第5話 夕食
「……あ。そういえば、夕飯食べるの忘れてた。腹減らない?」
カイトが、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、思い出したように呟いた。
隣で夜空を見上げていた聖女――エルナは、その言葉に弾かれたように肩を揺らした。
「あ……はい。言われてみれば、お昼にお風呂を頂いてから、紅茶しか飲んでいませんでした……。なんだか、星があまりに綺麗で、お腹が空いているのも忘れてしまって」
エルナの腹が、まるでお返事をするように小さく『ぐぅ』と鳴った。彼女は買ってもらったばかりのモコモコしたパーカーの裾をギュッと握り、顔を真っ赤にする。
「だよな。よし、今から急いで作るわ。食材はさっき村で買ってきたもので適当に済ませようか」
カイトはいつもの脱力した調子で立ち上がると、キッチンへと向かった。
キッチンに立ったカイトの動きは、先ほどまでのやる気のなさが嘘のように無駄がなかった。背筋は延びその様子はシェフという感じだ。
村の市場で買った瑞々しい野菜たち――人参、玉ねぎ、ジャガイモ。それらを魔法のような包丁さばきで、鋭くとがれた石を木に通した包丁でリズム良く刻んでいく。
「カイト様、お手伝いしましょうか?」
エルナがひょこりとキッチンを覗き込む。現代風の女子が着る部屋着姿は、昼間の凛とした聖女の面影はなく、日本の夜を思い出すような恰好に見えた。
「いいよ、座ってな。これは俺の趣味みたいなもんなんだ」
カイトは厚手の鍋に油を引き、数種類の香辛料を投入した。
ジュワッ、という音と共に、鼻を突くような鮮烈で刺激的な香りがキッチンを満たす。
「……っ! な、なんですか、この香りは。鼻の奥がツンとしますけど、なんだか食欲が……」
「出来た、スパイスカレー。俺流のやつ。このカレーは、俺の特性だ。少し辛いけど、よくこの味を覚えておいてくれ」
完成したのは、深い褐色をしたベジタブル・スパイスカレーだ。
カイトが削り出した木のスプーンを添えて、二人は再びテラスのテーブルについた。
「はい、どうぞ。辛いから気をつけて」
初めて見るその液体と米をエルナが恐る恐る一口運ぶ。
「…………っ!! ――っふぁ、ひゃい(辛い)です! でも……美味しい……!」
エルナの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。口の中を駆け抜ける鮮烈な辛みの後に、じっくり炒めた野菜の濃厚な旨みが追いかけてくる。
「明日は味が変わるから楽しみにしててね」
カイトは平然と食べ進めるが、エルナはハフハフと息をつきながら、パーカーの袖を捲り上げて夢中で食べていた。
「カイト様……お野菜が、まるで宝石のようです。こんなに辛いのに、噛みしめるたびに甘みがじゅわっと溢れて……」
「それは素材が良いからだよ。……野菜は甘いから丁度いいだろ」
そう言いながら、薬草で作った脂肪の収集をおさえてくれる飲み物を飲み干した。
食後、静まり返ったテラスで二人は満足感に浸っていた。カイトは洗い物をさっさと片付けソファーに毛布を用意していた。
◇
その頃、すぐ近くの魔王城の一室。
豪華な天蓋付きのベッドに腰掛け、水晶球をじっと見つめている少女がいた。魔王軍の幹部、吸血姫のリリスだ。
水晶球に映し出されているのは、テラスで無防備にスパイスカレーを頬張るカイトとエルナの姿。
「……な、なんなのよ、この匂いは……っ!!」
リリスは、窓から流れ込んでくるあまりにも暴力的なまでに美味そうな香りに、思わず頬を赤く染めて呟いた。
鼻腔をくすぐるスパイスの刺激。それは、血を糧とする吸血鬼である彼女が、生まれて初めて食べてみたいと本能を揺さぶられた香りだった。
「 た、食べたい。どうしても食いたい……! 一口でいい、一口でいいから食べたいわ……!」
リリスは、魔王のあいつに手を出すなという厳命と、目の前の欲望との間で激しく葛藤していた。しかし、香りは残酷なまでに彼女の理性を削り取っていく。
彼女はたまらずバルコニーに飛び出した。
暗闇に紛れ、カイトの屋敷を凝視する。
「……くっ、早く寝ないかしら、少しでいいわ。あの鍋から少し頂いて逃げればいいのよ」
カイトの台所へ侵入すべく、カイトが眠るのを待ち構えていた。
◇
――その夜。
「やったわ! 寝てるはずよ。今しかないわ!」
リリスは静かに、カイトの家へ侵入した。
廊下をゆっくりと歩き、カイトの寝室の横を通ろうとしたその時。
「お、美味しい。この辛さのあとに野菜を食べると……」
「はぁ!!」
(み、見つかった!)
リリスはビクッ! と跳ね、サッと家から一度外に避難した。




