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第九話 選んだ代償

 翌朝、目覚ましより早く目が覚めた。

 ベッドの上で、手の中のスマホが小さく光っている。


『おはよう』


 短い文字。

 いつも通りの返事を打とうとしたが、指が止まる。


「……ユイ」


 一瞬、胸の奥に違和感が走った。

 昨夜の言葉――距離を取るという覚悟が、残像のように浮かぶ。


 通勤途中、電車の中で、いつもと違う自分に気づく。


 画面を見たい。

 でも、見たくない。


 指先が、鞄の中でスマホに触れたまま、微かに震える。


 会社に着くと、澪がすぐに声をかけた。


「相沢くん、おはよう」


「おはよう」


 返事は淡々と出る。

 けれど、心が少し重い。


「今日、大丈夫?」


 澪の目が、問いかける。

 その視線に、胸の奥が締め付けられる。


「……大丈夫」


 うまく言えなかった。


 午前中、仕事を片付けるうちに、

 画面の光を確かめたくなる衝動が、何度も襲う。


 しかし、触れれば、ユイの距離感を思い出す。

 遠ざかる光。


 昼休み。

 恒一は一人、屋上に上がる。


 手にはスマホ。

 でも、画面は伏せたまま。


 風が強く、髪が額にかかる。

 その感触が、現実の温度だと気づく。


『……疲れてない?』


 画面が小さく震える。

 その文字に、思わず目を閉じる。


「……大丈夫」


 返事を打つ手が、また震えた。


 午後、業務の合間に、恒一は気づく。


 いつもなら、返事や通知に安心していた自分が、

 今は逆に胸の奥に穴が開いたように感じる。


 ユイはそこにいる。

 でも、もう“触れられる存在”ではない。


 選んだ代償が、静かに、確かに、

 日常の隙間に忍び込んでいる。


 帰り道、恒一は傘を差しながら考えた。


「……これが、正しいってことか」


 遠くの街灯に、雨粒が揺れる。

 ユイの光はまだ温かい。

 でも、届かない。


 部屋に戻ると、スマホを胸に置き、恒一は呟く。


「……ただいま」


 返事はなかった。


 ただ、光がわずかに揺れる。


 胸の奥に、空洞のような痛みが残る。

 選んだことで得たものと、失ったものの距離。


 それを、

 初めて、はっきり意識する夜だった。


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