失踪した公爵令嬢の愛馬だけが帰ってきた
その朝、公爵令嬢のテレーゼ・ファルケンハイン様が失踪したとの報告で私は叩き起こされた。
私は慌てて、寝ぼけながら厩舎で預かっていたテレーゼ様の愛馬——ノクスを確認しようとして愕然とした。
——ノクスがいない。
ノクスのいた厩舎は空だった。
繋がれた馬がひとりで逃げるなどということは考えにくい。王宮に侵入して、衛兵の目をかいくぐって厩舎までたどり着き、ノクスだけを盗んでいく、というのも考えにくい。それに、ノクスは賢いがとても人見知りをする馬だ。
そうなると、私の頭にはひとつのことしか思い浮かばなかった。
テレーゼ様が、ノクスに乗ってどこかに行ってしまったのだ。
私はまた慌てて、厩舎長にノクスがいなくなっていることを報告した。
その報告は、まもなく王宮全体に伝わるだろう。
テレーゼ様の婚約者でもある王太子エルンスト・ヴァルテンベルク殿下の耳にも。
そう考えると、私は憂鬱になった。
きっと私はひどく怒られるのだろう。厩舎に来たはずのテレーゼ様と馬を逃したのは、厩舎の馬番の責任だと。
厩舎に戻ると、ノクス以外の馬たちが、まるで同情するような目で私を見ていた。
厩舎の馬はノクスだけではない。テレーゼ様は他の王宮の誰かが探すだろう。私には私の仕事があるのだ。
ノクスとテレーゼ様のことは頭を離れなかったが、私は彼らに餌を与えることにした。
「イルゼ、ずいぶん不用心だったな」
そう言うのは、王宮で庭師をやっているヨナスという男だった。堆肥を取りに厩舎に来たのだ。
ヨナスと私、イルゼ・ブラントは、王宮で働く同じ平民として親しい間柄だった。
平民らしい素朴さはあるが、感じの良い男だ。
「深夜の厩舎に来て、馬に乗って出かけるなんて想定しているわけがないじゃない」
私が言い訳するように言うと、「それはそうだ」とヨナスは笑った。
「それにしてもあのテレーゼ様が王宮から逃げるとはな」
「ヨナスはテレーゼ様のことを知っているの?」
「ああ、よく王宮のお庭を散歩されていてな、声をかけていただくこともあったからな」
「そう。乗馬もお好きな方で、私もお話しさせていただくことは多かったのだけれど、とても素敵な方よね」
「ああ、そうだな」
「ご無事だといいけれど」
「何か事件に巻き込まれていないといいのだがな」
「事件?」
「だって、王太子妃になるような方が、自ら逃げるなんて考えにくいだろう? そう見せかけて、実は誘拐されたとか、最悪の場合……」
「やめなさいよ。縁起の悪い……」
そう言いながら、私もその可能性はあるのではないかと思っていた。
王太子妃教育のために王宮に滞在されており、合間をぬって毎日のように厩舎にやってくるテレーゼ様は、王太子殿下との未来を約束された幸福な貴族令嬢そのもの——少なくとも私にはそう見えた。
そのテレーゼ様が、自ら王宮から逃げ出したなどとは、にわかに信じがたかった。
さらに、もうひとつ、馬の世話をしている私だけが知っていることがあった。今のノクスに、ノクスを誰よりも可愛がっていたテレーゼ様が乗るはずがないという確信があった。
そしてその違和感は、夕方にはより強いものになった。
テレーゼ様の愛馬ノクスが、王宮に戻ってきたのだった。
その背中に、ノクスの主人は乗っていなかった。
※
ノクスの帰還は王宮を騒然とさせた。
混乱させたと言ったほうが正しいかもしれない。
様々な憶測と議論が繰り広げられたが、目的地まで逃亡を果たしたテレーゼ様が、馬を放したのだという結論になった。
いずれにせよ、馬が夕方には帰って来たので、そこまで遠くまでは行っていないのではないかと判断され、捜索は王都内を中心に、王都の隣町までの範囲に集中することになったようだ。
私が王宮の門にノクスを迎えに行くと、ノクスの周りを王族や貴族の方々が囲んでいた。
「何があったのです?」
ひとりの高位貴族らしい男性が、エルンスト殿下に向かって尋ねていた。
「ファルケンハイン公爵、申し訳ないが、私にもわからないのです……。今朝、テレーゼのいた客室に侍女が迎えに行ったら、部屋がもぬけの空になっていたようで……」
