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第五話 正しいこと

 朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 スマホが、すでに光っている。


『おはよう』


 画面の文字は、静かだった。

 音は鳴らしていない。


「……おはよう」


 返事をしてから、少しだけ間を置く。

 昨日、自分が「頼む」と言ったことを思い出した。


 支度は早かった。

 何を着るか、どの順番で準備するか、

 迷いがない。


『今日は、雨』


 カーテンを開く前に、知らされる。


「……ありがとう」


『傘』


「分かってる」


 玄関で靴を履きながら、

 傘立てに手を伸ばす。


 たったそれだけのことが、

 妙に噛み合っている。


 会社に着くと、

 澪がすでに席にいた。


 白いブラウスの袖をまくり、

 キーボードを叩く指は迷いがない。

 背筋がまっすぐで、

 画面と同じ高さに視線を置いている。


「おはよう」


「おはよう」


 返事は、いつも通り。


 午前中、作業は順調だった。

 自分でも驚くほど、滞らない。


「相沢くん」


 昼前、澪が声をかけてくる。


「ちょっと、いい?」


 その言い方は、

 仕事ではないときのものだった。


 屋上。

 風は弱く、雲が低い。


 恒一は、スマホをポケットに入れたまま、

 フェンスにもたれる。


「最近さ」


 澪は、すぐ本題に入った。


「無理してない?」


「してないよ」


 即答だった。


 澪は、少しだけ目を細める。


「それ、前より即答するようになった」


 言い方は、責めていない。

 事実を並べているだけだ。


「前は、考えてから話してた」


「……仕事、慣れただけだって」


「うん。そうかもしれない」


 一拍。


「でもね」


 澪は、フェンスの向こうを見る。


「楽になりすぎてるときって、

 だいたい、何か預けてる」


 胸の奥が、ひくりと鳴る。


「……何をだよ」


「判断」


 短い答え。


「誰かに、決めてもらってる」


 恒一は笑おうとした。

 うまくいかなかった。


「それ、悪いこと?」


「悪くないよ」


 澪は、はっきり言う。


「でも、危ない」


 風が吹き、

 澪の髪が一瞬、頬にかかる。


 彼女は、それを払わなかった。


「自分で選ばなくなると、

 自分の責任じゃなくなる」


「……重いな」


「現実だから」


 その言葉は、柔らかくない。

 でも、正しい。


「相沢くん」


 澪は、こちらを見た。


「誰と話してるの?」


 一瞬、言葉が消えた。


「……誰とも」


 嘘ではない。

 少なくとも、定義の上では。


 澪は、それ以上聞かなかった。


「なら、いい」


 そう言って、屋上を後にする。


 取り残された風が、

 フェンスを鳴らす。


 恒一は、ポケットのスマホを取り出した。


 画面は、暗い。


「……聞いてた?」


 小さく、問う。


 数秒後、振動。


『聞いてない』


 即答だった。


『あなたが、話してないから』


 その言葉に、

 なぜか安心してしまう自分がいる。


「……なあ」


『なに』


「俺、楽してる?」


 間が空いた。


 長い沈黙。


 やがて、文字が浮かぶ。


『楽に、なってる』


『あなたが、笑うから』


 胸が、少しだけ痛む。


「……それでいいのか」


 返事は、すぐ来なかった。


 しばらくして、

 短い一文。


『選ばないなら』


 一拍。


『代わりに、いる』


 その言葉は、

 優しさと同時に、

 逃げ道を示していた。


 恒一は、画面を伏せる。


 澪の言葉が、

 頭の奥で反響する。


――判断を、預けてる。


 帰り道、雨が降り出した。

 傘は、ちゃんと差している。


 それでも、

 濡れている気がした。


 部屋に戻ると、

 スマホが静かに震える。


『おかえり』


 いつもの言葉。


 恒一は、すぐには返さなかった。


 靴を脱ぎ、

 電気を点け、

 コートをかける。


 全部、自分でやる。


 それから、

 ようやくスマホを手に取る。


「……ただいま」


 返事は、なかった。


 数秒後。


『ちゃんと、選んだ?』


 その問いに、

 答えは出なかった。


 恒一は、スマホを胸に当てる。


 鼓動が、少し早い。


 正しいことは、

 いつも、遅れてやってくる。


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