い部屋にさ、僕はいるんだ。
そこでは僕のほかに誰も生きていなくて、そこには僕のほかに誰も入れはしないんだ。そこで、僕は寂しくて寂しくて、誰かに来て欲しくて誰かに見て欲しくて、僕がここにいるってことを知ってほしいと思ってる。願ってるんだよ、一心に。
僕は白い白いそれは真っ白で、純潔みたいな純白の服を着てるんだ。壁や床と同じ白さで、眼も眩んじゃうほどに真っ白なんだ。僕は部屋の中で、ただじっと膝を抱いて座って、白い壁を見つめて、寂しさに耐える。耐えて耐えて耐えて耐え抜けば、誰かが褒めてくれるんじゃないかと思うんだよ、滑稽なことにさ。
でも勿論のこと、っていうか当たり前なんだけど、誰も僕のことを褒めてはくれない。
そりゃあそうだよね、この部屋には僕以外に誰もいないんだから。
そこでようやく僕は立ち上がって、声の限りに叫んだり、壁や床を交互に叩いたり、足踏みをしてみたり、急に静かになってみたりするんだな。誰かに、僕の存在を知ってほしいと、一心不乱に願い続けてさ。誰かここに来てください、誰か僕を見てください、誰か僕がここにいることを、知ってくださいってね。必死でやりすぎる所為で、最後には声がかれてしまうんだけども、それでも僕は飽きずに繰り返すんだ。じたばたしたり、どたどたしたり、ごろごろしてみたりしてさ。
でも、そうした行為の合間にふと、考えてしまうんだよ。この部屋には窓がない。だから、誰かがこの部屋に気づいたとしても、僕からその人を見ることは決して出来ない、って。それにさ、考えてみたら、この部屋に引きこもってじっとして、誰かが来るのを待っているだけの自分のほうが、窓もドアもない真っ白い部屋にこもりっきりの僕のほうが、ここに来るはずの誰かを拒絶しているといえるんじゃないのかな。
そう、そうなんだ。
どうして僕はここにいるんだろうね。
だって、ここは閉ざされた部屋だ。ドアも窓もないんだよ。外界に通じる穴は、換気扇らしき小さなファンがかろうじて確認できるほどのものが一つだけ、僕の背丈ではこれから成長する分を考えても届くわけがないような高さの所にあるだけ。
僕は、一体いつからこの部屋にいるんだろう。記憶には、ここに初めて入った時のことは全く残っていないんだ。眼が覚めて、そのときにはもうここにいた。この服を着て、ぼおっとしてたんだ。それまでの自分が何者としてどこにいたのか、本当になんにも、覚えてないんだよ。
どうして今までそのことに気づかなかったんだろう。寂しいとか、誰かに来て欲しいとか、そういうことを考える前に、どうして僕がこんなところにいるのか、それを考えるほうが先決だったはずなのに。
真っ白い部屋に、真っ白の僕一人。
もしかしたら、僕がここに来て、まだ一日もたってないのかもしれない。だって僕はまだ眠っていない。眠くもなっていない。っていうことはつまり、まだ僕の体内時計は一日を刻んでいないってことだろう。
それにしても、昨日までの記憶が一切無い自分は、どうしてしまったのだろう。昨日の僕に、何があったのだろう。僕はここにいつからいて、いつから記憶を失ってしまったのだろう。どうして、何故、僕はこんな所にいるんだろう。
白い白い部屋。白い白い自分。
そんなことを考えている間に、いつの間にか眠ってしまってたみたいなんだ。眠くなんてない、って思ってたくせにね。おかしいよね。でも、眼を開ける寸前に、ちょっと願ってみたりしたんだ。実はさっきまでいた部屋は夢で、僕は今まで眠り続けていたとかいう落ちでありますように、ってね。でも、そう願う時に限って、大抵現実なんだよ。そう、これは現実だった。
あーあ、ってあくびをして、それからふと気づいたんだ。どうして僕の眼が、覚めたのか。それは、音だった。断続的に、何かの音が部屋の外から聞こえてくるんだよ。ぶぃん、ぶぃん、とさ。何の音だろう、と、まず僕は考えたね。何かの機械の作動音みたいな音だ。それが、徐々に近づいてくるんだ。この部屋にね。
もしかしたらロボットでも歩いてるのかもしれない、なんて僕は夢想した。夢想、いいじゃないか。僕くらいの年頃の男の子は、ロボットについて多かれ少なかれ夢想するものなんだ。
さて、その機械音がぎりぎりまでこちらに接近した。相変わらずぶぃん、ぶぃん、といっている。僕も相変わらずロボットの体躯について夢想しながら、あるいは妄想しながら、その音を聞いている。そして、その音が止むと同時に、部屋全体に、きいん、という金属質の衝撃が走った。僕は、何事かと壁に手を突いて混乱した。この部屋は、ロボットに体当たりされたくらいで揺れるほど、耐震構造がやわなんだろうか。
きいい……ん、と余韻を残して、衝撃は去った。段々と、揺れも収まってきた。はあ、と息をついて額を拭い、音の正体の次なるアプローチを待っていると、不意に、白い部屋の白い壁の一つの面が、ずずず、と音を立てて動き始めた。