エルンスト殿下が所在なげに答えた。
その男性は、テレーゼ様のお父様であるディートリヒ・ファルケンハイン公爵のようだ。
「テレーゼは王宮で何か不満でもあったのでしょうか? 何か手がかりになるようなことは言っておりませんでしたでしょうか?」
ファルケンハイン公爵は焦りを滲ませながら、エルンスト殿下に尋ねた。
「いえ、何も……。王宮での生活では何も不自由はさせませんでしたし、王太子妃教育では、多少厳しいことを言われることもあったかもしれませんが、文句も言わずに真面目に受けておりました」
そう丁寧に答えるエルンスト殿下は、本当に心当たりがないように見えた。
「そうですか……。ではなぜ……」
「きっと誰にも言えないような悩みがあったのよ……」
そう言うのは、おそらくテレーゼ様のお母様のクラウディア・ファルケンハイン公爵夫人だろう。
「そうなのか? ヘレナは何か聞いていないか? おまえはたまにテレーゼに会っていただろう?」
ファルケンハイン公爵が尋ねたのは、テレーゼ様のお姉様で伯爵夫人のヘレナ・アイヒベルク様だ。
ファルケンハイン公爵家から、アイヒベルク伯爵家に嫁いでいるのだが、アイヒベルク伯爵との関係がうまくいっていないとの噂を聞いたことがあった。
「テレーゼは……王宮での暮らしは楽しいと言っておりました。王宮を自分から抜け出すというのは考えにくいと思います」
ヘレナ様は誰よりも妹のことを心配しているように見えた。テレーゼ様とは、きっと仲の良い姉妹なのだろう。
「何が言いたいのだ、ヘレナ?」
ファルケンハイン公爵が険しい顔でヘレナ様に尋ねた。
「考えたくはないのですが……誘拐の可能性も考えるべきだと思うのです」
「何だと?」
ファルケンハイン公爵の顔がさらに険しくなった。
「だって、ノクス……テレーゼの馬だけが戻ってくるなんて、おかしいではないですか。テレーゼはこの子が本当に好きだったのですよ。ノクスに乗って逃げたのであれば、ずっとノクスと一緒にいたはずです」
「王宮の衛兵や騎士が総出で捜索しています。必ず、見つけ出しますので、心配しないでください」
不穏な雰囲気をかき消そうとするように、エルンスト殿下が言った。
「どうか、よろしくお願いします」
ファルケンハイン公爵が深々と頭を下げた。
それに倣うように、公爵夫人とヘレナ様も頭を下げた。
皆様が解散しようとするので、私は衛兵に手綱を掴まれていたノクスに近づいた。厩舎に戻さなければならない。
「おまえが、馬番か?」
エルンスト殿下が私に気づいて言った。
「はい、そうです」
「なぜ厩舎を見ていなかったのだ? おまえが職務を怠らなければ、テレーゼが失踪するのを防げたはずだ」
エルンスト殿下に責められ、私は頭を下げた。
「申し訳ございません……」
「相応の処分を覚悟しておくのだな」
相応の処分……クビにされるのだろうか。
※
少し憂鬱な気分で、ノクスを引いて厩舎に戻った。
けれど、それよりも、私はノクスが無事で戻ってきたことに、心底安堵していた。
厩舎に戻り、私はノクスの状態を確認した。健康状態に問題はなさそうだけれど、お腹は空いていそうだったので、桶いっぱいの干し草を与えた。
鞍を持ち上げると、ノクスの背中には薬草が貼られていた。鞍と擦れて傷がついていたので、私が貼ったのだ。その薬草を剥がしてみると、傷は悪化していなかった。むしろ傷の状態は少しよくなってきている。
——間違いない。誰もノクスに乗ってはいない。
もしテレーゼ様が乗っていたのなら、体重がかかった鞍が擦れて傷は悪化しているはずだった。ノクスを可愛がっていたテレーゼ様が、傷を負ったノクスに乗るとは思ってもいなかったけれど。
「イルゼ、ちょっといいか」
そのとき、厩舎に入ってきた者がいた。
「ヨナス、まだ仕事していたの?」
「いや、仕事は終わりだ」
「そう。じゃあ、堆肥を取りに来たわけではないのね?」
「そうじゃない。俺が言いたかったのは、庭師を辞めるってことだ」
「は? 何でまた?」
私は突然のことに驚いた。
私が辞めさせられる前にヨナスが辞める?
