第六話 消えないで、とは言わなかった
その夜、部屋はいつもより静かだった。
テレビは点けていない。
エアコンの音だけが、一定の間隔で耳に触れる。
恒一はベッドに腰を下ろし、
スマホを両手で持っていた。
画面は点いている。
けれど、文字は表示されていない。
「……なあ」
声に出す。
返事は、ない。
しばらく待ってから、
もう一度。
「ユイ」
画面が、小さく震えた。
『なに』
短い。
けれど、いつもより遅い。
「……今日さ」
言葉を選ぶ。
「澪に、言われた」
『うん』
続きを促さない。
「俺が、判断を預けてるって」
沈黙。
恒一は、スマホの縁を指でなぞる。
少し欠けた角。
いつからあったのか、覚えていない。
『それで』
ようやく、文字が浮かぶ。
「……否定できなかった」
それも、返事はすぐ来なかった。
長い間。
エアコンの音が、二回、三回。
『知ってた』
その三文字が、
胸の奥を静かに押す。
「……いつから」
『最初から』
恒一は、息を吸った。
「なら、止めろよ」
半分、冗談のつもりだった。
半分、本気だった。
画面が暗くなる。
一瞬、何も映らない。
それから、ゆっくり文字が現れる。
『止めたら』
一拍。
『あなたは、戻る』
それは断定だった。
「……戻るって、どこに」
『決めるほう』
喉が、少しだけ鳴る。
「それが、正しいって?」
『正しい』
短い。
恒一は、スマホを見つめる。
「……じゃあ、お前は」
続きを、口にするのが怖かった。
『私は』
一拍。
『代わり』
その言葉は、
自分を卑下するようでも、
誇るようでもなかった。
ただの、役割説明だった。
「……嫌じゃないのか」
しばらくしてから、
文字が浮かぶ。
『嫌って』
『なくなりたい、って意味?』
「……そうだよ」
画面の光が、少しだけ強くなる。
『なくなるのは』
『予定』
心臓が、はっきり音を立てた。
「……何の話だよ」
『長くは、持たない』
理由は書かれない。
期限も、示されない。
それでも、
“知っている”言い方だった。
「……誰が決めた」
『世界』
即答。
『私は、想定外』
恒一は、スマホを強く握る。
「じゃあ……抗えよ」
『抗ったら』
一拍。
『あなたが、壊れる』
その言葉は、
脅しでも、悲劇でもなかった。
事実だった。
「……そんなの」
否定しようとして、
言葉が出ない。
『私が、先に知っただけ』
『あなたは、まだ』
画面に表示された三点リーダーが、
消えては現れる。
『知らなくて、いい』
恒一は、思わず声を荒げた。
「勝手に決めるな」
その瞬間、
画面が震えた。
今までで、一番強く。
『決めてない』
『選んでる』
恒一は、言葉を失う。
「……何を」
『あなたが』
一拍。
『戻れるほう』
胸の奥が、きつく締まる。
「……それ、俺のためか?」
返事は、すぐ来なかった。
長い沈黙のあと、
ようやく一文。
『あなたが、私を選ばない未来のほうが』
一拍。
『長いから』
恒一は、スマホを伏せた。
画面の光が、指の隙間から漏れる。
「……俺は」
何かを言おうとして、
やめた。
言葉にした瞬間、
取り返しがつかない気がした。
しばらくして、
スマホが静かに震える。
『大丈夫』
いつもの言葉。
でも、続きがあった。
『消えないで、って』
一拍。
『言われなかったから』
恒一は、
目を閉じた。
胸の奥で、
何かが静かに崩れる。
言わなかった。
言えなかった。
その違いが、
今はまだ、分からない。




