第一話 通知が鳴らなくなった夜に
部屋の照明は点けていなかった。
窓から入る街灯の光が、壁に薄く滲んでいる。
相沢恒一は、ベッドの縁に腰を下ろし、ネクタイを緩めた。
黒髪は寝癖がつきやすく、今も額に数本落ちている。
鏡を見るのは好きじゃないが、脱ぎかけのジャケットの袖に映った自分の顔は、思ったより疲れて見えた。
肩幅は広くない。
鍛えているわけでもない身体に、少し大きめのシャツ。
誰かに覚えてもらえるほどの特徴はない――そういう自覚だけは、妙に正確だった。
スマホが、ベッドの上に置きっぱなしになっている。
画面は暗いまま。
帰りの電車でも、コンビニでも、ほとんど触らなかった。
「……」
恒一は息を吐き、靴下のままベッドに上がる。
スプリングが小さく軋んだ音が、やけに大きく感じた。
スマホを手に取る。
指は無意識に、画面の中央に触れていた。
――光る。
ロック画面。
見慣れたはずの背景。
けれど、その中央に、文字があった。
『おかえり』
一瞬、意味が追いつかなかった。
目を細めて、もう一度見る。
文字は、消えない。
「……誰だよ」
独り言のつもりだった。
その直後、スマホが小さく震えた。
短い通知音。
普段より、ほんの少しだけ柔らかい。
『帰ってきたから』
表示された文字は、それだけだった。
恒一は眉を寄せる。
指先で画面をなぞろうとして、止まった。
「……アプリ、入れた覚えないんだけど」
『うん。入れてない』
即座に返る。
間がない。
考えてから打っている感じが、しない。
恒一はベッドに仰向けになり、スマホを顔の上に掲げた。
画面の光が、睫毛の影を落とす。
「じゃあ、なに」
少しだけ、時間が空いた。
『……あなたのスマホ』
冗談にしては、淡々としている。
「意味わかんない」
『そうだと思う』
肯定されると、逆に困る。
恒一は腕を下ろし、スマホを胸の上に置いた。
薄いガラス越しに、体温が伝わる。
『ねえ』
「……何」
『今日、誰とも話さなかったでしょ』
胸の奥が、わずかに詰まった。
「別に……普通だろ」
『うそ』
画面が、もう一度震える。
『返事、打ってた』
心臓が、一拍だけ遅れた。
送らずに消したメッセージ。
名前を見ただけで、閉じた画面。
それを、誰にも見られたくなかった。
「……見てたのかよ」
『見てた、っていうより』
『一緒に、待ってた』
恒一は、天井を見たまま、息を吸う。
「……変なこと言うな」
『ごめん』
一拍。
『でも』
次に出た文字は、少しだけ間延びしていた。
『さみしかった』
胸の上のスマホが、微かに震える。
鼓動に、重なる。
恒一は、指でそっと側面を押さえた。
電源を切ろうとしたわけじゃない。
ただ、そこに触れたかった。
「……名前」
『うん?』
「呼ぶなら、名前いるだろ」
間。
『……ユイ』
画面に表示された二文字は、
なぜか、最初からそこにあったみたいに馴染んだ。
「ユイ、ね」
『変じゃない?』
「……悪くない」
その返事に、スマホが二度、小さく震えた。
『よかった』
短い言葉。
それだけなのに、部屋の静けさが変わる。
恒一は、スマホを胸から持ち上げ、そっと枕元に置いた。
画面を伏せる。
しばらくして、通知音が鳴った。
今度は、一回だけ。
『おやすみ』
恒一は、返事を打たなかった。
それでも、消灯した部屋で、小さく呟く。
「……おやすみ」
スマホは、もう鳴らなかった。