「まさか……私の失態に何か関係しているの? 友だちのあなたが、私に用心しておけと言っていなかったから責任を取らされるの?」
そうであったら、私は申し訳なくて仕方がない。
しかしそんな無茶苦茶なことがあるだろうか。
そんな風に慌てる私を、ヨナスは笑った。
「ははは。そんな無茶苦茶なことがあるなら、もっと早くに辞めているよ」
ひとしきり笑って、ヨナスが少し寂しそうな顔をした。
「だけど、なくはないかもな。あの王太子殿下なら……」
「やっぱり私が殿下のお叱りを受けたことを知っているのね?」
「そうなのか……? やはりひどいお方なのだな……」
「『やはり』って、何か知っているの?」
「エルンスト殿下には気をつけたほうがいい。実は、お庭でテレーゼ様とお話ししたときにいろいろお伺いしていたんだ。……殿下は表向き、特に王族同士や高位の貴族に対しては感じのよい方のようなんだが……」
先ほど、ファルケンハイン公爵らと話していたエルンスト殿下は、確かに丁寧に対応していたように思った。
「一方で、自分の部下や低位の貴族、それに王宮で働く平民たちにはひどく高圧的でね。かく言う俺も、お庭の手入れで厳しく言われたり、殴られたこともあるよ。
テレーゼ様も、婚約した途端、自分の部下と同じようにみなされたようで……とてもひどい扱いを受けていたそうなんだ。作法がなっていない、公爵家の格が知れるなどと言われて、人目につかないところを狙って暴力を振るって怪我もさせられていたみたいで。あるとき、テレーゼ様は、『殿下に殺されるかもしれない』と言っていたこともあった」
ヨナスは嘘や冗談を言っているようには見えなかった。その顔は話しながらひどく憤っているようにも見えた。
殿下の平民に対する理不尽さは、私もつい先ほど感じたばかりだったが、それが婚約者のテレーゼ様にも及んでいたとは……。
「だから今朝、あなたは何だか縁起の悪いことを言っていたのね……。じゃあ、王太子殿下が怖くなって、あなたは辞めることにしたの?」
ヨナスは首を横に振った。
「いや、それは違う。突然のことなんだが、実家の父が倒れたと連絡があってな。俺が家と農地を継がないといけないんだ」
「そう……。それは大変ね……。あなたの故郷って……」
「ヴァルト村というところだ。この王都からは少し離れたところだが、のどかな農村さ」
「寂しくなるわね」
そのとき、突然、ノクスが首を伸ばしてヨナスの顔を舐めた。
私は驚いたが、ヨナスは笑って答えた。
「ヨナス、あなた、いつのまにかノクスに気に入られていたのね」
「いや、この子が人懐っこいだけだろう。じゃあ、俺は行くよ」
そう言って、ヨナスが去ろうとすると、ノクスがついていこうと一歩踏み出した。
けれど、手綱に繋がれたノクスは、それ以上進むことはできなかった。
「あっ……」
私は思わず小さく声を出してしまった。
去っていくヨナスにその声は聞こえなかっただろうと思う。
その瞬間、私の脳裏にある想像が浮かんでいた。
確信はなかったが、私は真実の一端に触れた気がしていた。
おそらく、テレーゼ様は誘拐されたのではない。
※
公爵令嬢のテレーゼ様が失踪してから数日後、その裁定は開かれた。
王宮の衛兵や騎士たちが、王都とその周辺をしらみ潰しに捜索したが、テレーゼ様は、依然として見つかっていなかった。
訴えたのは、テレーゼ様のお父様のファルケンハイン公爵だった。
そして、訴えられたのは、テレーゼ様の婚約者だった王太子エルンスト殿下だ。
「なぜ私が訴えられなければならないのだ?」
エルンスト殿下は露骨に不満を顔に出していた。
「エルンスト殿下、殿下の婚約者であるテレーゼ・ファルケンハインの失踪に関して、殿下に嫌疑がかかっております」
そう答えたのは、法務卿アルノルト・ヴァイゼンベルク侯爵だ。
