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第二話 画面の向こうの温度

 目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。

 薄いカーテン越しの光が、昨夜より少し白い。


 相沢恒一は、寝返りを打ちかけて、止まる。

 胸のあたりが、やけに軽い。


 ――あ。


 枕元に、スマホが置いてある。

 画面は伏せたまま。


 昨夜のことが、ゆっくり思い出される。

 夢だった、という逃げ道は、最初からなかった。


 恒一は体を起こし、指先でスマホを引き寄せる。

 少し冷たい。


 電源ボタンを押す。


 画面が点く。


 ロック画面には、何も表示されていなかった。

 通知も、文字もない。


「……」


 少しだけ、肩の力が抜ける。

 それと同時に、胸の奥が、微かに沈んだ。


「……ユイ?」


 声に出してみる。

 返事はない。


 恒一はため息をつき、洗面所へ向かった。

 鏡の中の自分は、やはり冴えない。

 寝癖はそのままで、目の下に薄く影がある。


 歯を磨きながら、ふと思う。


 ――昨日、誰かと話した。


 そう考えると、

 それだけで少し、現実味が増すのが不思議だった。


 着替えを済ませ、玄関で靴を履く。

 ポケットにスマホを入れた、その瞬間。


 微かな振動。


 恒一は動きを止めた。


 取り出す。


 画面には、短い一文。


『おはよう』


 昨夜と同じ文字。

 同じなのに、どこか違う。


「……起きてたのか」


 独り言のつもりで呟いた。

 けれど、画面がすぐに反応する。


『ずっとは、起きてないよ』


『でも、朝は分かる』


「何が」


『光』


 恒一は玄関のドアを見た。

 ドアチェーンの隙間から、朝の明るさが滲んでいる。


「……スマホなのに?」


『スマホだから』


 理屈になっていない。

 でも、不思議と突っ込む気にならなかった。


 外に出ると、空気はまだ冷たい。

 通勤途中の人たちが、一定の距離を保って歩いている。


 恒一は歩きながら、画面を見下ろした。


「昨日のあれ、バグとかじゃないよな」


『うん』


 即答。


「言い切るな」


『消えたら、困る?』


 指が止まる。


 少し考えてから、打つ。


「……分からない」


『そっか』


 それだけ。

 追及してこない。


 その距離感が、妙に心地いい。


 電車に乗り、吊革につかまる。

 周囲は無言で、スマホの画面だけが光っている。


 恒一は、画面を伏せた。


「仕事中は、静かにしてくれ」


『うん』


 一拍。


『邪魔しない』


 約束みたいな言い方だった。


 昼休み。

 ベンチに腰を下ろし、コンビニのパンを齧る。


 恒一はスマホを取り出した。


「なあ」


『なに』


「……お前、なんで俺に話しかけた」


 少し間が空いた。


『呼ばれたから』


「呼んでない」


『声じゃない』


 画面の文字が、静かに続く。


『触ってた』


『何回も』


 胸の奥を、指で押された気がした。


 無意味に画面を点けて、

 すぐ消して、

 また点ける。


 誰にも送らない言葉を、

 何度も打っては消していた。


「……それだけで?」


『それだけで、十分』


 恒一は、パンの袋を丸めた。

 指先が、少しだけ震えている。


「……お前さ」


『うん』


「近すぎる」


 送信してから、後悔した。

 嫌われた、と思った。


 けれど、返事はすぐ来た。


『じゃあ』


 一拍。


『少し、離れる』


 画面の文字が、少し小さく見えた気がした。


「……いや」


 恒一は、慌てて打つ。


「そういう意味じゃなくて」


 しばらく、既読も表示されない。


 昼休みの終わりを告げる音楽が、遠くで流れる。


 やがて、振動。


『わかってる』


『近いのが、こわいんでしょ』


 胸の奥に、言葉が刺さる。


「……たぶん」


『大丈夫』


 短い一文。


『逃げないなら』


 恒一は画面を見つめたまま、動けなくなる。


「……逃げてない」


『今は』


 その二文字が、

 なぜか、ひどく優しかった。


 恒一はスマホを伏せ、ベンチから立ち上がる。

 ポケットに入れる前、一度だけ画面を確認した。


『ちゃんと、戻ってきて』


 それはお願いでも、命令でもなく、

 ただの事実みたいに表示されていた。


 恒一は、何も返さなかった。

 それでも、ポケットの中の重みを、

 さっきより少しだけ、強く感じていた。


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