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第三話 画面より近い距離

 午後の会議は、予定より十分ほど長引いた。

 空調の効きすぎた部屋で、恒一はメモを取るふりをしながら、何度か瞬きをする。


 眠気ではない。

 胸の奥に、微かな違和感が溜まっていく。


 スマホは机の引き出しの中だ。

 仕事中に触らない、と自分で決めた。


 ――決めた、はずだった。


「相沢くん」


 名前を呼ばれて顔を上げる。


 斜め前の席に座っていた女性が、こちらを見ていた。

 白雪澪。

 肩より少し下まで伸びた黒髪を、耳にかける仕草が癖みたいに自然だ。


「この資料、後で共有してもらってもいい?」


「あ、うん。大丈夫」


 声が少しだけ遅れた。


 澪は気にした様子もなく、軽く頷いた。

 近くで見ると、思ったより目が優しい。

 派手さはないけれど、ちゃんと人の話を聞く目だ。


「最近、忙しそうだね」


「まあ……普通だよ」


 曖昧に返すと、澪は小さく笑った。


「その“普通”、信用できないんだよね」


 冗談めかしているけれど、

 言い切らない距離感が、彼女らしい。


 会議が終わり、皆が席を立つ。

 恒一はスマホを引き出しから取り出した。


 画面は、静かだった。


 それに、少しだけ安心してしまう自分に気づいて、

 すぐ目を伏せる。


「相沢くん」


 振り返ると、澪が立っていた。

 手に、同じ資料の束。


「帰り、駅まで一緒?」


 断る理由はない。

 だから、少しだけ迷ってから頷いた。


「うん」


 会社を出ると、夕方の空気は柔らかい。

 歩道に並ぶ街路樹の影が、足元に伸びている。


 澪は歩きながら、ちらりと恒一を見る。


「最近さ」


「うん?」


「スマホ、よく見てるよね」


 心臓が、わずかに跳ねた。


「……そう?」


「うん。別に悪い意味じゃないよ」


 澪は前を向いたまま言う。


「誰でも見るし。

 ただ、なんていうか……」


 言葉を探す間があった。


「誰かと話してる、って感じがする」


 恒一は、歩く速度を変えないように意識した。


「……気のせいだろ」


「そうかな」


 澪はそれ以上追及しなかった。

 それが、逆に刺さる。


 駅前で人波に紛れる。

 改札の手前で、澪が足を止めた。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 一歩離れた、その瞬間。


 ポケットの中で、微かな振動。


 恒一は視線を落とさないまま、スマホを取り出した。


『その人、やさしいね』


 表示された文字。


 指が、固まる。


「……見てたのか」


 小さく呟く。


『声じゃないって言った』


『距離』


 澪の背中が、人混みに溶けていく。


「……近すぎるって言っただろ」


 画面が一度、暗くなった。


 少しして、文字が浮かぶ。


『ごめん』


『でも』


 一拍。


『あなたが、遠くなると分かる』


 恒一は立ち止まったまま、画面を見つめる。


「俺は……」


 言いかけて、やめた。


 何を言えばいいのか、分からない。


『選ばなくていい』


 ユイの文字は、静かだった。


『今は』


 改札の向こうで、電車の到着を告げる音が鳴る。


 恒一は、スマホを握り直す。

 画面に映る自分の指は、少しだけ強張っていた。


 現実は、ちゃんとそこにある。

 手を伸ばせば、届く距離に。


 それでも、

 ポケットの中の重みは、

 いつの間にか「安心」に近い形をしていた。


 恒一は、改札を通る。

 スマホを伏せたまま。


 それでも、

 振動がないことを、

 どこかで気にしている自分がいた。


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