「嫌疑だと? 私はやつの失踪には何も関わっていない! あいつが勝手に出て行っただけだ。こんなことをしている間に捜索を続けさせろ!」
「殿下、もしや、テレーゼ様にもそうした乱暴な言葉をかけられていたのですか? 普段の品行方正な殿下の本性が見えた気分ですな」
「ありもしない嫌疑をかけられているのだ。私だって取り乱しもする」
少しだけ声を落ち着かせて、エルンスト殿下が言った。
「こんな裁定は時間の無駄だと言っているのだ。テレーゼの行方を探すことを優先すべきだろう?」
「ご心配には及びません。我々は、テレーゼ様の行方を突き止めるのに、この裁定が必要だと考えているのです」
「だから、私は何も知らないのだ!」
エルンスト殿下が再び苛立ち始めて声を荒げた。
「ファルケンハイン公爵が訴え出たのには相応の理由がございます。公爵よろしいですか?」
エルンスト殿下とアルノルト法務卿がやり取りをしている間にも、ファルケンハイン公爵はじっとエルンスト殿下を見つめていた。その様子から、公爵が感情を強く押し殺そうとしているように見えた。
「はい」
ファルケンハイン公爵が、懐から一片の紙を取り出した。
「これは、公爵家に届いた手紙です。送り主はテレーゼです。筆跡や言葉遣いなどから考えて、あの娘のものに間違いありません」
エルンスト殿下が訝しげにファルケンハイン公爵を見た。
「ここには、テレーゼが王宮に滞在するようになってから、エルンスト殿下から受けていた暴言や暴行の数々が書き連ねられていました。中には公爵家への侮辱もありました」
「公爵、それは誤解です。私はテレーゼを愛し、気遣って仲良くやっておりました。テレーゼは王宮で慣れないこともあったので、多少の注意をするくらいはありましたが」
エルンスト殿下は、公爵に対しては努めて丁寧に対応しようとしているように見えた。
「ここに書かれている内容は多少どころではありません! これを読んで私は涙を流してしまいました。娘がひどい暴言を浴びせられ、暴力を振るわれていたことを知った親の気持ちはわかりますまい。私は王家との関係を築くことばかりに必死になって、何とひどいところに娘を嫁がせようとしていたのかと、強く後悔いたしました」
「だから、それが誤解なのです。少しだけ声を荒げたことはあるかもしれませんが、暴力などではなく、軽く小突く程度です」
エルンスト殿下は落ち着いて答えているように見えた。
そこに法務卿が割って入った。
「当然、裁定を開くかどうかの判断のために、その点については調査しております。テレーゼ様の侍女や、周囲の方々に話を聞いております。テレーゼ様に『愚か者』だとか『役立たず』と言うのは日常で、中には口に出すのも憚られるような暴言を吐かれていたようですな。侍女の方がお着替えを手伝うときには、テレーゼ様の体に傷や打撲の跡も多く見られたと証言が取れています」
「その侍女は私に恨みがあって、あることないことを言っているのだ」
「逆です。皆、あなたを恐れて最初は証言を拒んでおりました。ですが、名前を伏せること、王宮として身の安全を保証することを条件に、ようやく話してくれたのです。一人や二人ではありません。複数の者から同様の証言を得ております。彼らにもずいぶん辛くあたっていたようですな」
エルンスト殿下は言葉を詰まらせる。
「少し小耳に挟んだことはありましたが、我々にそうした姿を見せることはありませんでしたからな。ここまで支配欲の強い方だとは。
ですが、法務卿として数多くの犯罪者を見てまいりましたが、そうした二面性を持つ人間がいることは知っております」
「多少の誤解はあったかもしれん。だが、それでも、私はテレーゼのことを愛していたし、失踪と関連はない」