次は何だ、と息をのんで見つめていると、やがて動いていた壁はその隣の壁でさえぎられて見えなくなってしまった。つまり、壁はスライドして、この部屋を外界へ開かせたんだ。外界、っていうと少し大げさに感じるかもしれないけど、今の僕にとって部屋の外は新世界も同様だ。そこで、慌てふためいて、壁が喪失した場所へ走り寄った。
そこへ行き着いて、僕は呆気に取られてしまったよ。そこには、また、白い部屋が広がっていたんだから。
白い壁に、白い床、白い天井。
全く、僕のいるこの部屋と同じ空間が広がっていたんだからさ。
なんだなんだ、と僕は言葉を失って、その部屋を見つめた。その部屋の中心には、女の子が一人いた。その子は静かに微笑んで、僕の様子を見守っていた。で、僕はその子に尋ねたんだ。君は誰で、僕は誰で、どうして僕たちはこんな状況にいるのか、ってさ。何しろ、一日ぶりに会った他人だからね。僕は凄く興奮して、まくし立てた。
少女はそんな僕の剣幕に圧倒された様子もなく、怯えもせずに僕の話をきちんと最後まで、何の言葉も挟まないで聞いてくれた。僕が聞きたいことをすべて聞き終わると、彼女はまたにっこりと笑って、言ったんだ。
私たちは、この星で最後の人類なんだよ。私がイブで、君がアダムになるのかな。
で、当然のこと、僕は理解不能状態に陥った。どうしてこの星に、僕とこの少女二人しか残されていないのか。僕の記憶がない昨日までに、一体何があったのか。
少女は、僕のこの当然の疑問に対する答えも、きちんと用意していた。彼女は無言で、でも微笑をたたえたまま、そっと僕を彼女の部屋に引き寄せ、僕が今までいた部屋の壁を手で押した。僕の部屋が、ゆるゆると遠ざかっていく。
僕はそのときになって初めて気づいたんだ。今まで僕がいた部屋は、海の上に浮かんでいたのだという事に。そう、そこには真っ青な海原が広がっていた。それも、見渡す限り一面、海しかなかった。大陸も、小島も、陸地は何も見えない。ここは、太平洋なのか? いや、違う。ここは、太平洋でもインド洋でも地中海でもどこでもない。
ここは、世界だ。世界が、海に沈んでしまったんだ。僕は少女を見る。少女は言った。
人類も、他のあらゆる動物達も、雄と雌を一匹ずつ残しただけで、皆海の底に沈んでしまったの。旧約聖書の、大洪水だね。
僕はその言葉に、うなずくしかなかった。
どうして私たちが残されたのか、君は分かる?
彼女は、微笑んだままそう聞いた。僕は首を振る。分からなかったから。
彼女は海の向こう側へ漂っていく僕の部屋をじっと見つめながら呟いた。
世界中の科学者達が集まって会議を開いて、この世界に残すべき子供を世界中から捜し求めたの。でも、結局生き残るべき子供は一人も見当たらなかった。それで、残された時間をすべてつぎ込んで、私と君を創ったんだよ。
僕は、彼女の視線の先にある白い部屋を一緒になって見つめながら、聞いた。
じゃあどうして僕には、記憶はなくても知識があるんだい。この世界にかつて太平洋とかインド洋とか、そういう名前で呼ばれていた海があることを、僕はちゃんと知っている。でも君の話では、そういう海があったとき、僕はただの、ちっぽけな卵だったに過ぎない、ってね。
それはね、と少女は言う。
それはね、私たちが眠っていた今までの間、ずっと教育がなされていたからなんだよ。
そうか、と僕は肯いた。眠っている間を有効活用してたってわけだ。じゃあ、僕は本当に、今日の今日まで眠り続けていたというわけなんだね、と聞くと、少女は微笑んで、そうだよ、と答えた。
海は、穏やかに揺らいでは僕らの部屋を攫っていく。
聖書では、僕たちの他の動物達も、僕たちと同じ船に乗っているはずなんだけど、と僕が呟くと、少女は答える。
動物達も、きっと私たちと同じように海のどこかで眠りについているはずだよ。揺らされて、揺らされて、それはまるで母胎か、卵の中に眠っていたときみたいにね。
そうだね、と僕は肯く。じゃあ、僕たちは彼らを眠りから覚ましてやらなきゃいけないね。少女は肯く。
そう、それが私たちの役割だから。そのときに僕は、彼女のほうが僕より数段現状を上手く把握しているってことに気づいた。もしかしたら彼女は僕より年上なのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。だって、実際、僕は自分が何歳なのかすら分からないんだから。それに、今の僕たちに年齢なんて意味がない。これから始まる新しい世界で生きていく僕たちにとって、今まで生きてきた年数なんて、全くこれっぽちの価値もない。
しばらく僕たちはそうして海を見ていたけれど、やがて日が沈んで真っ暗になってしまったので、どちらともなく眠りについた。真っ暗な中で海の水音が響いて、微かに揺れる部屋の中、僕は経験していないのにも関わらず、母親の胎内を想った。
やがて夜が明けて、新たな世界の新たな一日が始まるだろう。そして、白い小さな部屋が、僕たちのいる部屋まで流れ着く。僕たちはその部屋をそおっと開ける。
中にはきっと、鳩が眠っているだろう。その口に、オリーブをくわえて――。