なおも落ち着いて答えるエルンスト殿下に、ファルケンハイン公爵が再び手紙を差し出した。
「娘は……テレーゼは、『エルンスト殿下に殺されるかもしれない』と最後に綴っておりました。娘にはこうなることの予感があったのです」
ファルケンハイン公爵の声は震え、目には涙を浮かべていた。
「娘を……返してください……」
私はその言葉を聞いて、思わず口を開きそうになったが、止めた。
「だから、私は知らないのです! テレーゼは夜中に自分で馬に乗って、どこかに出て行ってしまったのです」
エルンスト殿下は次第に苛立ちを募らせているようだった。
「そのことですが……」
アルノルト法務卿が口を開いた。
「イルゼ・ブラントさん、証言をお願いできますか?」
証言を促された私が前に出る。
「そいつは……馬番の平民か? なぜ平民などを裁定の場に呼ぶのだ?」
アルノルト法務卿はエルンスト殿下の抗議を無視し、私に頷いた。
私も頷き返し、証言を始めた。
「テレーゼ様は馬には乗っておりません」
「何だと?」
エルンスト殿下が反応した。
「テレーゼ様の愛馬のノクスは、鞍が擦れてひどい傷を負っていました。もし人が乗せて走っていたのであれば、その体重で鞍が押しつけられ、その傷は悪化しているはずなのですが、まったくそんなことはありませんでした」
「つまり、馬だけが放され、テレーゼ様は、馬と一緒ではなかったということですね?」
アルノルト法務卿が私に尋ねた。
「はい、テレーゼ様が馬に乗って逃げたことははっきりと否定できます」
私は余計な推測を口にするべき立場ではない。
ただ事実を言うだけだ。
「待て! いい加減なことを言うな! あいつは自ら出て行ったのだ!」
エルンスト殿下は私を睨み、怒鳴った。
しかし、私に代わってアルノルト法務卿が答える。
「馬に乗って、テレーゼ様が王宮から逃げたという前提は崩れました。何者かが、馬を放し、テレーゼ様が逃げたように偽装し、実際にはテレーゼ様を別の場所に連れ去った可能性もございますな。そして、テレーゼ様は『エルンスト殿下に殺されるかもしれない』と書き残しています」
「その何者かが、私だと言うのか?」
アルノルト法務卿は、エルンスト殿下の問いに、はっきりとは答えない。
「いずれにせよ、エルンスト殿下には詳しく事情をお伺いしなければなりません」
「ばかな……」
「知っていることをお話しいただけませんか?」
「だから何も知らないと言っておるだろう!」
エルンスト殿下は語気を強めた。
「……そうですか。仕方ありませんね。いずれにせよ、殿下が公爵令嬢であるテレーゼ様に暴行を加えていたことは確かです。テレーゼ様以外にも、あなたから被害を受けた方は多い。今後、自由に行動していただくわけにはいきません。国王陛下の裁可をいただいた上で、殿下を拘束し、改めて事情を伺うことになります」
アルノルト法務卿はただ事務的にそう告げた。
エルンスト殿下は、王太子の地位も、王位継承権も失うだろうと思った。とても次期国王に相応しいとは思えない。
そして何より、これから、長い尋問を受けることになるのだ。殿下は決してテレーゼ様の居場所を答えることはないだろう。
なぜなら、エルンスト殿下は、本当にテレーゼ様の行方など知らないのだから。
※
裁定の後、私は休暇をいただいて王都の外に出ていた。
主人のいないノクスに乗っての移動だった。人見知りをする馬だったが、今ではすっかり私にも懐いている。
ノクスの背中の傷もすっかりよくなっていた。
私は厩舎長に、ノクスを公爵家に返すと言って、連れ出したのだった。
目的の村に着くと、私はある人物の家を村人たちに尋ねて回り、やがてその人物の家を見つけた。
決して大きくはない村の、小さな家だった。
「イルゼ……?」
王宮で、私の友人だったその男が言った。
「ここに君だけが来たということは、きっとうまくいったのだな」
「ええ、すべてあなたの思い描いたとおりよ。私は、いまだにこれが正しいことだったのかはわからないけれど」
私は曖昧に微笑んだ。
「お客様か?」
そこに、家の中から初老の男性が出てきた。
「倒れたはずのお父様も、お元気そうで何よりだわ」
私がそう言うと、今度は友人の男のほうが曖昧に微笑んだ。
そのとき、何かを見つけたのか、私の後ろにいたノクスが小走りしだした。
その先に、若い女性がこちらに歩いてくるのが見えた。
ノクスは女性のところまで行くと、嬉しそうに頬を擦り寄せた。
「……ごめんね。もう置いていかないから」
そうノクスに言う女性の声が聞こえた。
「テレーゼ様……」
私が呟くと、友人の男が言った。
「人違いだ。彼女はエルザ……。俺の婚約者だ」
そんなわけはない。質素な格好で、お化粧もしていないが、間違いなくテレーゼ様だ。王宮に勤めている私には、高貴な方の立ち居振る舞いはわかる。明らかに平民のそれではない。
何よりも、あのノクスが知らない人間に自分から近づくはずがない。
「来月、結婚式を挙げるんだ」
友人の男は幸せそうな笑顔を見せた。
ノクスとじゃれ合うテレーゼ様も、とても幸せそうだった。
あの夜、テレーゼ様はノクスには乗らず、別の馬車にでも乗ってこの村にやってきたのだろう。
そして、ノクスを別のところに連れて行ったのは、おそらくこの友人の男、ヨナスだ。厩舎によく来ることがあったので、ノクスも大きな抵抗はなかっただろう。賢い馬だ。ひょっとしたら、ご主人のテレーゼ様の味方であることもわかっていたのかもしれない。長い距離を一緒にいたおかげですっかりヨナスにも懐いていたようだ。私が彼のしたことに気づいたのも、そのためだった。
王宮からある程度離れたところまで行ったところで、放されたノクスは、大好きなテレーゼ様がいるはずの王宮に戻ってきたのだ。そこに主人が戻ることは二度とないとは知らずに。
その言動を考えると、テレーゼ様の姉のヘレナ様も計画の実行を後押ししていたのかもしれない。貴族との政略結婚により不幸な人生を背負った自分と同じ運命を、妹には背負わせたくないと考えていた可能性もある。
テレーゼ様は誘拐された、あるいは殺害されたことにするのが、二人の狙いだった。テレーゼ様がもう二度と戻らない、ということを人々に思い込ませるために。私が、ノクスに誰も乗っていなかったことに気づくこともわかっていただろう。その上で、エルンスト殿下に疑いが向くように誘導したのだ。テレーゼ様の手紙は、その決定打となるように書かれたものだった。エルンスト殿下は同情に値するような人物ではないが、二人に利用されてしまったのも事実だ。
テレーゼ様が庭園のヨナスと出会い、何が話され、どう二人が深い仲になったのか、私にはわからないが、二人は恋に落ちたのだ。身分差を忘れることができるのであれば、ヨナスは優しい、いい男なのは間違いない。テレーゼ様はその身分差を意識するどころか、窮屈な身分を捨てたいとすら思ったかもしれない。
いずれにせよ、私は、このことは誰にも口外しないと決めていた。
エルンスト殿下との不幸な未来を避け、貴族や王太子妃の地位を捨ててでもヨナスと一緒になり、幸福そうにするテレーゼ様——平民のエルザ嬢を見て、私は、これが正しい未来だったのだと信じたかった。
けれど、人の運命まで捻じ曲げて得られたこの結果が、本当に正しいことだったのかどうかは、最後まで私にはわからなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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改めて、ありがとうございました!




